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夏目漱石『こころ』はエゴイズムを描いたのか
似た質問がありますが、少し違う視点から質問しますので皆様、盆休みの間によろしくお願いします。 よく『こころ』はエゴイズムを描いた小説とされますが、何度読んでみてもどうもしっくり来ないのです。 先生のせいでKが自殺することになったのは確かです。けれど、先生はエゴをふりまくタイプではないし、もちろん自覚的なエゴイストではありません。 うまく表現できませんが、先生は何だか流されてそうなってしまった人といった印象を受けるので、普通イメージするような「エゴ」「エゴイズム」ということではくくれないような気がするのですが。 作者がエゴイズムを描いたとすると、どう解釈すればいいのでしょうか。また、他の解釈があれば教えて下さい。
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『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。 この場合の“エゴイズム”は、 辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。 先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。 この行為が“エゴイズム”なんです。 いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。 この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『それから』『門』にも出てきます。 『それから』では主人公代助は友人の妻である三千代に恋愛感情を持つ。 『門』での宗助は、友人の妻であった御米を妻にしている。 『こころ』でKが自殺しなかったらどうなっただろう、という仮定を、『門』の中に見ることもできます。 漱石は、宗助と御米の姦通に対して、宗助夫婦から富を奪い、健康を奪い、三人の子を奪うという、という残酷な刑罰を課しています。 漱石にとって、こうしたエゴイズムの発露は、許せないものだったんです。 当時でさえ、こうした漱石の倫理観には、反発する人もあったようで、谷崎潤一郎などは、若い頃“世の中というのは、もっとふしだらな、ルーズなものではなかったか”みたいなことを言っていたようです。 漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています。 晩年の『明暗』を読むと、もっとその漱石流のエゴイズムがわかるかもしれません。
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- ghostbuster
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#2です。 #3さんのご回答、非常に教えられる点が多かったです。 特に >いずれにせよ、Kに対して先生は尊敬と敵視の両方の感情を持っていたこと、先生のお嬢さんへの思いはKを媒介として増幅されたこと、そしてその両方に先生は無自覚であったことは重要な点だと思います。 というご指摘は、目を開かれる思いでした。 ただ、 >このことは大変皮肉なことで、この小説は古い因習の迷妄から抜け出ていわゆる「近代的自我」を確立したはずの知識人が、気がついてみればその自我は実は社会的な所産であったということを身をもって知った、というはなしに読めるわけです。言わば、「こころ」の中を覗いてみても実は何もなかったのだ、というシニカルなテーマであるとも読めるでしょう。 これは、あまりに現代的な、更に言えば、構造主義をふまえての見方ではないでしょうか。 漱石の意識のうちにそのような思想があったのか。それは、自分は疑問だと思います。 むしろ、漱石の深い人間の洞察力が、時代を超えて、さまざまな読み方を可能にしているのではないか、と思うのです。 たとえば、漱石はイギリス留学時代、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』を夢中になって読んだ、と手紙に書き送っていたように記憶しています。 このオースティンの作品などは、ほんとうに、ストーリーにしても、盛り込まれた思想なども、他愛もないものなのですが、作者の人間観察の目の確かさ一点で、今日まで鑑賞に堪えうるものとなっています(余談ですが、数年前イギリス本国でも日本でも、アメリカでも一大ベストセラーになった『ブリジット・ジョーンズの日記』も、あきらかにこれをふまえて書かれたものです)。 『こころ』もやはり、漱石は明治人であったこと、そして、その思想は明治人の枠内にあったことを考えると、漱石の言う“エゴイズム”も、明治人としての倫理観のうちにあった(大正人の谷崎でさえ古くさく感じられるほどの)、と思うのです。 作中、唯一名前を与えられた存在が、“静”(後の“お嬢さん”)です。 この女性が、作中でも自死が伝えられる乃木将軍の妻静子をふまえた名であることは、従来から指摘されているところです。先生の自殺と乃木夫妻の自死は、漱石の中で重要な繋がりを持っていたはずです。 けれども現代の自分にとって、乃木将軍の自死(殉死)は、非常に理解しにくいものであり、漱石の意図も正確にはわかりません。おそらくそれが明治人としての倫理観によるものではないか、と漠然と感じられるだけです。 おそらく作品にとって極めて大きなファクターとしてあった乃木将軍の自死は、今日、ほとんど顧みられることもなく、またその必要もなくなっているのではないかと思うのです。 結局、深い洞察に支えられた作品は、時代によってさまざまな読まれ方をするということなのだと思います。 思想の器として利用された文学作品は、時代とともに古くなっていきます。たとえばサルトルのように。 けれども、作者の深い洞察と筆力によって、作中で自由に生きる登場人物たちは、時代を超えて生き続ける。 そして、そのときどきの読み方を可能にするのではないでしょうか。 ご紹介にあった作田啓一の『個人主義の運命』、ぜひ読んでみたいと思っております。ありがとうございました。
お礼
