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死が分かったとき、何を思いますか?
こんにちは 人は、今は元気だけど病院で、近い時期の死を宣告されたとき、そして残りをホスピスで過ごすことになるとき、何を思うのでしょうか。残りをどう生きるのでしょうか。そして何を悟るのでしょうか。 今、ホスピスにいる女性と入退院を繰り返す女性の物語を読んでいて(知ってる方は知っていると思いますが)、その物語のホスピスの女性は足掻くでもなく、でも絶望するでもなく、ささやかな「やりたいこと」を淡々とやっていきます。そして、最後には自分に関わる人が悲しまないよう祈りながら死んでいきます。 また、入退院を繰り返す女性も、結局はホスピスに入ることになり、最初は「諦め」が心を支配していましたが、最後は穏やかに死んでいきます。 人は、死を目の前にしたとき何を思うのでしょうか?自分はまだ生きており死も宣告されておりません。 ですが、「生きている」と言う実感がありません。 逆に、絶対に避けられない『死』を突きつけられるすることにより初めて『生』を実感するのでしょうか?
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逆に、絶対に避けられない『死』を突きつけられるすることにより初めて『生』を実感するのでしょうか? 生き様が反映するんですね。その瞬間というか確実に突きつけられた時 生を実感するのは当然だと思います。 それは死の宣告という場合もあるし身近な人の死で実感することもある かもしれません。 ただ、死は通過点であり「死」それ自体が特に深く意味を持つという ことではなくてそれまでの生き方が試されるものでもあります。 「人生を精一杯生きてきた」と堂々と言える人なら 半年後に確実に死がきても明日来ると分かっても 普段通り過ごすことができるのだと思っています。 それには相当強くないとできない。 自分以外の為に生きている、と言える段階にまで成長しないと多分 できないのだろうなと思う。 何かを達成した成し遂げたという経験も実感も持たない人がいきなり 死を突きつけられても「日常を淡々とこなす」ことはまずできない。 いろんな欲があってあれもできない、これもできないと悲観するかもしれません。 逆に言えば死と向き合って日常を過ごすことができれば日々の何気ない 当たり前のことに感謝して生活することができるのだろうと思います。
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- itigoobasa
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今の私なら、死を受け入れず戦うでしょう。 残された子供がいるから。 その子が独り立ちできる時期なら、 受け入れます。 やり残した感がどのくらいで、変わるのではないですか? 毎日、がんばった、これ以上はできないと思っていたら いつ死が訪れても受け入れられる気がします。 と、言いつつ、あんまり痛いのは嫌だなと思う自分がいます。 普通に暮らしていると、生きているという実感を持つことは 難しいのでしょう。 若くして友人や身内が亡くなったら、 ひょっとしたら気がつくかもしれません。 若くて健康だから、実感がないのでしょう。 その時期を大切に過ごしてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 多分、僕が読んだ物語の女性も、明るく振舞っているように見えて必死で戦っているんだと思います。 このまま死ぬのはあまりにも悔しいと思って・・・。 何も悩みが無いように思えますが、中には言い尽くせないほどの思いを持っていたんだと思います。 下のお礼で『僕もジタバタしないと思う』と書きましたが、その物語の女性とは違う意味でしょう。 もはや生きていることに希望が見出せない自分にとって、「死」ももはや何の意味も無いんです。 ただダラダラと続く流れが止まる、そんな気分なんだと思います。
- tmrp2005
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『受け入れる』とは違うかもしれませんが それが自分の『寿命』だと思う事で 少しは前向きに生きれる気がします。 でも、それも『諦め』になってしまいますかね。。。 死にたいとはっきりは思わなくとも、誰しも精神的な疲れは あると思います。 生きている心地、何でしょうかね。。 『今』に満足している事、かな。
お礼
ご回答ありがとうございます。 諦めと、受け入れ、何かが明らかに違うのは分かりますが、では、何が違うのか、と訊かれるとスパッとした答えが出てきませんね。 たぶん、もうちょっと、少しでも中身がある生き方をしないとだめなんでしょうね。 僕は今の行き方に満足も不満も無いです。 言うなれば『惰性』でしょうか。 ただ『惰性』で動いている振り子や球がとまる、自分にとって『死』とはそんな感じですね。
