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豚肉で焼き鳥とはこれいかに?

焼き鳥といえば子供時分に鶏肉だと信じていたのですが、ある時、実は豚肉だと知って驚いたことがあります。その後、青年時代に銀座の焼き鳥ですずめの姿焼きというものを食べてみて「豚肉」で良かったと思ったものです。 さて、現在では焼き鳥といっても鶏鳥の肉のみは少ないと思いますが、何故、このような言葉と実際が違っても使い続けるのでしょうか。 歴史と発生言語文化、あるいはこのカテにあるような「常識」の範疇といえば許されるとは思いますが、ある意味「嘘」を皆で信じているということですね。 実際のものと言葉を合わせることを時においてやっていかないと『常識』という名の嘘が蔓延してしまうことになってしまうと思うのです。 焼き鳥は単なる例ですが、あらゆる分野でこんなのたくさんありますね。 そこで、質問は何故人々は言葉に甘すぎる「寛容すぎる」のかという質問です。 皆様のご見解をお待ちしております。 焼き鳥の話ですからお気軽にお答え願えれば幸いです。

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回答No.7

 ANo.4:mmkyさんだったか。羊頭狗肉は古い故事ですよね。いわれてしまったので論語なんてだしてきました。  コメント有り難う御座います。コメントを拝読して少し敷衍しなければならないと感じました。  【「しかし孔子は万事の嘘ものへの変化を慨嘆しているのである。」孔子も釈尊も同じこと言ったと思いますね。】両人はことば表現が同じでも内容とその抱懐する感情は全く異界同士ですね。  【「正見」と「正語」】は人の歴史では人生では外れるざるを得ないのではないでしょうか?単に、異端が信仰では已むを得ない以上に。創造の界の個別化というしゅくめいではないでしょうか?  【正しいもの見方をすれば、おのずと正しい言葉が出てくる。というのが孔子の考えなのでしょうね。】  いえ川の上(ほとり)にたって、舎くもの(ゆくもの)はかくのごときかな、という言い方は、『行く川の流れは同じにしてもとの水にあらずの』仏教的な無常とはまた違う世界を見ていたでしょう。  【器を正しく見れば表現は「觚」であるので、「觚」に似ても似つかない器を「觚」というなかれ。ですね。哲学者はそうありたいものです。】  世の中は安易に生活に即していく。そして滑らか人当たりよく。剛毅木訥は望めない。巧言令色が世の流れだということでしょう。  【渡辺 照宏著の『釈尊伝』を読み直してみました。導入のジャータカ物語から降魔成道などを読み進むうち、初期の常識であった霊的人生観がどうして『転生輪廻など無い、あの世などない。』という全く逆の唯物思想になりそれが常識になってしまったのかと考えてしまいました。】  宗教はどうしても此の世をはみ出して生きることに為りますね。渡辺照宏氏もよく存じ上げています。  あの世がない宗教や人生は科学と物の世界だけになりますから、意味性とか価値性はないですね。禅のあの世がないは別の話ですね。

mmky
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 いろいろ勉強になります。 私も河口のほとりに住んでおり「いく川の流れはたえずしてとどまりたるためしなし」は日々観ております。太平洋も眼前で日々吼えております。太平洋のうなりと息遣いを聞きながら書き込んでいます。 そんなとこで日々の流れと変転の中で変わらない真の自分を発見したいだけなのですが、巨星(北星)の志は未だわからず、でも日々小さな気づきがあれば余生を楽しめそうです。

その他の回答 (6)

  • heartmind
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回答No.6

言葉には二つの要素があるからじゃないかと思います。 1つは、パラダイムや設計図のような記号的で論理的な側面 そしてもう一つは、もっと原始的な、大地に根差す歌のような側面 どちらもコミュニケーションという目的を果たしますが、 赤ちゃんの本能的な泣き声や、風の音など、人間の感覚を呼び覚ます ような、歌や音というのも、なぜ心地いいのかという分析や、記号化 の再組み立ても、もっと進むといいのになと思います。

