• 締切済み

これ以上生きる意味が全く見いだせない。

タイトルの通りです。今20代です。 自分の前半生を考えると、不幸すぎて泣けてきます。 私はかなりの不美人なんですが、そのせいで、何も悪い事はしていなくても 小学生の時から理不尽ないじめに遭いまくってきました。 いつかは整形する事を目標に生き延びてきました。 とにかくどこに行ってもいじめられるので環境を変えればいいというものではないようです。 中学の時は勉強だけはかなり出来たのですが、 私より頭が悪くてもまともな容姿の子は普通に生活していて、偏差値75の私は「ただそこにいるだけで」嘲笑される。結局女の子が頭良くても全然意味なかったみたいです。内輪だけの友達は4人ぐらいいて一緒の大学に行こうと言っていましたが、顔で笑われるのが怖くて私だけ塾に行くことが出来ず。クラス替えとともにその子たちとも疎遠になり。 そんなある日 自動車の事故に遭い、脳の機能の回復にはかなりの時間を要すると言われました。 仕方なく高校を留年しましたが 新しい学年では友達が一人も出来ず毎日のようにいじめに遭い 自主退学。中身を知る以前に誰も話しかけてこないし 話しかけても無視されるか かなり冷たくされるか 笑われるのどれかです。 (過去の)友達はみんな東大京大なのに 私だけ早慶ランク。しかも滑り止め学部しか入れませんでした。 同窓会で友達にあわせる顔がありませんし事故の後遺症がなおも続いています。 大学でももちろんぼっち・・・と思いきや、いきなり男の子が声をかけてきて付き合わないか?と。 しかしこの彼は「境界例人格障害」だったらしく、毎日いう事が変わったり殴られかけたりしてかなり酷い目にあわされ 全力で逃げようとした所キレてサークルと学科全部に事実無根の悪い評判を流されました。というわけで入学後数か月にして、四年間のボッチ生活が確定してしまいました。 消化試合のように日々の授業を淡々とこなしていた頃 年収5千万の大金持ちと偶然知り合い告白され、玉の輿を狙っていましたが、たまたま再会した高校時代の同級生に嫉妬されて悪意のメールを送られ、つぶされました。 それとほぼ同時に二度目の事故にあい、就職活動は全部ボロボロ。説明会でも企業の人に顔を見ただけで笑われるなど理不尽な目に。 不細工すぎて話し相手もいない。男も女も寄ってこない。 中学の頃から親に整形したいと訴え続けてきたけれど、二百万近くかかるのもあり 金を貸してもらう事が出来ませんでした。それでも必死に説得して何とか金を借り、まずは目を整形したが、これが失敗。 鼻は今度は親ではなく親戚に資金援助してもらいましたがこれも、失敗とまでは言えなかったのですが、しばらくして、やや元に戻ってしまいました。この間も、祖母の不注意で鼻を蹴られたり 母親に引っ越しの手伝いを頼まれ術後なのに8キロ近くの荷物を担がされるなどが重なって 元に戻ってしまいました。それだけではなく、 生まれながらのアトピー体質なのでレーザー治療にも100万近くのお金がかかります。 すでに家族からの援助は得られない状況 この容姿ではパトロンを見つけるのも無理 整形しなおしたくても 水商売もできない。キャバで雇ってもらえるような顔じゃない。 自力で稼ぎたいけど もう精魂くたびれ果てたし もう一度整形したとしても 美人になる保障はナシ しかも骨格が太いので 顔のパーツが少々よくなったとしても ゴリラっぽさは変わらず。 次の整形がうまくいくかもわからないし どうせこの先の人生は余命を待つだけ 稼いで食っての繰り返しのルーチンのような人生しか待っていないと思う 出家したいけれど悲しいかな処女ではない これ以上生きる意味が全く見いだせない。たかが容姿されど容姿。 それをどうにも出来ない以上 活路も見いだせない。 容姿さえ何とかなればどうにでもなるのに。 この先生きていても、ただ生命の機械的な維持だけは出来るかもしれないけど、 充実した人生は無理だと思う。 そこまでして日々の糧を得て食いつないで、自分自身ではなく、自分を支配している生命の、 ただ生き延びたいという欲望にだけ奉仕して生き続ける意味はあるのか、 私は、自分の生命欲の奴隷だ、私自身はもはや生きたいと願ってない。 死んで、輪廻転生して新しい肉体を得て、やり直したい。 でも、自殺したバチが当たって来世でもっと不幸になるのが怖くて、自殺出来ない。 容姿ひとつで完全に終わった私の人生。ものすごく不幸です。 注・短絡的で全く参考にならない回答はおやめください。「贅沢」「もっと不幸な人の気持ちを考えろ」「地震の犠牲者のかわりになればよかった」等のありきたりな回答もおやめください。

