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物理学上、過去はあると言えるでしょうか。
物理学上、過去はあると言えるでしょうか。 過ぎ去った時間は、過去において存在したと確実に言えます。 では、過去は現在において存在すると言えるのでしょうか。 もし、過去が現在において完全に存在しないのであれば、 物理的存在は一切成り立たないという錯覚に陥ります。 その限界はどこ(なに)(いつ)にあるのでしょうか。
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物理学の本を、高校教科書すら一度も開けたことのないものですが、WEB管理者の不作為により質問を見かけてしまったので、興味津々です。 面白そうな、質疑応答を期待します。 ☆ ☆ ☆ 哲学者の時間論議には興味を持てませんでしたが、茂木健一郎の「生きて死ぬ私」の「存在と時間」の項で印象に残る記述がありました。 「過去、現在、未来の区別は、単なる幻想に過ぎない。」 と言っていた、アインシュタインが、晩年には、 「時間の流れの中で、今には特別の意味がある。しかしその特別なものは、科学の領域外のことでしょう。」 という発言をした、という箇所です。 ☆ ☆ ☆ 僕の回答です。 「物理」については全く分かりませんが、「学」というものは、共通の土台または土俵を、過去に設営することによって成り立っているものです。 その時点で、物理学的な議論でなく、何らかの人為的な作為が入ってしまった議論にならざるを得ないのではないでしょうか。 例えば、1番の方の回答のパンの一部の不在も、パンの材料の炭水化物を構成する分子が、数メートル移動しました、と説明する人もいそうです。
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- star01
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過去はすでに過ぎ去った時間であって、未来はこれからやってくる時間であって、現在においては過去も未来もどこにも存在していません。現在の時間だけがこの宇宙に存在しています。 ただ、それは3次元的に見ているだけであり、時間軸を含めた4次元的に見ると、過去も未来も同時に存在していることになります。 時間の流れは映画のフィルムのようなもので、映写機があるところが現在だとします。フィルムのコマ(24コマ)のように、一つ一つのプランク時間(10の-43乗秒)の連続でこの全宇宙の時間が構成されていますが、このプランク時間の一個々が4次元的に別々の次元に存在し、エーテル周波数が異なります。だから、我々には過去や未来の物質が見えません。もちろん、触ることもできません。 しかし、3次元よりも高い次元からみると過去も これから起きるはずの未来も、同時に見えるはず
お礼
ご回答ありがとうございます 高い次元から見ると同時に見えるというのは同意しますし、短い時間ながら、既に我々はそれをやっています。 この質問はそうではなくて、宇宙側から見るとどうかという問いなのです。 宇宙の真の姿は超高次元な存在だが人間が低次元(3次元+時間)から観察しているのか、あるいは、宇宙にはもともとはなにもなく---つまり超低次元で---人間が宇宙を3次元+時間にする能力をもっているのかなのです。
- 雪中庵(@psytex)
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「存在」するかどうかという意味であれば、否です。 相対性理論のミンコフスキー空間(四次元時空)に現われるライト コーン(光速が描く円錐)において、下半分の円錐が「絶対過去= 既に過ぎ去って到達できない領域(=存在(相互作用)しない)」であり、 上半分の円錐が「絶対未来=未だ及んでいない領域」とされます。 光速を限界とする相対論的空間において、「下半分(過去)の円錐」は 「観察者に到達する光速以下の相互作用(全て)」であり、「上半分 (未来)の円錐」は「観察者から発する光速以下の相互作用」であり、 それぞれ「既に終ったものの全て」と「これから起こるものの全て」の 集合なのです。 その2つの光円錐にはさまれた、超光速でしか到達できない領域が、 存在の依拠する領域なのです(今は見えないけど、時間が過ぎれば やがて見える(光速以下の)領域に入って来る‥‥はず)。 我々は、今見えている事が存在の証のように思いがちですが、その実、 空間の本質である遅延作用において、遠くの姿は昔の姿(過去)であり、 また一方、その存在性は、真の現在である感受表面での量子相互作用 パターンにおける、先行感覚(光、音)に対する「そこに到達すると どういう影響を受けるかの予測(未来)」として得られているのです。 ところが、相対性理論において、超光速において虚数エネルギーとなり、 エネルギーは相互作用において二乗となることから、「虚数エネルギー の物体の時間軸順行」の等価として、「通常粒子の負エネルギー= 時間軸逆行」が得られるのです。 