まず、No.7のご指摘につき。
手っ取り早く言うと「経験というのは自らが体験することばかりではなくて、見たり聞いたりすることをも含めて、外界の事柄を意識の中に受け容れることを指す」ということです。「自分が死ぬ」ということは、経験する主体という意識自体の消滅ですから「経験」は成り立ちません。「臨死体験」、つまり、その消滅の瞬間の直前までは経験できても、その消滅の瞬間そのものは決して自分では経験できません。
ですから、
>つまり「死に行く」ところまでは意識があるから経験できるが、
>「死ぬ」と意識がないから経験できないと。
という、お示しの仮定は正しいですし、
>「死」とは経験しえない。「死に行く」己を経験することが関の山
という部分も、せいぜいいわゆる「臨死体験」までしか行けないという点で正しいご理解です。また、
>死とは経験しえないものであり、なおかつ誰にでも訪れるからこそ、
>想像し備える為の作業としての生命活動及び「死の練習」があると
>理解できるのですが。
というご指摘も、まさにNo.6で私が記した趣旨に合致するものです。
さてしかし、No.6で示した回答は、あくまでも「他者の死を経験しうる生ける者にとっての死が持つ意味」でした。「死にゆく自分にとっての死とは?」という問題が残されます。No.6の「一つには」に続く、「もう一つには」に行きましょう。
結論から言うと「意味なし」です。「耳なし芳一」はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ですが、「意味なし芳一」ってやつです。ああ、なんと意味のないオヤジギャグ…。さらに意味のない余談ですが、ほういちさん、アレはどうしたんでしょうか。アレにもちゃんとお経を書いてもらったんでしょうか。想像すると怖いです。本編の「怪談」よりもずっと怖いです。やはり書いてもらったのでしょう。「アレなし芳一」ではありませんから…。ああ、なんと恐ろしい…。
ごほっ、ごほっ。ああ、すいません。ほんとに完全に意味のない余談でした。
さて「意味なし」です。実はこれもエピクロス以来長い長い伝統を持つ考え方です。実は実は、「死は経験できない」と言ったのはハイデガーが最初ではなく、エピクロスが最初です。理屈は一緒ですが、ちがうところは、ハイデガーが「己の死をみつめ、死に至る未来へ向けて己を投企せよ」と言ったのに対し、情念(パトス)に突き動かされる受動性を排せんと欲したエピクロス派快楽主義の立場では、「死ぬことなんか、ちっとも怖くないんだよ」とのことが主張された点です。
要するに、怖いのは死に至り死に伴う苦しみが怖いのです。「臨死」の過程で「経験」できる苦しみが怖いのです。それが過ぎればスッキリです。いや、このすっきりした快感自体も感じない。こうして「死」は「生」とはまったく無関係な、外的な出来事として切り離されます。生の意味は、死に至るまでの生の時間の中にしかない。「私」という自分にとっては、死は経験の外にあり、生の意味は生の可能性を広げ、実現していくことの中にしかない。と、そういうことです。こういう傾向の考え方がはっきり出ているのは、最近の人ではサルトルあたり。一歩間違えば独我論という危うさもありますが。