- ベストアンサー
美の感覚の劣化と現代美術についての評言
- 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
- 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
- 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
- みんなの回答 (122)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。 おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。 木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。 これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。 以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
その他の回答 (121)
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
えーと、あとですね、ご質問にはすべてお答えしてあると思いますので、それが信じられないというのでしたら、美術か哲学のカテゴリであらためてご質問なさってください。 わたしの投稿を引いてお尋ねくださってかまいませんよ。 作家の固有名詞やスタイルにお詳しくないとすればブラジュロンヌさんには想像しにくいところもあると思います。みなさまに教示を求められると徐々に話が具体的に見えるようになるのではないかと思います。
お礼
ありがとうございました。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
☆ 矛盾というものです。 えっ? 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。 もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。 光学と自然科学が美術をどのように牽引してきたかという視点を持たれますと、キリスト教が幻燈を使ってイメージを庶民に伝えたことを詳しく考察できるでしょう。そこから、クレドとイメージについて考えるという方法が思い浮かびました。デカルトを参照しながらの作業になるかもしれませんね。そこから写真や映画やTVやインターネットへ飛び上がって、現代のイメージ論へ届くと思います。手がければ大部の著作になることでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございました。 ★★(回答No.68) ~~~~~~~~ 最後に付け加える形になりましたが、 ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。 ( b ) でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。 ★ (本回答)~~~~~~~~~~~ ( c ) 作家個人の制作の問題と美術史の変容の問題は別、というお話をさせていただいているのですが。 ( d ) もちろん美術史は精神史に沿うものであるという見解でそのように述べています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もし( c )のとおりであるなら 《作家個人の制作の問題》には《美術史の変容の問題》は 基本的に影響を与えない。ゆえに ( a ) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。 が生きるというものです。すなわち《いばらの道》をたどる以前にすでに 即自と対自の問題は済んでいる。( b )のごとく《人間の精神も変容を迫られた来た》けれども ( d )のごとく《美術史は〔* 個人の〕精神史に沿うものである》ゆえに ( a )の命題が生きる。こう帰結しています。 わかったけれども こうやってみづからの立ち場だけは守りたいというところだとお察しします。ありがとうございました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
わかりました。たぶんAだと思います。 ほっぽど購入しようかと迷いましたが、やっぱりやめときます。 ありがとうございました。頑張ってください。
お礼
