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名誉・体面とは何か
- 名誉・体面についての疑問や意味について考える
- 名誉とは自己の尊厳や誇りを大切にすることであり、傷つけられた場合は回復を求めることもある
- 体面に固執する振る舞いや恥を知らない行動は醜い姿に映えるが、自己の存在に誇りを持ちながら成り振り構わない態度もある
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(1) ほんとうにあるのか? 「本当」の意味を「実際に社会にあって影響をあたえているのか?」という意味では、おおいにあるといえます。 質問者様はそういう意味ではなく、いわゆる名誉とか体面は空しい(虚しい)ものであって、それを無視しても実質的な変化はないだろう、少なくともそういった行動が実際に犯罪に問われることはない(場合が多い)だろうということを仰りたいのだろうと思いますが、それもまた真実だろうと思います。天皇陛下、あるいは総理大臣の出す握手を無視することも可能であり、この場合大臣の体面が潰れるということはあっても、お互いにその事実を無視しあうことは可能です。 (2) あるとして 守らねばならないものなのか? 結局価値観の問題でしょう。名誉が経済活動に結びついていることは非常に多いですし、それが宝の山であるときは死に物狂いになってそれを守ることが頻繁に行われます。逆に体面を守るために多くのコストがかけられることもあります。これらもそれだけの価値がある名誉なのか?捨ててもいいのではないかと問い直せば、たとえば中元やら歳暮の経済活動が半減することにもなるでしょう。 (3) 根拠のないことがらによる誹謗中傷や 不当で過剰なわたくしごとの暴露でもない限り 名誉が問題になったという時点で その名誉にかかわる事柄では 自分のほうに非があると分かっているはず。つまりその間違いをそのまま認めれば済むことではないか? 仰るとおりです。これも価値観の問題でしょう。ことは簡単には済みませんね。かつてのさむらい階級のプライドが日本の社会に少なくない良質の秩序を与えていたことは事実です。 (4) どうも振り子は 昔のままに振り切りっぱなしであって 一向に変わる気配がないように感じますが どうですか? そんなことはないでしょう。もっとも、日本が本来あるべき中立精神を取り戻すにはまだまだ時間が必要であるとはおもいますが。 (5) 《傷つけられ害われる》という場合は むしろ名誉棄損といった犯罪を構成するような場合であって そうではないでしょう。犯罪にいたるまでの各段階で、価値観の差もあってひとは死ぬほど傷つく場合もあるということです。 (6) (あ)体面に固執する振る舞いも(い)恥も外聞もない行動も どちらも大きくは《成り振り構わざる振る舞い》であると思われます。 双方の基準点は大きく違います。どちらに同情するかはやはりそのひとの価値観の問題でしょう。 >けれども みづからの存在じたいに誇りをもって しかもあとは成り振り構わないぶっきらぼうという態度もあるかと思います。 これなら 体面は体面のほうが・また周りのほうが構うときには構うであろうから放っておける。のではないか? 仰るとおりですね。でも、敵はほおってはおきませんよ。必ず弱みに付け込んできます。びしっと反撃せねばならない最適のタイミングは絶対存在します。
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ことは決してなさそうだな 哀れな... ´
おはようございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > そもそも TPS 行為をおこなっているやからは 何をおこなっているか分かっていないし ねたみなり何なりの感情を自覚していないようにさえ思われます。? お仰られますように、それをしてしまう感情の自覚はなさそうに思われます。一方、人をKY呼ばわりするその心理もまた、一種の集団心理が関与するものと考えられますが、愚生には詳しいことはわかりません。先程の「悪人情」の増加傾向と共に、その原因を考えていきたいと思っております。 ?> ☆ これは反対ですし――つまり k 様が自分で誰かに最後通牒を突きつけようかなと言っている文章を読みました―― この場合は 評価がひどっちさんとわたしとでは 逆ですね。 これは、”ありがとうポイントが高い → 総じて、人気が高い”という 愚生の推察によるものでした。舌足らずで申し訳ございませんでした。? 従いまして、k様に最後通牒を突きつけるのには、相当の”ハンマー”が必要になってしまいます。これは、現実的にとても困難と考えてしまった次第でした。このため、”k様に”は、当初は信じられなかったという訳でございます。 因に、愚生の評価と申しますと、以前お話しさせてもらいましたように、”苦手”なお方ですし、”有神論者”としましては、受け付けられない考え方のため、あまり”関わりたくない”というのが実情でございます。? > その後今までにおいて まだ行動は起こされていません。ので 様子を見たほうがよいかと考えます。本人の挙げた質問で見かけたものですとだけ触れておきます。? 了解致しました。愚生も見守っていきたいと考えております。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
