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初めまして、閲覧ありがとうございます。

初めまして、閲覧ありがとうございます。 最近とある映画を見て遊廓の世界に興味を持っているのですが…専門用語や遊女達以外の人の仕事や呼び名がありましたら是非教えて下さい。 よろしくお願い致します。

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 遊女の位: 太夫 江戸時代初期には、吉原は大名や江戸の留守居役、豪商など金持ちにしか解放されていませんでした。 太夫になるには、美貌はもちろんのこと、八代集などを「レ点」(返り点)なしに読めたり、技芸、囲碁、将棋などもできるほどの教養を必要としました。遊女の中では超エリートでした。 やがて、江戸の人口が増加するにしたがった、庶民は約50万人、その内、庶民では男60%、女40%と極端に女性の数が少なかったため、吉原を庶民にも解放されるようになりました。 しかし、豪商であったも、そこそこの金持ちであっても、一晩抱くには、余りにも教養があり過ぎて窮屈だと言うことで、宝暦年間(1751~)には「太夫」は消滅し「花魁」へと変わりました。 花魁 美貌とそこそこの庶民の話し相手ができる花魁は、「おいらの姉御」から「おいらんの」「おいらん」と呼ばれるようになり、「花魁」という漢字が当てはめられました。 花魁以下は、「格子」「散茶」「うめ茶」「五寸局」(ごすんつぼね)「三寸局」「なみ局」「次」の序列でした。 面白いところでは、「散茶」の由来: 煎茶を入れる時、振って出すお茶と、振らないで出すお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいましたが、しゃにむに男を引き込み二階に上がる。つまりは、誰も振らないことから、洒落て「散茶」と呼ばれるようになりました。 亡八 「仁」「義」「礼」「智」「信」「忠」「孝」「悌」の八徳を失った者で、女を稼がせておいて、自分は取り前だけを取り上げる「楼主」を指した。 籬(まがき) 籬とは、見世の正面と脇土間の横手にある格子のこと。第一級の娼家は、娼家の裏を除いての惣籬(そうまがき)、次が、半籬(はんまがき)、籬の四分の一位が空けてあり、そこから出入りをする。これが中級。三番目は、惣半籬(そうはんまがき)、格子が下半分だけしかなかった。 http://bungetsu.obunko.com/newpage509.html 付き馬 娼家には、必ず2~3人の男の若衆がいて、普段は、下足番や庭掃除、遊女から頼まれた買い物などをしていましたが、見世に揚がった客が「オケラ」だったり、金銭が不足をしている場合は、客を見世の前に引きずり出し、大きな樽を頭から被せ、樽には小窓が空いており、見世物とした。そして、陽のある内であれば、若衆は、男の親類、縁者などへ金銭回収に走り回りました。夜も更けてからの場合は、一晩、男を樽に押し込めたまま、翌朝一番で金銭の回収に走りました。 投げ込み寺 遊女は不衛生の世界にいましたので、「梅毒」や「淋病」などに罹る遊女も多く、少々の熱位では休ませず、いよいよ「ダメだな」となると、納戸のような陽も当たらないような小部屋に押し込んで、ロクに食事なども与えず、ただただ死ぬのを待った。そして、死ぬと腰巻一丁に衣服を剥がし、菰(こも)に包んで、銭200文を付けて「投げ込み寺」へと放り込んだ。寺では「総墓」(そうはか)と呼ばれる穴に埋めて、簡単な供養で処理した。新宿の「成覚寺」(じょうかくじ)や両国の「回向院」(えこういん)、橋場の「総泉寺」、深川の「霊巌寺」「浄心寺」「浄閑寺」などがあった。 遊女という格式 吉原の遊女は、幕府公認であったので、必ず「遊女」と呼ばせた。 半公認と私娼 宿場の活性化のために、半公認の「飯盛女」がいた。1軒に3人と決められていたが、表で客引きをするのは3人だったが、宿に入って裏に回ればゾロゾロ。 夜鷹・・・大川端の柳の陰に隠れていて、通りすがりの男の袖を引っ張って、土手に積んである材木の陰などで事を済ませた。 辻君・・・京都の私娼。何となく風情がありますね。 惣嫁(そうか)・・・大阪の私娼。何でも喰らい付くからとか。 次のサイトを参考にしてみてください。 http://bungetsu.6.ql.bz/

nue4
質問者

お礼

迅速な回答をありがとうございました! 此方の説明を見た所…色々と悲しい事もあるので、遊廓の世界を一言で楽しいと言って良いのかは分かりませんが、興味深い所も沢山ありますよね。詳しい説明感謝します。 乱文失礼致しました。