つづいてですね。 ★★(No.69) ~~~~~~~~~ A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。 もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この規定だけでは 何とも言い難いところがありますね。 《自閉的》というのは 内向的であってそれはむしろ自省をひとつの軸とするということかも知れません。自省は周りまわってコミュニケーションを目指していると思われますし。 本のほうは わたしの感触では いまひとつはっきりとした見方がつかめない。こういう感じで読んでいます。『はじめにイメージありき』は けっきょくひとことで言えば分かりませんでした。 直前でのお応えを見てください。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
カウスもといカオスです。すいませんボタンみたい。 「モノ」ということでいいと思います。 昨晩また少し考えてみました。 「いばらのみちについて」 作者「何だかこのもやもやってどう表現すればいいんだろ。じゃあ作ってみよう。」 「できた。」 「そう、そう、こういうことなんだよね。まんぞく、まんぞく」 観賞者「なんだか、これみているともやもやするなあ。 あのもやもや表しているみたいだ。 なんか、わかるよねー。 ホントにもやもやする。すごいなー。」 その後、巷に広まった。 「そうそう、これっていったら、もやもやだよね。わいわい」 この最後の場面をどうネガティブにとらえているのかが、知りたいです。 A.近頃の作品は自閉的だから、ここまで広まるとは思えないなー。 もっとコミュニケーションを目指す方向になればいいのに。 B.こうなっちゃうと、もやもや=この作品って情報記号みたいになっちゃって 本質つまり、人間の奥のところに働きかけるっていうのが 薄れちゃうんじゃないかなー。 Aの意見だったら賛成で、Bなら反対です。 それは、太宰の富士山を見た時の愛情表現が理由です。 「けっ、富士山然としやがって、風呂屋のペンキ絵みたいじゃねえか。」 記号化してしまった富士山への愛情表現です。 これは、富士山やペンキ職人への最高の賛辞だと思うからです。 ですので、オブジェが空間デザイン的になったりするのもいいんじゃないかと 思うぐらいなのです。 ただ、それ読んでいないので、どっちが「いばらのみち」か、あるいは全然 違うことなのかもわかりません。 岡本太郎さんの作品はもえですね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ カオスです。 ☆ 《混沌》でしたら 《ロゴス(β)》の《中身の混沌たる直感イメージ》に当てはめました。それに限るというわけではありません。 ★ もやもや と もどかしさ ☆ これらふたつを分けてとらえなくちゃならないのぢゃないですか? もどかしさは 上の《ロゴス(α)に迫るような直感イメージ》における・まだ何となくはっきりしないなぁというときの感覚を言うでしょうし。 もやもやは いろんな場合があるでしょう。 わたしが 村上春樹の作品について《モヤモヤ・ワールド》と言っているのは 何ら新しい心つもりを定めないで現状維持をつづけようとするときの足踏み感です。一般にはわたしが 上司アマテラス役から受けた《アース役はつらいよ》なる電磁波の世界と呼ぶ閉塞感および停滞感のことです。 こうなると B に近い。近いけれども違うのは 《本質》をむやみに出すと困ると思うからです。もっとも《ロゴス(γ)》の直観ヒラメキは ものごとの本質を見抜く一種のさとりを言います。つまりむしろヒラメキとして捉えたほうがよいと考えるからです。 そうすると A だとも言い難い。 ということは 例示が具体的ではないから 何とも言うことが出来ない。かも知れません。この絵だとかあの絵だとかを例に出せば 話は早いかも知れません。 富士山の自然を一幅の絵に見立てたらですか? それはそれなりに 美の体験があるのではないですか? もやもやはないでしょうし。説明のために言葉で表現しようと思えば もどかしさがついて来るでしょうし。表現する前の段階でしたら すっきりしているでしょうし。 ★ 岡本太郎さんの作品はもえですね。 ☆ 分かりました。と言いますか 抽象画のことですよね? 美の体験までは行かない感じですが それは人それぞれなのでしょう。 つまり 《いばらの道》は たとえば富士山の美の体験においては その一瞬のうちに〔そのいばらの道を〕超えている。という見方なのですが どうでしょう?
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
