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籠の中の野性
籠の中の野性 籠の中で動めく鳥は野性を失うまいとしているのでしょうか? 人は社会の中で野性を秘めたまま生きているものなのでしょうか? そもそも人にとって野性的なるものがありますでしょうか?
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我ながら言い足りなかった心地がしておりました。 >そもそも人にとって野性的なるものがありますでしょうか? これですよね。 質問者様は人間における、あるいは動物や家畜達にかかわる「野生対知性」という文脈で考えられておられる様子ですが、動物だって野生での生活で知性が不用だというわけでもないので、つまり動物たちにとって野性では不要だった(人間によって付加された)知性のみが野生にとっての反対語になるのでしょう。 では人間にとっての野生とは、人間の知性の対義語になるのかということですが、一般的に行って知性を失った人間は既にフツウの人間とはいえないので、やはり別の概念が必要になってくると私は思います。 野心ということばがありますが、これは人間として従来の枠を超えた、ある意味人間的知性と肉体の極限を超えた心身の働きのことであり、これが人間という生き物の野生のほとばしりの源というか、現象なのだろうと思うのです。 どんなステージにおいてもこれは見られるもので、同僚の誰もが考え付かなかった新しいアイデアの実施だとか、常識では危ぶまれるような冒険的な行動をあえてする気力のようなもの、先端的な科学活動、宇宙へのアタックなども人間の野生のほとばしりの典型的なものといえるのではないか、そんなことを思ったわけです。 ちょっと野生的に過ぎる概念かもしれません。
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- tohoho2
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ある本によると、野生=殺戮者だな。その本からの引用 「歴史にととどめられた傷害と流血(ジェリコの血に塗られた攻略から、ダハウの身の毛もよだつ焼却炉にいたるまで)の背後にある共通項は、無論、人類が幾重にも繰り返してきた面を示しています。理性ではなく(平和や善良さを求めるロマンティックな性質ではなく)殺戮こそが、人類の究極的な決意となっているのです。はっきりとした窮地に陥ったときに、人類は、同情も同胞愛も示しません。社会的に制約を受けた影響を示すのが精一杯です。それも、束の間のことです。遅かれ早かれ、歴史が示すような、自由奔放な殺戮者としての役割を演じるのです。」
お礼
ついに猛禽類のところまできてしまったように感じます。 お答えを読んでいて感じたのは、人間は鳥でいえば猛禽類なのだ、という感触でした。 鷲や鷹は同類の生き物を補殺してしまう凶暴性を秘めています。 その眼つきは怖い感じすらします(私が小鳥に親近感をもっているせいなのか) そして動かない、動きだせば一気に空を飛んで獲物を捕まえてしまいます。 向かうところ、縄張りに敵無しといった感じなのですが・・・ それでも自然界のルールに従って生きているようにも思えます。 人間にはルール無視の凶暴性があると・・・殺戮という 或いは阿修羅のごとき闘争本能があると・・・ だんだん野性的である事が濁った感じに思われてきそうです・・・。 ありがとうございました。
- ukiyotonbo
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>ちょっとこわいですね。 そうですか。これだけの野生動物を狩猟し、捕獲し、殺して食っている人間が自身には野獣性がない として日常をおくっているほうがよっぽどこわいのではないでしょうか。 それとも自分は殺さないのだから食うだけなら野獣性はないということですかね。
お礼
なるほど・・・ 知らない事の方がこわい、という事ですか。 確かに人間は、他の生き物を殺しまくって、食いまくっている この貪りはたしかに野性でしょう。 或いは一番始末に負えない野性動物かもしれない・・・という考えも成り立つ 高い知性を持った凶悪な野性動物・・・が人間 どうやら驕り高ぶりは禁物のようです。 ありがとうございました。
- cyototu
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>そもそも人にとって野性的なるものがありますでしょうか? 勿論あるよ。生きる力のことだ。そして、社会は籠ではない。ジャングルや草原で自分を脅かすものは高々獣達だ。そんな者を防ぐことなんて簡単だ。我々を取り巻いている人間達は、幸せ達成のためにはこれ以上の協力者はいないが、扱いようによってはどんなジャングルや草原の獣よりも獰猛だ。まっ、祟りすることが出来る神様は人を幸せにすることも出来るようなもんで、天神様みたいなもんだ。 私の知人が、鬱的に落ち込んでそれから立ち直って来た時に、人間て幸せになるためにはエネルギーがいるんですね、って言っていた。その知人は野性味を取り戻すことが出来たんだね。
お礼
