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中観派の運動論

未だ運動を開始しないものに運動はなく 既に運動を終えたものにも運動はない 現に運動しつつあるものにとって「運動」は必要ではない もし、別に「運動」があるとしたならば 運動しつつあるものが無くとも「運動」は起きるであろう 現象における変化の自発的な能動性の否定のように解釈できるこの一節は 一元論的な「空」の能動性を逆に表しているようにも取れるのですがいかがでしょうか。

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noname#143207
noname#143207
回答No.4

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。 > 竜樹は、密教の祖師の一人で人間として初めて法を伝えた方で龍猛とも言われています。密教の教えの系譜をご確認ください。  以下に、密教の大まかな系譜を列記しております。 龍猛(B.C. 2から3世紀頃生まれる) 龍智(詳細は不明。7年間、金剛智に密教を教えたとされる) 金剛智(669-741; インドに生まれる) 不空(705-774; 出生地不明) 恵果(746-805; 長安に生まれる) 空海(774-835; 日本に生まれる)  また、密教はB.C.7世紀頃に確立されたとされています(始まったのは、5、6世紀頃)。これらの理由から、龍樹の別人説というものがございます(チベット密教のラマイ・ラマもその一人です)。実を申しますと、ひどっちの田舎は密教系の宗派なのであまり申し上げにくいことなのですが、ですが、ご信者様の純粋な信仰心・慈悲の実践の前では、問題はないと思っております。  以下の著書では、別人説というよりも、密教の創始者はそもそもおらず、便宜的に龍樹とした というものです。 松長有慶著「密教 インドから日本への伝承」 http://www.papy.co.jp/act/books/1-16219/   以下は、真宗大谷派のHPからです。龍樹菩薩の説明箇所では、次の記載が認められます。 「阿弥陀仏の本願による救済を説き、浄土教の祖といわれます。主著:十住毘婆沙論」 http://www.geocities.jp/yuurinji/230.html  つまり、龍樹は、浄土教の祖でもある訳です。つまり、矛盾が認められます。 > 一般的な分別智による解釈を顕了般若、般若波羅蜜といわれる無分別智による解釈を秘密般若といわれています。
顕了般若は般若心経の前中章でもあり、秘密般若は最終章の真言分でもあります。
  なお、「大智度論(摩訶般若波羅蜜経の解説書)」も、漢訳した鳩摩羅什(350-409)の手により、(当時の中国に受け入れられやすくするように)加筆されていることもほぼ確実視されています。  そもそも、浄土教の上述の「十住毘婆沙論」も龍樹によるものかどうかは非常に疑わしいとされています。  ただ、ご質問内容に関しまして、確実に申し上げられることは、  中観派(宗派としてのです)の龍樹の「空」とは? となりますと、 「縁起」、「中道」の同義語である というのが通説かと存じます。  ご気分を害される表現等ございましたなら、深くお詫び申し上げます。  ご参考になるところがございましたなら、幸いでございます。

noname#156094
質問者

お礼

重ねてのお答えありがとうございます。 気分的にはまったく問題ありません。 こうした学究的な推測は客観的な批判に十分耐えうるものでしょう。 それでいいのだと思います。 私にとって一番の問題は、空の論議よりも、むしろ「空の能動性」を提起せざるを得なかった私自身の体験です。 自内証のヒントを掴みたかったという事でもあります。 皆様に問うこと自体が、私自身の体験が浅すぎる、という事になるのでしょう。 そういった感じもいたします。 貴重な客観的資料を提示していただき誠にありがとうございました。 ご参考とさせていただきます。

その他の回答 (3)

noname#143207
noname#143207
回答No.3

 はじめまして、ひどっちと申します。 > 一元論的な「空」の能動性を逆に表しているようにも取れるのですがいかがでしょうか。  「空」は、“中道”との同義語でもあります。つまり、一方に傾くものではないものと察せられます。つまり、“能動”でもなく“受動”でもなく、ただ(“能動”と“受動”の中道としての)「空」と考えられます。 > 私には、縁起、無我、空といった概念や論法から一歩抜け出したい気持ちがあります。  「空」に対して、それを熟視すること、さらには概念化することは、“執着”にも通ずることもあり、避けるべきものかと理解しております。むしろかえって、そうしてしまった場合、反対派であった一切有部と同じもの(具体的な“法”を並べてしまう等です)となってしまいかねないとも考えられます。 > 竜樹が龍猛であったという事実からも、そのように思われてなりません。 ・「ナーガ」はサンスクリット語では蛇(蛇神転じて龍)。 ・「アルジュナ」は樹木の名前なので、「龍樹」と漢訳されています。また他方では、「アルジュナ」はインド神話の「マハーバーラタ」に登場する武将から(転じて猛)からその名前が来ているともされています。 従いまして、あまり“猛”には、意味合いがないとも考えられますが…..  ご参考になれば、幸いでございます。