(承前) こうして、objetといってもいろいろな方法論によってsujetの表象ではないところに立とうとした作品たちが様々あるわけですが、観賞する人々とどれだけ効果を共有できるかということが、作品の客観性をどれだけ約束してくれるかであり、しかしイメージの共有度ということでいえばすでに商業広告写真の世界がそれを超大に果たしてしまっているのです。うつくしさの表象などというものは、現実的にほとんどそこで生産されて消費されているとさえ言えます。均質に象徴がはたらきそのスピードも速いことによって、商品広告は同時代性が味方をしている業界なのです。 そして美術作品は、どんなにobjetとなっても、同時代性が指差す方向へ象徴が飛ぶことを、わずかにも蒙らないというわけにはいきません。むしろobjetだからそれを免れないと言ったほうがよいのかもしれませんね。時代が変われば用も道具も変わりますから、用にも道具にも振り回されるobjetと化した現代芸術は、プッサンの遠景や馬遠の余白と同じように時代を超えて人に共有されるものにはならないでしょう。 そしてもちろん、プッサンや馬遠がお猿さんやペンギンにとって無意味であるように、象徴(この心象連絡網を象意探しと混同しないようにしてください)を働かせる知能によってしかイメージの生起はないのですから、「普遍的な人間性」に届くために象徴ではない手段が表象においてあるとはいえないでしょう。ことさら「阿保でも病人でも」というのは無理でしょう。 最後に付け加える形になりましたが、作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。 クレドは用語の違いから嵌めどころが探れませんでした。またこちらを覗いてはみますがそろそろお暇しようと思います。
お礼
確認していただきたいのですが: * そうですね。《同時代性》がなぜそんなに《制約》となっているのか・成っていると見なければならないのか? 横着ですが この一点にわたくしの場合は問い求めが集中していると思います。 ご回答をありがとうございます。 ですからNo.48で質問を浴びせるかたちを取りましたが その最後の一文の前の文章についても 何故? という疑問を抱いています。 ★★★(回答No.48) ~~~~~~~ イメージが像を結ぶことむしろ極端には視像を結ぶことそのものを排する試みによって objet たらんとしているという側面は現代美術にはあるでしょう。その自己否定的契機をどう作品に投入するかは、著者の主張の眼目にあたるところだろうと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ この事項について今回あらためてご見解・ご説明を受け取ったと思います。 ★★ クレドのほうに重心を持っていけるとよいですね。 ☆☆ というお考えを持ってもよいということでしたら そういった方向においてもしくはそういった角度から切りこんでいくとすれば どうなるか? とは思っています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★(本No.68) クレドは用語の違いから嵌めどころが探れませんでした。 ☆ たしかに切り捨てたと受け取りました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (すなわち 木村の文章は 勝手ながら出汁にしているだけという見方をも このやり取りの途中で持ちました。著書はそれとしていま読んでいますが)。 すなわち ★★ 自己否定的契機 ☆☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。 ★★ 普遍的な人間性はあるでしょうか? また、シンボルつまり象徴が時代や場所を超えてそのとおりに解されることは可能でしょうか? ☆☆ 前者は そのまま《ある》と想定されるでしょうと考えます、 ★★ 後者についてはそのとおりというのは無理で、知的体系を動員して知解するという手続きによってしか、時代や場所を超えて象徴に踏みこむことはできないでしょう。 ☆☆ たぶん《象徴》を持ってくるとややこしくなると考えます。そうではなく――つまり 美術界のコンセンサスに対してただ上の〔* 普遍的な人間性はあるという〕想定にもとづくことのみによって異を唱えるのですが―― これこれの絵はうつくしいという事件があればよいという考えです。 人間にとって人間性というみづみづしい力と言って来ましたが そういう普遍性の想定です。象徴がどうだこうだは もう関係しないかたちです。 ★★ 霊感的と言ってよい素早さで論理のない結びつきに捕らわれなければ象徴のはたらきは無いからです。 ☆☆ たぶん ですから 象徴のはたらきかどうかを問う前の段階において イメージが単純に直観なるヒラメキを呼ぶ直感としてはたらくかどうか これを絵には問うています。いちおうそのようにやり取りは進んで来ていますので そのような切り口が間違いであるとすれば そのようにご批判ください。 * すなわち今回もあらためて ~~~~~~~~~~~~~ ★ 自己否定的契機 ☆ を何故持たなければならないか? 《美術界のコモンセンス》は何故そうでなければならないか? これになると考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なぜならば ★【ω】(本回答No.68) 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ(48でいただいた応答について)。 ☆ だからです。すなわち木村の言うようにその弁証法過程におけるところの ▲ 総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。 ☆ という視点からさらにすすんで《いばらの道》はすでに初めに超えられていると言ったことになるからです。《ロゴス(α)につながるロゴス(β)としての直感イメージ》を見ると言ったことになっているからです。すなわち ★【ω】 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。 ★ でも、歴史的に美術そのものが変容を迫られてきたのです。人の精神が自然科学や光学とともに変容してきた部分に呼応してです。そういう話として問題を扱わなければならないでしょう。 ☆ 矛盾というものです。 それとも じゃれついているのみなのでしょうか? じゃれつくというのは なぜそうするか? どういう意味があるのか? ★【ω】 作家のうちで、弁証法的過程は済んでいるとわたしも思いますよ。
- amaguappa
- ベストアンサー率36% (140/385)
48,55,59. 確認しておくべきと思うのですが、「何々を表現」するのではないことについてよく考えてごらんになったでしょうか。 現代美術のobjetとは即物的な様態を指しており、作品が、たとえば匂いとか手触りとかノイズ音とか空間占有性とか支持体(表象でない基底のほう)とかに狙いをつける、あるいは、作品概念自体をモノ化することに狙いをつけるのが常套となっています。それゆえ評言にも偏りが生じて、環境と関わりを持っている作品だとか、身体と関わりを持っている作品だとか、観賞において問題提起的だとの評言に強みがあり、うつくしいという評言は、甚だ立場を弱くしています。 うつくしいという評言が生きているのはファッションや広告の領域になっており、これは、20世紀初頭に台頭を果たした商業写真や写真雑誌の、写真というイメージ材の果たした役割が大きいでしょう。ですから写真論というくくりで語られる分野に踏み込まないと、イメージや美とその表象について考えることは片手落ちになるのですね。 そうした現代美術のobjetのありよう、心を揺さぶるにはどうやって関わってやろうかというありようは、美術に実験をもたらしたけれども、どうなんだろうか、というのが、木村氏の対自という言葉を後押しするはずです。 だから、対自と呼ばれる自己否定的契機が訪れねばならないのは、極端にいえば展示後に清掃のおばちゃんやブルドーザーのやっかいになる美術作品たち、撤収後にソフトウェアしか残らない美術作品たちであり、もっと穏やかなほうで言えば、なにを表しているではなく出来事や運動や経過の表出であるとか、規則性の再現であるとか、意味の抹消の痕跡であるとかを、観賞用に纏めたものたちにであるわけです。 ところで第二次大戦以後は、大量の死、墓、ガス室、ナンバープレートなどを、想起することと想起しないことの両義にかけて沈黙として提起する美術作品が溢れていますが、「象徴」というのはデリケートで、はたらかなくてもいいところにもはたらきますし、また、はたらいてよいところにはたらかない場合もあります。それが、モノとなるか表象となるかの境目ですね。象徴と関係がないということは、モノとの対峙を純粋にモノとの対峙とすることです。したがって、お猿さんやペンギンがするようにそれを眺めるということです。 戦禍のテーマにかぎったことではなく、纏わりつく表象性から逃げさせようとしているのか、呼び込もうとしているのか、揺れて戯れているような作品は即自的です。技法と形式は、観賞者を「表象の内容に現場参加させること」と「内容を想起させること」についての考え方の現れですが、その意味では、20世紀モダニズムを牽引したグリッドやコンポジションや縞や滴痕や拳跡などの美術は、技法と形式によって、現場参加や想起を拒絶したものでした。 20世紀モダニズムの源流に、唯美主義芸術と純粋芸術があります。写真の台頭以後の運動であり、視覚や運動の研究が進み、音楽性と感覚を重んじ、形式や概念を抽象することに熱意を注ぎました。そうして「うつくしさ」や「感動」「共鳴」を抽き出すこころみが、作品のobjet化への道なのです。そういうこころみは、実に普遍的な人間の心の揺れ動きを掻き立てることを目指していましたが、美術をとおしての現場参加や想起が、憧憬や省察や伝承に人々を駆り立ててきた歴史からすれば、画期的な、科学的な、あたかも最新の心理学のようなメソッドにのっとったものだと言えます。 つづきます
お礼
ありがとうございました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