たぶん、それは人それぞれ違うでしょうし、またそのようになってみなければわからないのではないでしょうか。 逆説的に言えば、今冷静に考えてこうなるだろうと簡単に言えてしまう人ほど、実はその場面になると取り乱したりするのではないでしょうか。 ともかく、そのような場面では簡単に自分の思ったとおりの思考が働くことはないでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね。 実際に、その状況になってみないと分かりませんよね。 足掻く人の気持ちは分からなくも無いのですが、足掻くでもなく恐怖するでもなく、絶望するでもなく、心に淀みを抱えながらも、うそでも明るく笑っていられる人はどんな気持ちなんでしょうか。 その物語に出てくる女性は、いろいろなものを抱えながらも、いつも明るく振舞っていました。ですが、近親者にはとても冷たくしていました。それは自分に関わることでその人の心が折れてしまわないように、その人が自分の『死』を悲しまないように、わざと冷たくしていたのです。 なんというか、とても複雑でした。複雑すぎました。 近いうちに必ず来る『死』を待つ人にしかわからない感情なのでしょうかね・・・。
自殺未遂者です。 >人は、死を目の前にしたとき何を思うのでしょうか? 個人的には記憶が無いです。 今でも思い出せません。 >逆に、絶対に避けられない『死』を突きつけられるすることにより初めて『生』を実感するのでしょうか? どうでしょうね。 これも個人的な感想ですが救急で運ばれ素っ裸され診察台で悶絶している時に『生』を実感しました。 失敗こいたぁ、まだ生きてるよぉ・・・死にたくなるような(?)嫌悪感でしたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 壮絶な過去を経験されたんですね。 死ぬことに失敗したとき、もう一度死にたくなるような嫌悪感を抱くんですね。 もし、半年後に確実に『死』がやってくると宣告されたとき、何を思うのか、それが聞きたいです。
私はその本を読んでいないのですが、その女性の行動と同じ行動を取る と思います。 『余命○ヶ月です』とか『余命○年です』って言われたら私は受け入れ れます。だって事故で即死する方も居るんです。その方から比べれば、 例え余命半月だって半月の時間はあるんですから。大切な人に連絡しま くります。『ありがとう』を伝えまくります。感謝を伝える時間です。 失礼な言い方ですが(あくまで私の考えですが)即死の方より幸せだと思 うからです。奥さんや彼女とケンカした日・ケンカした翌日に亡くなっ た方も居ます。大切な人にサヨナラを言えない所か、心無い言葉を言っ てケンカしたままお別れです。話したくても話せません・・・・。 だったら例え1日でも時間があるのならば私は幸せです。もちろん病気 だったりするのでその日の体調の変化具合で、浮き沈みはありますが、 それは体調不良での心の浮き沈みであって死への恐怖ではありません。 ちなみに死ぬのは怖くないです。ピストルで撃たれたり刺されたりする のは怖いですが死ぬ事よりもバンジー飛ぶ方が怖いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 僕も足掻くことなく受け入れると思います。 絶対に避けられない『死』、『死』が確実に来るならば受け入れようがそうでなかろうが、関係ないと思います。 だったら、『死』を受け入れて、その間自分は何ができるかを考え、まだ動けるうちに行動しようと思います。 死ぬ時期が分かっているならば、そのあいだ心に残っていること、心のモヤモヤ、それを取り除くことができるかもしれません。 心残りを少しでもなくして、死ぬことができるのは幸せなのかもしれませんね。 >死ぬ事よりもバンジー飛ぶ方が怖い 面白い考えですね(^^)
- reki4649
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もういい加減、生とか死とかに振り回されるのは辞めにしませんか? 「我未だ生を知らずいずくんぞ死を死を知らんや」 あなたは死の何を知っていますか生とは何ですか? 生がわからないのに何故「生きている実感」が無いと言えるのですか? 死を知らないのに予告された「死」で「生」を知れるのですか? それは何も考えてこなかった証拠です。 何も考えていないなら「生きている実感」も無いのは当然です。 考えましょう。 生とはなんですか?死とは?
お礼
ご回答ありがとうございます。 「生」とは、「死」とは、それは自分にはまだ分かりません。 若すぎて分からないのだと思います。 仰るとおり、僕は何も考えないで、普通に学校に通い、普通に受験して、普通に就職し、普通に働いています。 これで満足ですか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 そうですね。 それまでの人生を精一杯生きてきたなら、ジタバタしないような気がします。 人生に何の意味も持たず、透明なまま生きてきた人ももしかしたらそのまま受け入れるかもしれません。 僕もその透明な生き方をしている一人です。 自分の場合どうなるのか、そのときになってみないと分かりませんね。