>・・・野性味・・・ 野性的ではなく野性味という表現がいいと思います。 まさに野性そのものという感じの力強さですね。 そこに何があるのか・・・という分析の必要性さえ打ち消すほどの現実的対応の確かさがあるのでしょう。 人には人の野性があるのでしょう、知らず知らずのうちに・・・ ありがとうございました。
>籠の中で動めく鳥は野性を失うまいとしているのでしょうか? その通りだと思います。 >人は社会の中で野性を秘めたまま生きているものなのでしょうか? そんなことはありません。人間は今のままで十分自由であり、存分に「野生」を発揮できます。 人間としての荒野、自然はオフィスでありアスファルトジャングルなのです。 狼が群れて過ごすのはそれが自然な野生の姿なのです。 一匹狼は単なる変人(変狼)でありおちこぼれでしょう。 道端で尾ちんちんを出したり、わおーっと大きく唐突に叫んだりする”野生的”なひとは、ただの狂人だと思います。
お礼
>人間としての荒野、自然はオフィスでありアスファルトジャングルなのです。 たくましい限りですね。 一概に野性的であり、否定する要素はなさそうですね。 言い切れるところに敬服いたします。 ありがとうございました。
- ukiyotonbo
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私には内なる野獣が確実に存在しています。
お礼
ちょっとこわいですね。 ありがとうございました。
- kigurumi
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というより、誰だって閉じ込められて自由に動けないの状態にさせられると、気が狂いそうになりますよね。 中国だって北朝鮮だって、閉じ込められているわけで、オリンピックの選手に選ばれるかボートにのって脱獄するかしない限り籠の中の鳥なわけです。 で、こんなものだ これが世界のすべてだと思っているのなら、それはそれでいいのですが、手を伸ばせない狭い部屋だと、結局身体を曲げて寝るしかないように、心を折って生きていくしかなくなる。 で、どんどん壁がせまってきて、身体を曲げてなんかその形に収まろうとする前に、出られないかチャレンジするじゃないですか。 ねずみ女房って童話があって、屋敷に住んでいるねずみの奥さんは、自分が知る世界がこの世全部だと思ってたが、ある日籠に捕らえられた山鳩と出会い、別の世界の話を聞かされる。 山場とは空を飛んで生きてきたので、狭い籠は地獄。 ねずみ女房は、露とか言われてもなんのことかわからないわけです。 だけど、外の世界を知っている山鳩の話にわくわくしちゃうわけです。 で、ある日旦那が奥さんの様子がおかしいのに気づいて「なあ お前、ねずみは毎日チーズを探していればいいんじゃないか」って言う。 確かにそうです、それがねずみの生活のすべて。 だから もう山鳩に会いにいかないって思ったのに、また行っちゃった。 だんなは まーた食料を探しにいかず 遊び歩いたと思い、ねずみにかみついて暴行を加えた。 もう 行かない って思った奥さんは、だんだん おかしくなっていった。 そしてふらふらと夜中にさまよい、また山鳩の籠の前に来ていた。 そして突然 自分が何をするべきかわかった。 エサを食べないでぐったりしていた山鳩の籠のドアを歯でかんで開けた。 山鳩は音に気づき目を覚まし、ドアが開いていることに気づいて、ドアから飛び出した。 「これが飛ぶってことなのね」と見上げた奥さんは あっとなった。 ってラストが感動的なのですが、山鳩は外に世界を知っている、狭い籠で羽を広げられず 飛ぶ(生きる)ってことができず死に掛かったわけです。 奥さんはどこにでもいる平凡なねずみで いてもいなくてもぜんぜんどーでもいい存在な自分で、人生どーでもよかったわけです。 知っている世界がすべてで、それが全宇宙だって思っているので。 だけど 何かが足らなかったわけで、それが彼女の心を蝕んでいったわけです。 実は奥さんはルールという檻に入れられ実は不自由な生活を強いられていたわけですが、まさか自分が檻に入れられているとは認識していなかったわけです。 だけど 羽ばたくだけの広さが無いので、とっても息苦しいわけですが、なんで息苦しいのか ちっともわからなかったわけです。 というわけで、これが自分が認識できる全世界 と思っていても、実はずっとずっと狭くて、その狭さは心が折れるほどだったりするわけです。 で、結局奥さんは別世界を誰にも言われず自分で見つけたので、ぐーーんと世の中広くなり、それ以降、その屋敷で沢山の孫に囲まれ幸せに暮らしたってオチです。 物理的な広さじゃないんですね。 奥さんが閉じ込められていたところは、精神的な空間があまりにも狭かったんです。 それで心が折れかかった。 で、奥さん もがいて もがいて 死にかけた。 もう少しで死ぬってとき、別世界と遭遇した。
お礼