むしろカウス的な連続性といった方が近いかもしれません。 公園化どこか外に出てそこの外気なり空気なりを風景なり を感じてみてください。そのとき体はどういう運動をして いますか。 あるいは、色がみを短冊に切って、 一回ひねっててーぷではり、任意のところをハサミ切断する 作業を繰り返すと、色の部分と白紙の部分が混ざっていき ませんか。 ところで、話はかわりますが、マシュマロさんの引用で、 >思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、 >永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。 >ミロのヴィナスは、 >この像のもつ「女性のイメージ」によってあらゆる人 >たちにその精神的意味を伝え、 >中世ヨーロッパの農民層のキリスト教徒化は、 >キリスト教聖者伝のイメージによって可能となった これは、個人的な偶像崇拝の考えと似ているかなと思いました。 つまり、観念や思想のもつ普遍的なイメージを抽出して オブジェにすることで、分かりやすくなって、 シェアが拡大したっていう。 ただそれと作者がもつ観念や思想を即自的にオブジェにすること とどうリンクしていくのかがわからないんですけど。 なにぶんそれ読んでませんので、何とも言えませんが、 すいません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 木村の文章は そのままでは飲み込めません。 たとえば 挙げられている事例が 適切かと言うと 全部が全部そのままを認めることはできないと考えています。 ▲ 思想に先立ち、それに生気を吹きこむイメージは、永遠にながらえ、時代と民族をこえて受け入れられる。 ☆ この場合の《イメージ》はすでに 単なるあいまいな直感であるだけではなく ただし何か論理をきちんと当てはめたというところまで行かなくとも すでにものの見方としては筋が通ったかたちである直観ヒラメキになっていることを言うはずです。 それを木村が文章の中の例示のごとく説明することは そのねらい通りにかなっているかと言えば あやしい。こうも考えます。 ▲ ミロのヴィナスは、この像のもつ「女性のイメージ」によってあらゆる人たちにその精神的意味を伝え、 ▲ 中世ヨーロッパの農民層のキリスト教徒化は、キリスト教聖者伝のイメージによって可能となった ☆ いづれの例示も 言わばその奥行きに乏しいと見ます。 もし《精神的意味》を言うのなら まづ初めのイメージおよびその直観ヒラメキにおいてその美的感覚をも加えて意味があると見ていると捉えるべきでしょう。そしてそのあとに 《女性のイメージ》でもいいでしょうから そのような――簡単に言えば平俗的な・まつわってくるようないくつかの――イメージをもともなって 伝えられたと見るのでしょうね。 《キリスト教聖者伝のイメージ》が先に来たと見るのも どうかと思いますねぇ。何ぼ何でもそれぢゃぁ 農民層は阿呆だったと言わんばかりです。その物語――聖書のことですが――の中身を耳で聞いて納得した上でなければ 絵(絵物語)だけで誰々は聖者だったと思うというのもおかしいでしょう。 ★ これは、個人的な偶像崇拝の考えと似ているかなと思いました。 ☆ 木村の文章だけからは そう思っても仕方ないかな。いや まづは眉につばをつけてください。やはり。 ★ つまり、観念や思想のもつ普遍的なイメージを抽出して オブジェにすることで、分かりやすくなって、シェアが拡大したっていう。 ☆ シェアの拡大は放っておきますが じつは ★ オブジェ ☆ というのがわたしにはまだよく分かりません。 たとえばキリスト・イエスの話を聞いてあたまに入った上で あの十字架上の像を偶像として崇拝すると言うなら それはそれとして オブジェとなっているという理解をするのですが だからオブジェとは何だ? と言ってもよく分かりません。ただ《もの》と言っているだけのように思われます。 オブジェって何ですか? * 偶像崇拝がいいと言っているのではありません。ぎゃくに十字架像でわるくないぢゃないかという観点に立っていちど言ってみますが もっと問題が大きくて複雑なのは あなたも提出したところの《聖者ないし聖なる》という概念の内容をめぐってのことです。 すでにこの《聖性》が偶像――つまり観念の偶像です――となっているときには 世の中のふつうのありさまを《俗性》として分けてしまって見ている。という弊害が起こります。聖と俗に分けて あたかもあたまの中が分裂したごとくに一方の《聖性》にあこがれる。生活〔の日常性〕がそれによって引き裂かれる。アイドルを引っ切り無しに求める。生活をほっぽり出してでもアイドルを追い掛ける。・・・ それにくらべれば磔の像などは――《ピエタ》の絵の話が出ましたが―― かわいい偶像ですよ。むしろ自分も同じようにわたしにとっての世の中のひとつの十字架を背負って社会に貢献するのだと思ったとすれば じゅうぶんではないですか。 オブジェって何ですか?
