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豊臣家臣団崩壊について
石田三成と加藤清正らが決裂する切っ掛けは、朝鮮出兵時に(朝鮮で?)あった事を石田三成が豊臣秀吉に報告したから、と聞いたのですが朝鮮で何があったのでしょうか? それが豊臣家臣団崩壊に繋がっていった…との事ですが どなたかご存知の方、教えて下さい
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慶長の役において、日本軍は明・朝鮮軍の反攻に苦戦していました。蔚山城を普請中だった加藤清正は明・朝鮮軍に包囲され、陥落寸前まで追い込まれました。幸い、毛利秀元らの救援が間に合い、明・朝鮮軍は撃退されましたが、朝鮮在陣の諸将(宇喜多直家・毛利秀元・蜂須賀家政・生駒一正・藤堂高虎ら)は再度の明・朝鮮軍の攻勢に備えて陣容の立て直しを協議することになりました。 その結果、外側に位置する蔚山・順天・梁山の三城を放棄し、広がりすぎた戦線を縮小する方針を採り、軍議に参加していない小西行長らの同意を得ることなく秀吉に報告しました。 この再編計画は、消極的なものであると秀吉の怒りを買い、主導者として蜂須賀家政・黒田長政らが謹慎・蟄居・領地の部分没収の処罰を受け、加藤清正・藤堂高虎ら同調した者も譴責を受けることとなりました。 この時の軍目付は三成の縁戚である福原長堯であり、蔚山の戦いにおける救援軍の攻撃が十分でなかったことを秀吉に報告しており、福原は所領加増を受けていました。 処罰を受けた諸将は、福原と三成が共謀したものとして、秀吉の死によって帰国した後もこの問題で三成と対立し、やがて前田利家の死の直後の三成襲撃事件に発展します。 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007)は、この問題を始めとする豊臣家臣団の対立について言及しています。
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- isoken
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>石田三成と加藤清正らが決裂する切っ掛けは、朝鮮出兵時に(朝鮮で?)あった事を石田三成が豊臣秀吉に報告したから、と聞いたのですが朝鮮で何があったのでしょうか? 所謂武断派と官吏派の対立は朝鮮出兵以前から顕在化していた事ではありますが、私の記憶が正しければ、豊臣姓を下賜されていないはずの加藤清正が、明に対する公式文書に豊臣清正と署名した事、並びに自らと同じく朝鮮での先鋒を任された小西行長の存在を清正が疎んじた経緯を石田光成が秀吉に詳細に報告し、その事が秀吉の逆鱗に触れたという事であったと思います。 >それが豊臣家臣団崩壊に繋がっていった…との事ですが 儒教・特に朱子学の教理に依り主君に対する忠誠心が最高の美徳とされるのは徳川政権成立以降 であり、豊臣政権末期は未だ戦国時代の行動原理が残存していた、即ち功利的な離合集散が後世ほど非難される行動様式にはなっておらず、所謂豊臣恩顧の大名にも大別して3通りの立場・思考方法が存在しました。 1つは石田光成に代表される豊臣家絶対という考え方、2つ目はその時々に於いて自らに最もメリットのある主人を積極的に選ぼうという戦国武将的な藤堂高虎タイプ、3つ目は豊臣家に対する忠誠心はあるものの自家存続の優先順位の方が高いというタイプ、加藤清正はまさにこれに属すると思われます。 後年の講談等に依り、加藤清正は比類無き忠勇の武将であるという事になっておりますが、彼の行動を検証すると必ずしもそうではない。 これは想像の域を出ませんが、秀吉の鋭敏な嗅覚が光成と清正の豊臣家に対するスタンスの違いを敏感に感じ取らせた事、更には日本統一を成し遂げた晩年の秀吉にとって、豪勇並ぶ者無き加藤清正より能吏の石田光成の方が数倍大切な存在になっていた事が光成重用に繋がり、その事を嫉妬した清正及びその一派が光成一派を敵視した為相互関係に亀裂が生じ、豊臣家臣団の分裂・崩壊に繋がったものと思われます。
お礼
丁寧なご解答有難うございます 加藤清正が明で勝手に豊臣姓を名乗った事などは知りませんでした。 …そういう背景があるならば納得できます。 石田三成は忠実に職務を行った結果でも、ある意味現場主義者からの逆恨みを買ってしまった部分もあるのですね そして時代背景も踏まえたご説明、とても解りやすかったです。 加藤清正が晩年秀頼と徳川家の間で悩んでいた、と言われた事の背景がよく理解出来ました。
- oska
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>秀吉に報告したから、と聞いたのですが朝鮮で何があったのでしょうか? 朝鮮での内容は「勝者の記録」しか、残っていません。 本当の事は、誰にも分かりません。 日本史には、第三者が客観的に書いた記録は非常に希ですからね。 古代でも、日本書紀は「意図的に3世紀から6世紀の記録を無かった事」として扱っています。 藤原鎌足の陰謀が??? 陰徳太平記・甲陽軍鑑・信長記・太閤記・徳川実記も、勝者の記録物語ですからね。 忠臣蔵などは、赤穂事件を参考にしたフィクションです。 推測ですが、「現場方と事務方の対立」ですね。 環境の変化にも耐えて、必死で作業を行っている現場方。 机上理論で、現場を知らないで数字だけで判断する事務方。 今でも多いじゃないですか。 現場は残業・土日出金をしていても、事務方は定時退社・土日休日。 これで、給料は(手当てを除けば)同じです。 現場としては、事務方に反発しますよね。 当時も、同じなのでしよう。 現場を知らないのに、色々と机上の命令してくると立腹しますよね。 このイライラが、貯まりに貯まったのですね。 多くの文書では「戦闘の評価(査定)が、あまりにも低い事への不満」「関白への、不公平な告げ口」らしいです。 「実際に、何があったのか?」は、未だ確定した説はありません。
お礼
ご解答有難うございます ただ、石田三成自身も朝鮮へ渡っているので全く現場を知らない人間…と言うわけではないと思います。 やはり、太閤へ向けられない不満が石田三成に向かったと考えるのが妥当なのでしょうか
- isa-98
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遺恨ですので完全に正しい訳ではありません。 殆ど勘定だけで労に対してねぎらいの気持ちすら無いと激昂した説。 手柄を三成が勝手に評価して秀吉に報告したとされる物。 実際には大げさでも秀吉公への報告であり、秀吉に判断して貰いたかった。 戦いの後の恩賞が無い事は仕方ないが、勘定以外のねぎらいがどうしても欲しかった。 こう言う部分は否定出来ないでしょう。 >石田三成が豊臣秀吉に報告したから 三成と清正は講和策で対立して秀吉に怒られてしまいます。(文禄慶長の役) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3#.E6.96.87.E7.A6.84.E3.83.BB.E6.85.B6.E9.95.B7.E3.81.AE.E5.BD.B9 人質を取ってロボットのように人間を動かそうとする三成。 力で堂々と講和を勝ち取ろうとする清正。 馬鹿が勝手に人質を解放しました。 とでも報告し、秀吉に頭ごなしに叱られたのではないでしょうか?
お礼
ご解答有難うございます! 色々調べても詳しい事が解らなかったのですが、朝鮮出兵しても褒美として与えられる土地もなく、蔚山等での惨状も理解して貰えない事が不満となって結果的に石田三成憎しに繋がっていったのかもしれないですね
お礼
詳しいご解答有難うございます 蔚山の戦い前後の周辺で何があったのか解らなかったのですが、このような経緯があったのですね…! 少しずつ、連絡不足や精神的な行き違いが重なっていったような気がします これらの積み重ねが関ケ原に繋がっていくのですね…