即ち、我々が「存在が依拠する領域」と考えている超光速領域(上の 光円錐の外側)が、下の光円錐になり得る時、「過去から来た相互作用 が観察者と相互作用して未来に去って行く」という時空構造が、 「観察者から過去と未来に対発生する」というものに変わるのです。 そこにおいて、もう1つ考慮すべきは、超弦理論において全ての存在は 量子性=光速に還元される事が示唆されており、上記において光円錐の 外だの内だのと言っているのは、超弦以降の階層現象的な表面性に付随 して派生する、仮想的なものに過ぎないという事です。 結局、全ては真の「現在」である、感受表面での量子相互作用(光速)に 還元され、「自己(現在/感受/光速)から過去(記憶/時間/超光速)と 未来(予測/空間/光速下)が対発生する」というのは、自我仮説(時間性) と時空仮説(空間性)の相補分化に換言できるのです。 実は相対性理論にしても量子論にしても、認識体との相対によってしか 存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風 は光になり、認識体はその光の向うに、自己の補完(相補的不確定性) としての宇宙を認識します。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。
お礼
回答ありがとうございます やはり、現在に過去は完全に存在しませんか。 認識体は、常に「既に終ったものの全て」と「これから起こるものの全て」の狭間で何もありはしない虚無から、世界を作り上げているということですか。驚嘆する、一方で日常からは信じがたく、そして、それが昇華へ向かうということでしょう。 僅かながらの過去をまとめて、現在と錯覚している我々の真の現在には、何もなかった。笑うしかありません。
- tyatsumi
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実在するかどうかというのは、相互作用できるかどうかということだと思います。 相対性理論では時間は空間と混成するのである種の空間的なものとして扱われるわけですが、 一般相対性理論では現在と過去をつないで相互作用可能な系を作れることになっています。 いわゆるタイムトラベル・タイムマシンですが、これが実現可能であれば、過去は実在すると考えてよいと思います。 ですが他の法則によってタイムトラベルが禁止されているという仮説もあるようだし、 もし本当に禁止されているのであれば、実質過去は実在しないと考えてよいと思います。 現段階ではどちらも実証されてないので結論が出せません。 ‥というのがひとつの切り口かと思います。
お礼
回答ありがとうございます >いわゆるタイムトラベル・タイムマシンですが、これが実現可能であれば、過去は実在すると考えてよいと思います。 そうですね。過去が存在するならタイムマシンの実現可能性がありますね。 逆に言うと、過去は存在しないのだから、タイムマシンの実現可能性はないということになります。 現在に過去が全くないとすると、現在も消失するように錯覚するんですよ。 なぜなら、現在には全く幅がない・・・・現在の幅は0秒 ですね。 と、現在なんてないんですよ。 現在の意味がちょっと違うかもしれませんが・・
- sanori
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こんにちは。 量子力学では、「時間を逆に進む粒子」というものを扱うらしいです。 たとえば、「時間を逆に進む電子は陽電子」といった具合です。 理論的なことは知りませんが、ファインマン先生の著書で図解での説明がありました。 >>>過去は現在において存在すると言えるのでしょうか。 あなたが夜に半分かじったパンを翌朝見ると、そこには半分かじった状態のパンがあります。
お礼
回答ありがとうございます 陽電子、反物質などですね。 陽電子、反物質だけで肉体を構成すると、こちらから見て過去へ行くというのも同じことに なると思いますね。時間の過去、現在、未来は、このあたりの物理の考え方からすれば、 未来、現在、過去にしてしまっても正と負が逆転するだけで本質は変わらないのでしょう。 >あなたが夜に半分かじったパンを翌朝見ると、そこには半分かじった状態のパンがあります。 考古学ですね。逆相は未来学。生きた三葉虫を見たことはありませんが、三葉虫が生きていた過去が存在すると信じます。
お礼
回答ありがとうございます >「時間の流れの中で、今には特別の意味がある。しかしその特別なものは、科学の領域外のことでしょう。」 アインシュタインは実に惜しいところまできていたんでしょうね。 今の特別な意味には全く驚嘆します。科学の領域の大変な誤解でもあり、実は科学の真骨頂ではないんでしょうかね。 >共通の土台または土俵を、過去に設営することによって成り立っているものです。 >その時点で、物理学的な議論でなく、何らかの人為的な作為が入ってしまった議論にならざるを得ないのではないでしょうか そうだと思います。物理学こそが実は人為的なことをやっている、あるいは、人間から最も離れたがっている領域なのにどうしても離れられていないのかもしれませんね。