こんにちは、 たくさんの方が回答なさっていて、素晴らしいですね。 1)イメージとロゴスの関係について。ちょっとした思い付きです。 月並みな喩えですが。 月という実体があるならば、それをさし示す指が言葉である。 そして水に映った月がイメージである。 イメージとロゴスは実体を通してのみ関係があり、それ以外に影響しあったり、退け合ったりすることはありえない。 質問者さんの仰るひらめきはインスピレーションであって、これは言葉やイメージに掻き立てられた創造力の働きによる。そして時を経て生まれるのがヴィジョンである。 ヴィジョンは創作者の設計図であり、ラフスケッチのこともあり、ほぼ完成図に近いこともある。そして、そのヴィジョンを実体とするとそれを媒体に映した時にまたイメージが生まれる。 外界からのイメージと、創造力(内面)からのイメージをごっちゃにしてしまうと、木村氏のような言い回しになってしまうように思います。 言葉が足りなくてすみません。いつものように、質問者さんの豊かな知識と経験にもと付いた想像力で補ってくだされば幸いです。 2)お詫び ゴッホの絵(アイリス)を添付したときに説明不足でした。大変失礼をしましたので、お詫びを兼ねて説明いたします。 10年ほど前に地元の小学校で美術のクラスのお手伝いをしていました。”ピクチャー・レィディ”といいまして、一年に八人ほど画家を選んで、スライドと映写機を持って、絵画について、周辺のエピソードなど交えて三十分ほど雑談をする、という不思議な企画でした。 ミケランジェロ、ダヴィンチ、ピカソ、ゴッホ、フレデリック・レミントン、アンドリュー・ワイエス、ジャクソン・ポラックと続きましたが、いつも最後に一番好きな作品の投票をしました。一年生から五年生までまんべんなくまわりましたが、皆、不思議と良いものはよく判るんですね。 ミケランジェロですと”ピエタ”、ダヴィンチですと”モナリザ”、ピカソですと”鏡の中の女”、ゴッホですと”アイリス”が他を圧して一位に輝きました。そのときにしたのが、”ゴッホは白いアイリス”云々の説明です。子供だましなのは当然です。子供達にした説明ですので。 あの回答の後、すぐに旅行に出ましたので、時間に追われていて、失礼いたしました。改めてお詫びします。 我々の審美眼が衰えたかどうかとのご質問に、私の経験からは、”否”とお答えしたいです。 3)これがまた、宗教画に戻ることは出来ないかとのご質問には、また長い長い回答が必要ですので割愛させてください。新しい質問をなさってくださることを切に希望いたします。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 3)宗教画に戻る・・・ ☆ たぶん《人間画》と言えばよいでしょうか。 人(画家)によって或る程度見る角度や表現にあたっての切り口が違うでしょうから 同じ主題であっても・つまりは同じパウロならパウロについての事件を扱う主題であっても 現わされた視像は趣きがちがってくるでしょうね。その《人間》を表現する絵のことです。 直感をむろん排除しないわけですから 《神秘》も含まれるでしょうが わざわざこれからは宗教画というふうには言わなくてもよいのではないかとは思っております。 (ちなみに 写真では間に合わないですから 絵画になると思います。コンピュータ・グラフィックで表わされ得るか どうでしょう?) お答えを見て 新しい設問をするかどうかを考えてみます。 〔とは言っても これはたぶんみづからが創作をする人(つまり画家)でないと 設問の仕方も分からない部分が出て来るかも知れないとおそれますが〕。 ★ ”ゴッホは白いアイリス” ☆ 傍若無人の暴言癖は 直りません。(このところ 少し社交辞令が言えるようになりましたが)。これが ブラジュロンヌだとあしらっておいてくださるとこちらもたいへんありがたく安心です。 (しかも――しかもです しかも―― ふつうは《こちらこそお詫びをせねばなりません》と言うのですが それをめったなことでは言いません。相手の粗さがしを――話が深まってくると――平気でやりあうのが 信頼関係だと思い込んでいるところがあって お詫びのし合いをしないという考えをかたくなに持っています。あやまつなら我れありとも言って来ていました)。 (あるいは 人は誰からおそわるか? 〔情報や知識をひと(他人)からおそわりつつ〕自分からだ。というシンネンの持ち主なのですから ちょっとやそっとでは 煮ても焼いても喰いつきづらいだろうと思います。なにしろ 《常識のない高齢者》ですから)。 (要しますと そのほうが 暮らしやすい・過ごしやすい・つきあいやすいのではないかと・・・) ★ 1)イメージとロゴスの関係について。ちょっとした思い付きです。・・・ ☆ これは にわかには反応がさだまりません。 わたくしに分かっていることを項目別に書き出して 互いにとってよりよい答えを見つけ出したいと考えます。 (あ)★ 外界からのイメージと、創造力(内面)からのイメージをごっちゃにしてしまうと ☆ この《内外》という事柄については いままでもそうでしたが あまり問題にしていません。もしそれでは問題が起こるようでしたら さらに追究したいのですが 木村重信の表現はそれとして捉えておいて〔そこからもという意味ですが〕 互いに共通の別の見解を得たいと思います。 外界からのイメージも内面で受け止めますし 内面から起こるイメージも たぶん・おそらく外界との接触が間接的にでもあったのではないかと思いますし。内面でほかの人をひとり思い浮かべたとき内面のイメージを得たとすれば 外界との接触があったとも言えるでしょうし。 (い)★ インスピレーション・創造力・ヰ゛ジョン・設計図(ラフスケッチのこともあり、ほぼ完成図に近いこともある) ☆ これらの概念を どう位置づけるかですよね? 次の図式あるいは別の図式でみなさんと共通のかたちで追究するとよいとまづ思います。《実体》は 物体でも観念でも《ものごと》というほどの意味に受け取りましたが。 ○ ロゴスとイメージ ~~~~~~~~~~~~~~ ロゴス(α):無根拠〔と人間との関係は 非思考の場=クレド〕 _____________________________ ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい? ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょう。みなさんからも案を出してもらうのを待ちましょうか。ちゃおぽるぽさんからもこのような図式で説明を添えていただくなら 話をすすめやすいかも分かりません。 案が浮かんだら 補足欄にでもわたくしも書くことにします。そろそろニ千字にて。
夜分恐れ入ります。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 また、ご賛同いただきまして、この場をお仮し、厚くお礼申し上げます。 > ☆ 著作権の存続を言っておられるのですね。 かつて 暴力団の仕事について みかじめ料やノミ行為などがもし社会公共の仕事として必要であるのならば みなその今の暴力団員その人たちを公務員にすればいいではないかと書きました。 芸術家は 公務員という位置づけではだめなのでしょうね。 もしどうしても葬式仏教が必要であるのならば 坊主を公務員にすればよいではないかと考えたことがあります。 まず、葬式仏教が必要されるのでしたら、坊主を公務員にすることはむしろ賛成でございます(困っておられるお坊さんもおられるでしょうし、金銭の授受の関係も明瞭になることですから)。 暴力団につきましては、必要な分だけ、そうしてもよろしいかと存じます(財政状況から、全員というのは難しいかと思われます)。 ただ、芸術家の場合ですと、そのときの為政者のご機嫌伺いをしてしまう人達も出てきてしまう危険性もあろうかと推察されます。つまり、芸術と政治が密になり過ぎてしまい、その結果、為政者の意の向くままに世論を導いてしまうような作品をつくってしまうことが、若干ではございますが懸念されます。 > ひょっとして ひどっちさんは ご自分でも絵を画いているとかしたりして。・・・ 実を申しまして、愚生は、大学4回生の頃までは、声楽家を目指しておりまして...... 残念ながら、体格が貧弱であったため(当時は、53 kgぐらいでしかなかったものですから)、諦めてしまいました。 駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
分かりました。ご回答をありがとうございます。 ★ ただ、芸術家の場合ですと、そのときの為政者のご機嫌伺いをしてしまう人達も・・・ ☆ 公務員の芸術家は 自由をもらいものと思ったりすれば 何かと周りの旗色を見たりしてしまうでしょうね。あるいはぎゃくに自由過ぎて 社会関係としての適度の張り合い(緊張)がなくなってしまうかも知れません。 そうして ★ ~~~~~~~~~~~ 葬式仏教が必要されるのでしたら、坊主を公務員にすることはむしろ賛成でございます(困っておられるお坊さんもおられるでしょうし、金銭の授受の関係も明瞭になることですから)。 暴力団につきましては、必要な分だけ、そうしてもよろしいかと存じます(財政状況から、全員というのは難しいかと思われます)。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ よい方向に行くようなら そうしたほうがよいと思います。 ★ 実を申しまして、愚生は、大学4回生の頃までは、声楽家を目指しておりまして...... ☆ ううーん。化学者と音楽家ですか。また何かとおそわりたいと思います。音楽は 質問の仕方が分からないかなァ。