  • ausfeper
  • ベストアンサー率33% (46/138)
回答No.5

「めんどくさい」からだと思います。 みんなで飲んでるときに「このヤキトリ、鶏じゃなくて豚じゃねえか!」 とか言ってたら 「めんどくさいヤツ」「イチイチうるさいヤツ」「空気が読めないヤツ」 って思われてしまいます。 こういう人たちこのカテに多いです。 鶏でも豚でもいいんです。炙り焼きにしてあったら「ヤキトリ」で。 「ヤキトリ」って総称。 総称って楽なんです。問題が起きたら厳密にすればいいんです。 「厳格すぎる」と息苦しいから「寛容すぎる」んだと思います。

mmky
質問者

お礼

回答ありがとう。 「「厳格すぎる」と息苦しいから「寛容すぎる」んだと思います。」確かにそうですね、私も歳を経て、「あれ、それ」ですからね。 日本は本当に楽ですね。私も米国にいたことがあるのですが、例えば焼き鳥を例に取ると、焼き鳥いちょうといってもすまないのですね。鳥なら何の鳥、豚、牛肉、焼き加減はなど言わないと総称では注文を受けてくれないのですね。アイスクリームといえば、バニラとか何とか指定しないとだめなんですね。更にバニラではだめでベェニラといわないとだめですね。 豚肉や牛肉が入っていると怒る人いますからね。 確かに面倒くさいのですがおそらくそれで原理原則を守っているのでしょうね。ただアメリカでもマックだけはレア、ミヂアムレア、ミヂアム、ウエルダンぐらいの追加語で食べられますね。日本にはそれも無いですから便利ですね。 「総称って楽なんです。問題が起きたら厳密にすればいいんです。」これが日本人のいいところでもあるのでしょうね。仏教の戒律も同じ考え方ですね。でも総称に流れて本来の意味と全く違ってしまうというのが良くないのでしょうね。 ・・・座布団大盛りですね。

回答No.4

 羊頭狗肉がでたから、  子曰、觚不觚、觚哉、觚哉(子曰ク、觚 觚ナラズ。觚ナランヤ、觚ナランヤ。  (Netの記事:酒をいれる觚は客人の接遇のために、小振りのものであるのに、私的な大盃になっているのぅ。   これを觚というのか。いや違うであろう、ちがうであろう。)    下村湖人:一種の徳利。   何?これが觚か?觚が觚でなくなった。これは觚ではない。ならんや、觚ならんや。   觚とは角という意味じゃからのぅ。こんな手触りの滑らかな人に媚びるものが觚だというのか。   これをしも觚というのか!   弟子はいぇ今は觚といえば、みなこういうものです。と対えている。   弟子は、単なる徳利一つにそんな大げさになる必要などないであろうにと思う。   しかし孔子は万事の嘘ものへの変化を慨嘆しているのである。  ここ50年はある東洋の哲理から菜食になっているが、焼き鳥はよく暖簾を頭で分けた。  焼豚じゃぁチャーシュウになっちゃうからかの、私のくぐり始めた1955ころから焼豚を焼き鳥っていっていましたね。  そして本鳥(ほんどり)っていうのがあった。  なんでも当初のことから変移してしまってきているのが人間の歴史、安易さいい加減さでしょうか。  きちんと形式などをうるさくいわなくなると、日日の生活の流れでいろんなものが流れていってしまう。  そうじゃないんだ、っていうことがたくさんあるでしょう。  今、お寺さんでも僧職の方が敬虔に信仰一途に勤行していらっしゃいますが、創建者が臨席したら、違うことや嘆くことがいっぱいあるでしょうね。  受け継げないんですね。  私は大学(世界一小さい大学)の図書館で46年居ましたが、もう昔にコンピュータが入り図書館の気持ちや職員性も違いました。変化しました。  その大学の創建のときの意気や大事な気持ちも変移してきてしまい、反骨の気持ちが、世に逆らう気持ちが薄れてしまってきました。  46年いましたが退職してもう7年ですが。年寄り、昔の人です。  神棚、そして仏壇がありますが、私のような拝礼だったら昔の人に嘆かれるだろうな。  気持ちとやり方の意味が伝わり難い。  今、インドの思想で勉強と精進の生活ですが、大事な先生が見ておられたら、お前、それはお前の仕方だね。  まぁそこまでは好きにやってもいいけど、限界だよ。っていわれるでしょう。  本当の気持ちが未だ分らずに40年の勉強と精進です。朝晩、受け取るのは難しい。  朝二時、寝るのは10時。それでも人間が別だからなぁ、仕方ないなぁ。  なれないのです、なかなか。自分なりという仕方しかできない。  わが国の建国、維新の気持ち。受け継げないですね。しょうがない子孫達ですね。