みんなの回答

回答No.29

これ以上生きる意味が見出せないってなら、ここはひとつ、福島第一原発に行って、放射能が高いとこの作業でも手伝ってから、人生をお仕舞にしてはどうかね。 骨格も太くてゴリラと間違えられる位、腕力には自信がおありなんでしょう?

回答No.28

何かの素晴らしい研究で特許を取られたら、 優越感を満たせるのでは御座いませんでしょうか?

yj22
質問者

補足

回答ありがとうございます! 特許というと、黒いシリコン製の綿棒を作る事を10年くらい前に考えていました。 最近実用化され、かつ、他の人が特許を取ったようです。悔しいですね。 ただ、それによって優越感を得たいという思いが先立つと、うまくいかないと おもっています。 関係ないですがここで補足しておきます・・・形はそれぞれに違えど、 偏差値の話に突っ込む人がこれほど多い事に驚きました。 学歴etcってかなりデリケートな話題のようですね。 質問文に書いたのは浅薄だったようです。 もう一点。 容姿と運の悪さおよびその運の悪さが何処から来ているのか、という事を質問文の メインとしたつもりなんですがこれも自分の文章が下手だったようです。 周囲と比較して自分がどうこうというプライドの話をしたつもりではないです。 反省しています。

noname#130919
noname#130919
回答No.27

思想哲学と関係なく、個人的な人生相談っぽいので、私の普段の調子とは変えて、投稿してみます。美女の歴史などを、文献を上げて説明し、時代によって美の価値観は違うと示しても、鼻で笑われてしまうでしょうから。 私が現実世界で相談にのった人で「ブスでどうしよう」という女性は、よくいるんです。今にも自殺しそうなことを言っているので、相談された側は、失恋でパニックなのか?大変だ!と思う。で、話を聞いてみると、実は何のことはない、周囲からチヤホヤされてお姫様になれるだけの容姿をもっていない自分に不満だ、というのです。 この言い分と来たら、彼氏ではない別の男性一般に優しくしてもらえないとか、~~ちゃんは無能なのに美少女であるだけで注目されて、楽しそうなのが憎たらしいとか。極端にいえば「容姿でセレブになれないから人生に失望した」と主張しているわけです。偏差値が高い人に限って、二十歳過ぎて、こういう話をし始めます。なぜか。中学や高校の時に勉強に没頭し、自分が理想的ではない美人であることに、目をつぶって考えないようにしていたからです。しかし社会に出る時期になると、不平等をひしひしと感じ、鬱になってしまったというわけです。 大変失礼ながら、私は質問者さんが上記の例にはまると思っています。なぜか。とんでもないブスだというけれど、一応、告白してくる男性が2人以上いるのだから、そうそう見苦しくはないでしょう。ベトナムの枯葉剤の例をチラッと出している記述を見かけたが、質問者さんは指の数が5本ではないとか、異常ではないらしいから、正直、比較対象にならんでしょう。案外、いたって普通で、むしろ、中くらいに可愛いのじゃないだろうか。いるだけで周囲が拒否反応を起こすとか、笑いだすということはないと思います。むしろ自分の理想を満たせないということが歯がゆいのではないですか。それで、自分を過剰に悲劇のヒロイン化して考えているのではないですか。 私の推測するに、思春期から容姿がコンプレックスだった質問者さんにとっては、偏差値とやらが心のよりどころだった。が、それがうまくいかなくなってしまい、いわゆる存在意義が見失われてしまった。ギャルと化した周囲のテキトーなノリにもついて行けず、どこかで「この連中、これだから偏差値が低いアホなんだよな」と思っている。