とほほ。 新聞記事で 十代のワ゛イオリニストが 二三人出て来たそうですね。二十代では 女性が多くて この十代は三人とも男だそうです。 ベートーベンのパテティックは 最近なかなか面白いと思って来ているのですが 何か聞き方といったようなことがありますか? ベートーベンの余韻を残して エリック・サティを聞くとじつによろしいと思っています。サティに合わせたのかどうか分かりませんが けっきょくわたしは BGM として聞くのでそこのところは割り引いてあしらっておいてもらわねばなりませんが。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 現代芸術は、それぞれつぎの作品によって、役割を終えています。 モンドリアン《リンゴの樹》が出すのならば、ワグナーは少し的外れかとも思われます。と申しますのも、調整は(多少不安定なところがございますが)存在しているからでございます。ですが、つぎの終えた理由につきましては、概ね意見を等しく致します。 文学は、筋書から解放され、現実的な生活感を失なった。 音楽は、調性から解放され、旋律・和声・リズムの法則を失なった。 絵画は、写実から解放され、実用性とともに存在意義を失なった。 > 現代芸術は、それぞれつぎの事情によって、役割を終えています。 音楽や文学は、情報革命によって、著作権ビジネスが破綻します。乞食同然の辻音楽師や吟遊詩人たちの、自発的作品に戻るはずです。すべての芸術が“タダ同然”で鑑賞できるようになりつつあります。 未来芸術は、注文主や広告主に頼らず、作者の自己負担で作られます。 ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。以前ですと、パトロンの存在、現在では“家元制度”+“資本主義による経済活動”によって、生活費を得ておりますが、完全な自己負担での(注文主や広告者なしでの)芸術活動では、ある一定の歯止めがかかるように思われます。つまり、「金持ちでなければ、芸術家にはなれないのではないの?」 という懸念がございます。特に著作権が形骸化し てしまいますと、さらに、生活費を稼ぐのは困難になるのではないかとの不安もございます。その結果、芸術の衰退の可能性も否定できないかと思われます。 > 新規絵画様式の模索実験(キュビズム等)の成果とは何か? ☆ の《模索実験》 これをも超えて――ただちに無条件に超えて――芸術家自身もおのれの美の体験にもとづき 自己表現として創作に励んで欲しい。こう思います。 自由であれ。という至上命令。 全く、意見を等しく致します。無条件に超えて、“美”(=感動)を表現していってもらいたいと願っております。 ただ、「模索実験の成果とはいったい何だったの?」、「一般庶民 or その後の芸術家に与えた影響とは何だったのか?」につきまして、芸術史家の観点から総括して欲しいとも願っております。 以下、勝手ながら愚見を申し上げたく存じます。 将来、100年もしくは200年後の歴史家は、「20世紀芸術を振り返ったときには、“美”の愚直なまでの探究というよりも、“実験”という趣が強かった。そして、22,3世紀の今日では、20世紀の芸術作品において、見るべきものはごく限られたもののみである。」 と語るものと、愚生は予言致します。 最後まで、お読みいただきましてどうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 いやあ 全部復唱することになります。そうですね。そうですねと。 もっとも ワグナーについて そしてそれとからめて挙げられているモンドリアンについて 詳しくありませんので――ワグナ―の曲はよく聞いていましたが―― その点は申し訳ありません。 ★ ただ、一つ懸念されますのは、芸術家達の生活が何によって保障されるかでございます。 ☆ 著作権の存続を言っておられるのですね。 かつて 暴力団の仕事について みかじめ料やノミ行為などがもし社会公共の仕事として必要であるのならば みなその今の暴力団員その人たちを公務員にすればいいではないかと書きました。 芸術家は 公務員という位置づけではだめなのでしょうね。 もしどうしても葬式仏教が必要であるのならば 坊主を公務員にすればよいではないかと考えたことがあります。 ★ 二十世紀芸術の総括 ☆ これを経て ふたたび文学も音楽もそして絵画も あらたな創作活動を始めるかも知れません。一人ひとりの生きるありさまや美の体験があるでしょうから それぞれ切り口が異なっていいはずです。 万葉集4,500首の過半数は無名の人が詠んだものですし。 ひょっとして ひどっちさんは ご自分でも絵を画いているとかしたりして。・・・
お礼
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?