その他の回答 (3)

回答No.4

bungetsuです。 説明のしかたが悪かったですね。ごめんなさい。 >>えっと…正月と7月の間は遊廓が閉まっている…という事でしょうか? 正月に1日と7月13日頃の1日だけが休み・・・つまり、年2日しか休みがなかったのです。 正月は、まあ、新年ということで休みになりましたが、7月は江戸の暑さは並外れていましたので、まあ、「夏休み」と言ったところでしょうか。 >>もし、遊女と客が恋愛関係になり…身請けもしていないのに遊女を連れ出して逃げる、という事があったらどうなりますか…? 下級の遊女では、客と花見に行ったりの外出はできましたが、その時でも、妓楼の若衆が付いて行って、逃げ出さないように監視をしていました。 また、遊女の格が上がるにつれて、客との外出は「厳禁」で、もし、遊女を連れ出して逃げたりすると、これは「足抜け」と言って、どこまでも廓内の若衆が総出で探索して回りました。 そして、捕まった場合は、男は水桶などに顔を突っ込ませての「死罪」。幕府公認の廓内での出来事でしたので、町奉行所への届出には「変死」として届け、少々の金子を差し出すことで、町奉行所もロクな詮索はしませんでした。 遊女は遣り手婆(やりてばばあ)により竹刀などで叩きのめす折檻や2~3日も見世の裏の木に縛り付けられたりの「拷問」にあいました。当然、死ぬ遊女もいました。 死ねば「投げ込み寺」行きでした。

nue4
質問者

お礼

nue4です。 いえいえ!私の読解力が無いだけなのでお気になさらず… 年に二日しか無い休みであの膨大な仕事をこなさなければならなかったのですね…確かに亡くなる方が居てもおかしく無いかも知れません。 それでは逃げ出しても見付からない…という事は少なそうですね。 何時も有難う御座います。

回答No.3

bungetsuです。 >>此方の説明を見た所…色々と悲しい事もあるので、遊廓の世界を一言で楽しいと言って良いのかは分かりませんが 一見、華やかそうに見えても、そこには、はっきり言って「悲しみ」しか無いのかも知れませんね。 ゆっくりと休めるのは正月と7月だけの年2回だけですからね。 現代は、週休2日制などと言っていますが、それだけ「ゆとり」が出て長寿社会になったのかも知れませんね。 ちなみに、遊女の平均生存年齢は22~23歳位ですから、いかにこき使われていたかが想像できます。 「苦海」(くがい=苦界)10年・・・と言う言葉が、一層辛さを物語っているようですね。

nue4
質問者

お礼

nue4です。 こんばんは。 毎回詳しい解説を有難う御座います。 えっと…正月と7月の間は遊廓が閉まっている…という事でしょうか?もしそうならば、その間は何をしているのか気になりますね。 あ…もし、遊女と客が恋愛関係になり…身請けもしていないのに遊女を連れ出して逃げる、という事があったらどうなりますか…?ご存知なら教えて頂けると助かります。 苦海…初めて聞きました…

  • goold-man
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回答No.1

花魁=吉原遊廓遊女で位の高い者  位に 太夫、格子、散茶、座敷持、呼出し、がある。   例:太夫3、格子60、局360、散茶670、次女郎1000人の割合 花魁道中=花魁が禿や振袖新造を従え遊女屋と揚屋や茶屋の間を往来すること 忘八=遊女屋の当主 禿(カムロ)=花魁の身の回り雑用係(10歳前後)上級遊女を目指す見習い。 新造=遊女の妹分 (番頭新造、振袖新造、留袖新造、太鼓新造) 遣手=遊女を管理・教育係、客や当主、遊女の仲介役 など詳細は参考URLをご覧ください。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%AD%81
nue4
質問者

お礼

迅速な回答をありがとうございました! 此方の御意見を参考にさせて頂きつつ、私も調べてみますね。 乱文失礼致しました。