金満家の彼氏がいれば早慶のギャル連中に自慢もできたが、それもご破算になった。仕方ない、容姿を直そうということになった。が、周囲のレヴェルとは勝負にならない。 しかし私は、金持ちの彼氏だとか、金が借りられないとか、他力本願の傾向になっているのは「お子様だ」の一言以上、思いつきません。相手をつなぎとめる力がなく、好意に頼るだけの綱渡りで、見捨てられたら終わり。戦略も手管も全くないからです。ただ気の毒なのは、事故で高校を留年し、せめてもの慰めだったエリート街道を外れたことです。今は早慶の4年生くらいなのか知りませんが、私は再受験して東大に行ったらいいと思います。あるいは今いる大学で主席になってみたらどうですか。学長に表彰されると、周囲に対する気も紛れるでしょうし、奨学金が出るから、整形の代金が稼げるでしょう(私は整形って反対なんですが、それはさておいて)。こういった他との知性での差別化が、元々思い描いていた人生であるらしいから、それをやったらいいと思うのです。それで容姿なんか関係なく自分の実力だけで道を拓くんだという気持ちになった方がいいと思います。 しかし一言いえば、容姿にまつわるお姫様願望は、歯止めがきかないのです。東大に行ったら、周囲が優秀だから、「出来て当たり前」という環境になるでしょう。半端な才能は埋没してしまいます。すると周囲から突出する何かが欲しくなる。となると、勉学の才能には早々に見切りをつけて、容姿によりどころを求めることもありうるわけです。東大に限らず、オクスフォードだろうとソルボンヌだろうとハーヴァードだろうと、「お姫様になれるくらいに美人に生まれてこなかった」などと愚痴る人は数知れません。私はどの大学にも友人がいるわけですが、大体、その環境で突出した芽が出ずに埋没してしまった人です。失敬ながら、質問者さんは、小バカにしている早慶の中でさえ、埋没していませんか。 いや、もう案外、知性に磨きをかける気はないのじゃないでしょうか。なら容姿もほどほど、頭も中くらいなら、それでいいじゃないですか。自分の身の丈に合った形で、自己実現を図るのが大人だと思います。お姫様とか超エリートとか玉の輿じゃない限り嫌だというオール・オア・ナシングみたいな発想があるところが、若さゆえだな、元偏差値75とか言ってる癖に、オリジナリティない発想じゃん――って思います。何かが突出してようとしていまいと、人生は生きるに値しますよ。

noname#131473
noname#131473
回答No.26

こんにちは。 鉢かづき姫という我が国のお伽噺をご存知でしょうか。 http://homepage2.nifty.com/bu-ra-ri/mukasibanasi.htm また、とある山賊が民家に押し入ろうと覗き見した際、そうとは知らぬ女が一人、静かに髪を結い身仕度をするその楚々とした振る舞いに対し、思わず頭を垂れ我が身を恥じたという逸話をどこかで聞き及んだことがあります。 いずれもたかが子供騙しの作り話なのかもしれません。 でも、介入しうる他者の価値観とはまた別の最もかけがえのないもの、 己を慈しみ丁寧に生きていくということの大切さこそまずありきと説いているのではないでしょうか。 彼女たちにとっての美、不美の別は、まったく己に向けてのものなのです。 どうぞご自身を十分に慈しんで大切になさって下さい。 そして質問者様ご自身に内在する「美」をもっともっと見出していっていただきたいと願っております。 かけがえのない20代、まだまだこれからなのですから。 失礼致しました。