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 「空」に関しては「般若の智慧」と不可分の事になりますが 一般的な分別智による解釈を顕了般若、般若波羅蜜といわれる無分別智による解釈を秘密般若といわれています。 顕了般若は般若心経の前中章でもあり、秘密般若は最終章の真言分でもあります。 この秘密般若によって明かされるところの「空」は、単に無自性・無我という静的な認識に留まらないもののようです。 事相面の修行において実際に「空」に参入された方の著書には、「空」は「大生命」であると説かれています。 さらに、大生命であるところの空の相を実相般若、それを明らかにする智慧を観照般若、言語による表現を文字般若と説かれています。 既に概念を越えたものとして、生き生きと説かれています。 詳しくは、窪内密雄著「般若心経の味覚」を参照してみてください。 竜樹は、密教の祖師の一人で人間として初めて法を伝えた方で龍猛とも言われています。 密教の教えの系譜をご確認ください。

  • neil_2112
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回答No.2

中観派に特別の「運動論」というものがあるわけではありません。中観派は常に他説を論駁する形で「すべては空である」と説いたのであって、ここでは運動についてもそれが相当する、と主張しているに過ぎませんし、運動を物理的視点で分析したわけでもありません。 >現象における変化の自発的な能動性の否定のように解釈できる これは明らかな誤読です。ここで主張されようとしているのは、運動があり得るのはものごとが自性を持たない(つまり空である)ためだ、ということです。 中観以前の有部の論議では法有が説かれましたから、運動を分析すれば「運動する主体」と「運動そのもの」というものをそれぞれ実体として立てることになります。中観派はその議論を引用されたような形でつきつめて示すことで、そこに矛盾が生まれることを説いたのです。つまりそこには、ものごとは空であり、そうであるがゆえに運動がなりたつのだ、という主張があるわけです。 >一元論的な「空」の能動性を逆に表している まず、「一元論的」という表現は、論理的対立の止滅という意味では便宜的に妥当する場合もあると思いますが、空もまた空とする中観派自身の立場では、彼らは全く一元論の立場にはありません。 また、実体の否定である空はもちろん実体を持たず、動きも働きもしません。『中論』には「(不空がなければ)空は存在しない」とさえ表現されています。ですから、空について能動性がうんぬん、というのは全くのナンセンスでしょう。 以前、『中論』について概念の実体視と言葉の関係から回答しています。ご参考までに。 http://okwave.jp/qa/q281928.html 「中論の解釈について」

noname#156094
質問者

お礼

ありがとうございます。 質問文は渡辺照宏著「仏教」からの引用です。 拙い我流の解釈かもしれませんが 現象における変化の自発的な能動性の否定=現象における変化の他律的な受動性の肯定=現象の本質は無我である事の認識 とはなりませんでしょうか? 空の認識以前の予備的な認識としてです。 また、現象における変化の他律的な受動性全体が、そのまま能動性であるとも 空の能動性であるとも といった事も考えられるのですが・・・ 私には、縁起、無我、空といった概念や論法から一歩抜け出したい気持ちがあります。 受動性全体がそのまま能動性であるといった、ところから三密のヨーガとの接点が見いだせるようにも思えるのです。 竜樹が龍猛であったという事実からも、そのように思われてなりません。 事相面からの解釈も含めてさらに考察をしてゆきたいと思います。 ご参考にさせていただきます。 ありがとうございました。

回答No.1

物体は、真に静止する事はできない。 なぜなら全ての存在は、時間軸的に光速で移動し続けているからである。 相対性理論において、空間的に運動する物体の時間が遅れるのは、そうした時間軸的ベクトルが、空間軸方向に費やされる事による。 また、そこにおいて対発生する過去(記憶=超光速)と未来(予測=光速下)において、時間軸と空間軸が入れ替わっている事により、未来が過去になっていく時の流れは、回転するスパイラル(宇宙膨張=異なるプランク定数の時系列化)となり、無の相対化たる光の風は、回転する量子波動となる。

noname#156094
質問者

お礼

お答えありがとうございます。 最先端の物理科学による現象の解を示されたものとして受け止めさせていただきました。 残念ながら数物系に疎い私には理解不能です。 現象に於ける法則性や数理といったものは、他律的な受動態の観測や推測から導き出されたものであると思われます。 これは、いわば縁起の法則の観測や数式化とも見なす事ができるのでしょう。 中観派において、何故、「運動」という生命現象に直接関わる題材を提示したのでしょうか。 意志という、生命の持つ能動性すらも否定しようとしたように見えます。 意志すらも、他律的な受動態の産物であり、独立した能動性を持つものではないという事を説きたかったのではないでしょうか。 また、他律的な受動性全体そのものが、逆に能動的であるかもしれない、という様にも解釈できるのです。 他律的な受動性全体(縁起)は、「空」・「無我」と表されますが、そのものが持つかもしれない能動性を同時に示しているのかもしれない、というように考えてみたのです。