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世界史の質問
私の高校の授業によると、 1905年に10月宣言が出されてツァーリズムが崩れ、国会と憲法による新たな時代を迎えた らしいのですが、その翌年、1906年からストルイピン首相による反動政治が始まってしまいます。 ブルジョワ政党の立憲民主党もつぶされちゃってます。個人は救われていますが。 大貴族であるストルイピンを首相にしたのはニコライさんなんですか?立憲民主党の人ではないんですか?ニコライさんはどうしてそんなことができたんでしょうか。 ていうかなんで国会はそれを承認したんでしょうか。。 回答よろしくお願いします。
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あまり詳しくありませんが、参考までに。 当時のロシアにおいては1906年憲法により大臣の任免権は議会ではなく、 皇帝が持つということが定められていたからです。 この議会の設置の状況については当時のロシア帝国の状況によるもの、 すなわち国内の状況が思わしくない中、日本との戦争も重なり、 民衆を抑えきれなくなっていました。 そこで民衆の意見を飲み、投票で選ばれる議会 (ただし、皇帝の諮問機関ですので立憲君主制の議会などとは意味合いが異なる) を設立することになりました。 しかし議会は皇帝と敵対する状況になりました。 そのため、皇帝は自分で議会をどうにかできる憲法を制定し、 自分の力を議会に対して発揮できるようにしました。 …ということらしいです。
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- tanuki4u
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立憲君主制というのは、「君主も憲法を守りなさい」という制度なのであって、国民が主権者である・・・というワケではない。 日本で言えば、戦前までは、天皇が首相を指名した。 ※ イギリスも国王が首相を指名します。 戦前の日本も、イギリスと、慣習として第一党の党首を首相にしましょうや・・・となるまで長い時間がかかります。 1885年 伊藤博文 1898年 大隈重信 < とりあえず最初の政党政治、といっても明治の元勲でもある大隈が政党の党首でもあったという感じ。 1918年 原敬 本格的な政党政治 30年くらいかかったわけです。
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