回答No.25

「不平等な境遇」を受け入れ続けるのは難しいですよね。 何事に取り組む場合にも、十分な準備を整えるのが間に合わなければ、 酷く遅れを取り、焦りが状況の悪化を促す場合もが有り得ますが、 『自分の判断によらない悪循環」への「責任」』もが各個人に転嫁され、 周知の通りに、昔から特定の宗教では、 『それが「因縁」に起因している』と語って参りました。 そして、『元々(から)特別なOnlyOne(である)』と歌う「詭弁」もが、 繰り返しで引用されている、という社会体制のせいで、 たとえ『「成功者」達が他者達の「努力不足・精進不足」を指摘し』ていましても、その誤謬への批判が阻まれていますね。 しかも「煩悩」を減らそうと試みましても、社交はそれを糾弾したがります。 でも遺憾乍ら幸福は必ず犠牲者達の存在を必要としています。 つまり、もし全員が幸福になれたなら、 「利益」が存在し得なくなりましょう。 従いまして、此の類いの質問への絶対的な正解は、 誰によりましても提供され得ません。 要するに、「不完全性定理」が諭してくれている内容の通りなのです。

yj22
質問者

補足

回答していただいた事には感謝いたしますが、 ここでエッセイを書くのはちょっと・・・

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.24

私がなるほどと思った言葉があります。モンテーニュの言葉です。  美貌と礼儀は初対面のときにのみ重要である。 それは私の経験で本当ですね。二度目からは、美貌も礼儀も余り気になりませんでした。

回答No.23

『生きることの「価値」』ではなく、 『生きることの「意味」』の紹介を求めていらっしゃるのでしょうか?

回答No.22

外国に行けば?日本ではない遠い国に

yj22
質問者

お礼

ものすごく良い発想ですね。 どうもありがとうございます。

回答No.21

 この質問から、考えたこと。  出家とは、肉体に張り付いた心をはがしたい、という事ではないかと。

回答No.20

 No.18&20です。  ★ ~~~~~~~~~  No18さんのおっしゃる事を聞いたとして、その場合、生命の意味とは何でしょう、、、  容姿論以外の生き方があるとしてやっぱり自分で見出すしかないのか、、、  なんか混乱しています。。。  ~~~~~~~~~~   ☆ このお考えには わたしは――回答が見つからないにもかかわらず―― 反対します。  普遍性をとうとぶことは おっしゃるとおりそうあってしかるべきだと考えますが その普遍性としての認識あるいはその認識をもたらす能力としてのいわゆる理性 これによって人は生きる――よく生きる――とは思えません。そう出来たり成ったりすることはあるでしょうが そう断定することは出来ないと考えます。断定してはいけないと考えます。  というよりも もっとはっきり申せば 認識一辺倒の雪○庵氏の方法論に対して真っ向からわたしは反対します。けっして人間のふつうの生き方であるとは考えない。こういう意味です。  《生命の意味を認識した》からさあ生きようというものではない。こういう意味です。  すでに死んだ姿においてでさえ生きて来ているゆえに 生命の意味や人生の意味あるいは人間とは何か世界とはどういうことかを問い求めるのですし それは 普遍概念のみによって成っているとは考えません。  文脈や生まれ出たときからの環境 あるいはそのつどの相手とのかかわり具合いや広くそのときの情況 これらの中に《わたし》はいるのですし 《わたし》はその世界と歴史そのものであるとさえ見なければならない。このとき 普遍概念は むしろ用いるべき道具です。  ですから 普遍語によって安堵するというのは 人生や社会の中にいず 外からながめている。そのように考えます。  どうでしょうか。

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