mmky
質問者

お礼

krya1998さん回答ありがとう。 「しかし孔子は万事の嘘ものへの変化を慨嘆しているのである。」 孔子も釈尊も同じこと言ったと思いますね。 八正道のうちの「正見」と「正語」というものさしから外れるということを人は安易に考えているのでしょうね。 あるいは考えもしないのかもしれませんね。 正しいもの見方をすれば、おのずと正しい言葉が出てくる。というのが孔子の考えなのでしょうね。器を正しく見れば表現は「觚」であるので、「觚」に似ても似つかない器を「觚」というなかれ。ですね。哲学者はそうありたいものです。 昨夜、久しぶりに渡辺 照宏著の『釈尊伝』を読み直してみました。導入のジャータカ物語から降魔成道などを読み進むうち、初期の常識であった霊的人生観がどうして『転生輪廻など無い、あの世などない。』という全く逆の唯物思想になりそれが常識になってしまったのかと考えてしまいました。 「豚肉で焼き鳥とはこれいかに?」は「あの世も無いで仏教とはこれいかに?」と置き換えた質問なのです。 krya1998さんの回答の「孔子の問答」で、何故そうなったのかが少しわかったように思います。 ・・座布団10枚ですね。

  • hajime1018
  • ベストアンサー率23% (348/1509)
回答No.3

そんな事考えていたら、世間一般の焼きそばは、焼かずに蒸しているから蒸しソバに商品名を変えなくてはいけませんね まぁ、関西の焼き鳥チェーン店では焼き鳥屋はいまだに鶏肉メインで、他の牛や豚を使っている串はちゃんと豚牛と表示がしているぐらいですから豚を焼き鳥というのが不思議です 焼き鳥屋で出すから、豚であろうと牛であろうと、一くくりにして呼んでるんでしょうね 言葉とかで言うと、日本には昔から精進料理で野菜とかを加工して、鰻モドキや肉モドキ(有名なものが大豆を加工した牛肉そっくり食品)を作っていた文化も有るぐらいです 安い肉を使っての、高級肉そっくりの料理つくるとかの庶民の知恵なので容認では?とかの考えも有ります 東京に無いのに東京と付けたネズミーランドや 千葉の糞田舎が到着地点なのに、国際的に到着地点が首都の東京だと嘘表示している成田空港とかよりましだとおもいますよ

mmky
質問者

お礼

回答ありがとう。 私も関西生まれなんですよ。関西は割りと正直ですよね。 今は千葉をついの住みかとしていますが、「東京に無いのに東京と付けたネズミーランドや・・・」 はまさにその通りの大嘘ですね。・・座布団2枚ですね。 焼き鳥などはかわいいものですね。 東京にきた頃、寿司屋で「ちらし寿司」たのんだら「ご飯の上に魚のさしみが散らして」あるものが出ておどろきましたが言葉としては正しいんですよね。関西のちらしは「混ぜ寿司」ですね。まあ言葉は同じようでも外から来た者には一時的な混乱も生じさせますね。 それも刺激になっていいものですね。商売は厳密じゃないほうがいいのかもしれませんね。 でも千葉県民としては「千葉ネズミーランド、千葉国際空港」のほうが宣伝になっていいですよね。 まあ力関係で決まるものですかね。尖閣列島か魚釣島か、竹島か・・島かも力関係かな。

noname#131426
noname#131426
回答No.2

豚バラの焼き鳥?は好きですけどね。 これを切り離しては商売にならないでしょ。 豚バラを串に刺して炭火で焼いたヤツと、その系列だけじゃ商売にはならないわけで。 焼鳥屋に吸収合併されてしまえば、現在の状態になるわけです。 いいんじゃねーの。ウソも方便の範疇でしょ。

mmky
質問者

お礼

回答ありがとう。 「焼鳥屋に吸収合併されてしまえば、現在の状態になるわけです。」 これもいいですね。・・座布団一枚ですね。 哲学者の発想ではなく商人の発想ですね。私も商人になってみたいですね。

  • comattania
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回答No.1

羊頭狗肉というが如し。知らぬが花なんです。

mmky
質問者

お礼

回答ありがとう。 「羊頭狗肉というが如し」ときましたか。うまいですね・・座布団一枚ですね。 鶏の頭に豚の体とか鶏の頭に牛の尻尾ですか、発想豊かですね。そういう思考を持ちたいものです。

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