「土佐日記」とかな文字の普及
下記の文章は、「大学の日本史」という本の「漢文学の隆盛」という項の1節です。
かな文学の始まりとして名高い紀貫之の『土佐日記』は、土佐国(高知県)の国司であった紀貫之が任期を終えて九三四(承平四)年から翌年にかけて都の平安京に帰る旅路の出来事を、女性が「かな」で日記につづったかのように書いた作品である。当時もその後も男性貴族は漢文で日記を書いていたが、漢字文化をふまえたうえで、かなによって日本語を自然に表現する方向が見出されていったのであった。
お考えを教えていただきたいのは3点です。どれか一つでも構いません。
1 紀貫之は、なぜ「かな」を使おうという気になったと思いますか???私も高校時代、「漢文」は大の苦手でしたが、紀貫之も「漢文」が苦手だったのでしょうか???笑「かな」を混ぜたほうが分かりやすくて、便利が良かったということでしょうか???
2 現在、私たちは、漢字と仮名を併用して文章を作りますが、「土佐日記」は、現在の日本語を形成する重要な転機になった「作品」だと理解しても良いのでしょうか???
3 「当時もその後も男性貴族は漢文で日記を書いていた」とあるのですが、朝廷や幕府で、男性も「かな」交じり文を使いだしたのはいつごろからでしょうか???