再度のご回答、ありがとうございます。 深い背景知識に感謝申し上げます。 >漱石の深い人間の洞察力が、時代を超えて、さまざまな読み方を可能にしているのではないか、と思うのです このことは今回強く感じました。現代的な読まれ方のできる作品が現代的だということですね、作者の意図うんぬんでなく。
- neil_2112
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「作者の意図」というものはなかなか特定しにくいものです。こういう解釈もできる、という程度ですが私見を書かせて頂きます。 よく『こころ』について論評される「エゴイズム」には、私も昔からしっくりしない思いを持っていました。というのも「エゴイズム」というと、まず先に主体としての自己がはっきりと確立されていることが前提としてあって、その自己が利己的に行動することを指す言葉だと思うのですが、ご指摘のように先生は若い時ですらこの意味のエゴからは遠い感じを受けます。 その先生が「エゴイズム」と評されてもやむを得ない行動をとったのは事実にせよ、それを「エゴ」のせいでそうなったのだ、我々はエゴと戦う倫理観を確立せねば…と簡単に断罪して切り捨ててしまうだけでは、「なぜそうなったのか」という肝要なところがブラックボックスに入れられてしまうように感じられるのです。 例えば、子供を見ていると、もう遊ばなくなってしまった古いおもちゃでも、他の子供が使おうとすると途端にそれで遊び出して使わせない、といったことがよくあります。これは外面的にはわがまま、つまり「エゴ」として叱責されますが、子供自身にしてみれば、他の子供が欲しがった際には本当にそれに価値があるように思え、またいなくなればそう思えなくなるだけのはなしで、問い詰めてみたところで子供はその理由を説明できません。 大人でも同じことです。 このことは、その行為がエゴを発揮したものと見るよりも、自分では理解できないところに自分の価値観の源泉があるせいだ、という風に理解することができるでしょう。欲望が確固とした「自分」から生まれるのでなくて、むしろ他者との関係においてこそ生み出されるもので、それが現象的に「エゴ」と便宜的に呼ばれているのだ、というわけです。 こういった視点を基礎に、「こころ」をジラールの「欲望の三角形」を軸に社会学的に読解したユニークな書物があります(作田啓一「個人主義の運命」、岩波新書)ので、ご一読をお勧めします。 ジラールは欲望というものを内発的でなく社会的な関係の中で生み出されるもので、具体的にはあるモデルを模倣して生まれるものだと考えました。例えば名声を求める欲望は、名声を博しているある人物をモデルとしてそこに同一化したい、「~のようになりたい」というものとして表れます。 重要なことは、モデルが歴史上の人物であったり、手の届かない人物であればその同一化は単なるあこがれで終わりますが、モデルとの距離が近い場合には同一物を欲望の対象とすることとなって、モデルは同時にライバルとなる、というものです。この解釈に立てば、Kは先生のモデルであり、お嬢さんを挟んではモデル=ライバルの関係にあると言えます。 (このあたり、以前に先生のKへの感情やKを下宿に招いたことを中心に簡単にまとめていますのでご参照下さい: 「こころ」http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=268375) いずれにせよ、Kに対して先生は尊敬と敵視の両方の感情を持っていたこと、先生のお嬢さんへの思いはKを媒介として増幅されたこと、そしてその両方に先生は無自覚であったことは重要な点だと思います。 先生がいう「人は突然変わるのだ」という言葉は、私たちの欲望は自分の中に源泉があるのではなく、言わば社会的な網の目に乗って形成されるものでしかないのだ、という事後認識を苦々しく吐露したもの、という風に見ることができます。 私たちはそんなに確固とした自分を持って生きているわけではありません。むしろ、社会的な関係性の中で無自覚に生み出される結び目のようなものを、「自己」とかりそめに、かつ無自覚に呼んでいるのだ、という諦観にも似た感覚がここには感じられるようにも思えるのです。 このことは大変皮肉なことで、この小説は古い因習の迷妄から抜け出ていわゆる「近代的自我」を確立したはずの知識人が、気がついてみればその自我は実は社会的な所産であったということを身をもって知った、というはなしに読めるわけです。言わば、「こころ」の中を覗いてみても実は何もなかったのだ、というシニカルなテーマであるとも読めるでしょう。 少なくとも私にはそうであった方が意義深い小説だと感じられます。
お礼
どうもご回答ありがとうございました。 何というか、今までの読み方と全然次元が違う読解のし方があることに正直いって驚きました。 確かにおっしゃる通り、人を動かすものは人との関係なんだなあと感じました。つまり自分の中をいくら見つめてもそこにはっきりした原因があるわけではない。だからこそ先生もそうですけれど人は色々と悩むのでしょうね。 今まで小説は作者の考えがこめられていてそれを探し出すのが読解だという風に考えていましたけど、この考えを適用すると、読み手との関係で意味が生まれるということになるのかなあと考えてしまいました。どう読まれるかという読まれ方が大事という事なんでしょうか。 やっぱりこの『こころ』は深いものがありますね。 どうもありがとうございました。
- neue_reich
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普段は人格者である人間が、土壇場で人を裏切りエゴを剥き出しにする。 そういう人間の醜さを、読みやすい形で包み込んで 書いているのだと思います。 単にエゴを描くというと、ドロドロの作品しかかけない 作家ばかりですが、『こころ』に関してはそういうドロドロ した部分はあまり感じられません。 しかし、先生のそのとき(Kを裏切ったとき)の情景を 考えると… そこにはエゴがあった、といえるのではないでしょうか。
お礼
どうもご回答ありがとうございました。
お礼
どうもご回答ありがとうございました。 幅広い視点のお答えでとても参考になりました。残念ながら『門』はまだ未読ですけどもご回答を参考に是非読んでみたいと思います。 >漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています 教えて頂いたこのポイントを自分のこころにとどめておこうと思います。