譬え話ありがとうございました。 精神的空間の狭さ、広さの事でしたね。 鳥って不思議なものですね。 実はこの質問を思いついたのは、籠の中の小鳥を見ていて感じるものがあったからです。 それは、おっしゃるような精神的解放の必要性といった事までには思い至りませんでした。 小鳥の行動を観察していて、小鳥自身の身になってみて思いついた事です。 少し書いてみます。 籠の中の小鳥は、もともとの飼い鳥ではなく、自然の中で捕えられてきた野性の小鳥でした。 籠の中の止まり木から止まり木へと、せわしなく動き続けて、休む事がありません。 その様子をじっと見ていました。 止まり木を移動する度に、少し音が立ちます。 その移動の動きも音もほぼ一定のものです。 ほぼ一定で、まったく変わらないようにも感じました。 なぜ?まったく同じ動きを続けるのだろう? なぜ?止めないのだろう? 一日中つづけている同じ行動に何の意味があるのだろう? じっと見ていて、またその音を聞いていて思いついた事は・・・ その連続した動きに伴った音の繰り返しに、微妙な違いがあるように感じたのです。 これは、何かを確かめているのではないのか? 微妙にズレては修正をしている、或いは、微妙にズラしては元の状態に戻している、のかもしれない? 当然ながら、小鳥自身はその音を聞いているのだし、音の変化に伴った飛ぶ感触や止まり木を掴む感触も知っているわけなのだ・・・ 大きく羽ばたく事はできなくとも、それに代わる何かをしているのかもしれない? 必要だからしている事とは一体何なのだろう? 野性だからこそなのだろうか? 籠の中にあっても失われぬ野性なのだろうか? それとも、野性を失うまいとしている事なのだろうか? 野性とは何なのだろう? 自分もまた同じか・・・? 本来は動物の生態学あたりから入ってゆくべきだったかもしれません。 小鳥=自分という感覚から、自分自身へと切り込んでいってしまいました。 微妙な動きの違いにこそ、野性の証明が潜んでいるような気がします。 回答者様のおっしゃる精神的解放の命題とはまた違って、生き物の働きそのものを感知したいという欲かもしれません。 愚かな欲かもしれませんね。
- 雪中庵(@psytex)
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人の中の細胞も、かつては「野生」もてアメーバと して、自然淘汰の中に身をさらして生きていました。 今は、ホルモン系や神経系といった「組織情報」に 対して条件反射的に反応することで、自然環境との 対応をせずに済ますようになりました。 とはいえ、同様に「細胞単位の野生」を失っていても、 自然における野獣は「野生」そのものであるならば、 籠の中の鳥も社会の中の人も、その“組織性”の外縁 に於ては、野生を発揮し続けているのです。 ただ、その自己の社会生命性を自覚化(他我)し、 それを自らの意思(愛)する事できるかどうかが、 「野生」を失うかどうか、自律的生命性を失って歯車 と成り下がるかどうかの分かれ目であって。
お礼
ありがとうございます。 >籠の中の鳥も社会の中の人も、その“組織性”の外縁に於ては、野生を発揮し続けているのです。 生命活動の組織性の一端において、という事なのでしょうか。 この場合、知的活動とは言えないにしても、という意味合いが含まれているように解釈させて頂きました。 野性的である事が人間的であるか否かについては、人間的な一部として十分有りうる、というお答なのだと思われます。 >自律的生命性・・・ この言葉に野性というものが表されている感じがしました。 広い科学的知見の立場からお答をいただきまして有難うございました。
補足
この質問に以下の事柄を加えたいと思います。 野性とは・・・生まれつきの粗野な性質、とあります。 ここで言う「生まれつき」も「粗野」も人間の解釈によるものです。 一般的に言う「野性」という言葉の対象が向けられるのは、様々な動物に対してです。 概ね、人間以下の知性をもつ動物に対して用いられていると見てもよいと思われます。 人間以下の知的動物の生存活動を「野性的」と言ってもよいのかもしれません。 知性が無ければ野性的であるとは言わないのでしょう。 野性的であるとは知性をも含んでいる事になります。 自らが思量する自我意識を知性と呼ぶのならば、動物的な野性的知性というものと人間的な自我的知性というものを分けて見る事が可能なのかもしれません。 その辺の境の解釈にも興味があります。 自我の目覚めが知性の目覚めである、という解釈が正しいのかどうかといった事にも関係してくるようにも思われます。 自我的知性のみが人間的知性あるのかどうかといった事にもなりますが・・・ PCには素晴らしい能力があるけれども、自我が無いために知性があるとは認められない PCはあくまで人間の自我によって操られる知的延長的な存在でしかない 知的延長の拡大が、自我の拡大であるかもしれない 自我の拡大が招いた自然界の歪は消し去る事ができるのかどうか? 消し去る事ができないのならば、人間はまだ野性的な知性の中に留まっている事になるのでしょうか?
お礼
再度お答えありがとうございました。 野性的な鋭さ、といった感じのご意見として頂きました。 瑞々しい感性と自由で伸び伸びとした思考は、やはり野性的であるように思われます。 物事に対しての単なる対応には自由さが感じられず魅力に欠けるものです、が、野性的な知性と冒険は常に新鮮な魅力を生みだすものです。 それが危険と隣り合わせであればあるほど、その新鮮な魅力は輝きを増すようにも見えるような気がします。 人間の野性とは? その答えに、大分近ずいてきたようにも感じます。 ありがとうございました。