お早うございます ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 今回でぜんぶ了解いたしました。それに ★ 因に、愚生の評価と申しますと、以前お話しさせてもらいましたように、”苦手”なお方ですし、”有神論者”としましては、受け付けられない考え方のため、あまり”関わりたくない”というのが実情でございます。 ☆ とはうかがっていましたのに それと違うことのほうに解釈してしまい はづかしい思いです。澄みませんでした。 プロフィールは――昔見たかどうかも忘れていますが―― いま初めて見てみました。 見守ります。 ○ Tall Poppy Syndrome ( TPS ) ☆ これもおっしゃるところを了解しました。おことわりとまとめをしるします。 ・ わたしが《ねたみ》を原因とするのは ピンと来ないと思いましたのは あくまで日本人のあいだのことでした。世界のことはいま分かりません。 ・ 日本社会にあっては いわゆる《日本教》のもんだいとして捉えます。 ・ すなわち 集団心理:マインドコントロール・空気( KY )・右向け右! いましばらく開いています。
低級な粗霊の神学 笑える さとりに至ることもなく 何を知っていると言うのか 頂点を下にして逆立ちしている逆ピラミッド 点を基点とした不完全性定理 全てが砂上の楼閣 真理の扉がひらく
お礼
★ 何を知っていると言うのか ☆ たとえばク・セ―ジュ(我何を知ろう?)と ソクラテスからこの方 哲学は 知識の有無などは問題にしていない。 ★ さとりに至ることもなく ☆ さとりから或いはブッダから離れなさい。哲学は 判断力の勝負。 見利きあるいはものの見えたるが肝心。その上で知識も活用してゆく。 そのあと 世界をみさだめなくてはいけない。 【Q:菅内閣うんぬん】の回答を見てみたまえ。 アメリカは どうも日本を中国に売り渡すことに決めたようだとの見方。 いまだに覇権のあらそいがつづいている。 ブッダを葬送せよ。さとりなどはまぼろし。これをさとれ。 いつまでねんねしてんだよ。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 今回は ご文章をたのしみました。 誠に、光栄に存じます。 > ☆ そのように思うところもあるのですが・・・。jさんは 昔ちらっと聞いたところによると お医者さんらしいんですが。 そうなのですか。j様の人となりは、別段問題はあるとも思いませんし、むしろ実直な性格をお持ちのように思ってはおりましたが….. > ☆ ということは 《お金にならないと思ったら 叩くであろう》 つまり 《妥当なことを言っているがお金にはならないなと思ったら叩く。こいつはおれの思い通りにはならないなと思ったら叩く》でしょうか? 以下に、英語版Wikipediaに説明がございましたので、ご紹介させていただきます。 Tall poppy syndrome (TPS) http://en.wikipedia.org/wiki/Tall_poppy_syndrome 概略 TPSとは、イギリス、アイルランド、オーストラリア、およびニュージーランドにおいて、真の長所を持つ人たちが、怒りの矛先を向けられる、攻撃される、削除される、もしくは批判される社会現象について用いられる軽蔑語。 説明 ・その文化的現象が持つ確信の強さ、そして否定的な特徴を示す程度の度合いは、政治(的なもの)に、ある程度、影響されうる。 ・TPSは、“妬み(envy)の政治”との関連性が見られることもある。 ・TPSとは普遍的な現象であり、様々な文化においても、一般的傾向を示すと主張する言論人もいる。 ・その例として、スカンジナビア、スコットランド、オランダ、日本「出る釘は、打たれる」でも、同じ意味を示す表現が存在する。 ・米国では、Benjamin Franklin Fairless (ユナイテッド・ステーツ・スチール社長)は、かような風潮を批評した: 「別のものを弱めることによって、自分を強化はできない。」、 また、「巨人の脚を切り落として、小人の身長に付け加えることもできない。」 つきましては、 「妥当なことを言っているがお金にはならないなと思ったら叩く」は、資本主義の典型的な国である米国では、十分ありうると考えております。 ですが、「こいつはおれの思い通りにはならないなと思ったら叩く」とは、必ずしもそうとは限らないと思われます。 > ★ “The tall poppy syndrome” ☆ これは 《打たれた杭が呈する症状》のことを言っていますか? それとも打とうとするくせが症候群であると言うのか。 おそらく、ほぼ世界共通の“症候群”のように見受けられます。 > ☆ これも残念ながら知りませんでした。き・・さんにもその気があるようです。最後通牒の突き付けの気配です。いままさにです。これは公共の事態になっているかと考えます。 本当なのですか? 「k様に対して、最後通牒の突き付け」なのですよね? 全く以外でございました。これは、おそらく「k・・様が、総じて人気が高い」ために生じる“妬み(envy)”に起因しているように愚生は推察しております。 フルフォード氏が、「多くの日本人にとって、検察官は極めて神に近い存在だ。」と言っていましたが、検察官(もどき) or 悪者ラベリング人 になりたがっているのかと勘ぐりたくなってしまいます。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 《 Tall Poppy Syndrome ( TPS )》・・・おそらく、ほぼ世界共通の“症候群”のように見受けられます。 ☆ 分かりました。そうしますと この《秀でる場合》の反対の《一般にしょぼくれていて精彩のない者へのいぢめ》についても 知りたくなりましたが TPS については その原因が《ねたみ》というのは いまひとつわたしにはピンと来ないものがあります。 すなわちはっきりと《やっかみ》であるのなら それが感情に過ぎないとしてもそれを表わすという意志は《発揮》されているわけです。初めは意識せずに――その意味で意志行為だとも知らずに――行動を起こしていたとしても あとで《ねたむ》という気持ちは分かるわけですから それを自己表現したかたちだとも分かると思われます。 だとすれば TPS 行為の過程のどこかひとつの時点で おれは何をやっているのかと気づくはずです。あまり自分ながらおもしろくないと思うはずです。たとえば出る杭を打って成功した(つまり もう出て来なくなった)としても 後味がわるいはずです。 そういう経験を経て来ているのなら 遅かれ早かれ 一人がやめ二人がもうしないようになる。ということによって このTPS の風習は その是非論として社会の中で意見が相半ばするようになる。 と思われるのですが そうでもないようですし そもそも TPS 行為をおこなっているやからは 何をおこなっているか分かっていないし ねたみなり何なりの感情を自覚していないようにさえ思われます。 つまり どう言いましょうか。背の伸びたひなげしでも けっきょくお上なりその場のボス(権限者)なりのお墨付きがあれば 人びとはもうその出る杭を打たないし 足の引っ張り合いもしないと思われるところがあるのではないでしょうか。つまり 《空気》の問題にもなるかと思われます。 どうなんですかねぇ。取り敢えず こんな感想を持ちました。 偶然《ねたみ》が重なって来ますが ★ 「k様に対して、最後通牒の突き付け」なのですよね? ☆ これは反対ですし――つまり k 様が自分で誰かに最後通牒を突きつけようかなと言っている文章を読みました―― この場合は 評価がひどっちさんとわたしとでは 逆ですね。 《総じて 人気が高い》かも知れませんが わたしはまったく買っていません。その神学はひどいものです。と捉えています。 これは いまはまだ その事態に入るか入らないかの段階ですので いまは控えたほうがよいと考えます。そのことを前回わたしが述べた時点ではいまにもそうなるかと思ったのですが その後今までにおいて まだ行動は起こされていません。ので 様子を見たほうがよいかと考えます。本人の挙げた質問で見かけたものですとだけ触れておきます。 ふたつの話題とも中途半端かとも思いますが 今回は 様子を見たり考えたりしたいと思います。
>さようにほざかねばならないほどか 残念ながらさようのようだねぇ 名誉や体面や体裁を取り除いたら スケベ根性が丸出しになっちゃって 無用な無駄口は叩いて 本性が低級な粗霊っぽい この様子だと 残念ながら 無駄 かも知れんなぁ って言うか 無理だろ こいつがさとりに至るなんて ´
お礼
ッタンタン。
さとりの意味するところのものがわかっていないよね? いくら言霊の日本といえども 自然は宇宙の反映であり 心は自然を反映すると言われると 我は自然なりといきなり宣言する始末 おいおい(・.・;) 大丈夫なのかよ... てな具合 一事が万事 何もわかっておらず 何を求めてるのか イタいほどよ~くわかるんだ この哲学カテでもとりわけ不自然の塊のような人間なのに 周回遅れとは無駄な努力だったね しかもそれがかえって邪魔になるとはなんと皮肉な... いまだ君は 釈尊の掌の上を飛びまわるお猿以前のような状態 清められなければならなかったか ??? 君の心は君の思ってるようには決して今だ清められてなどいない 文頭に戻って読み返す そして しっかりと君の今の状態を確認したら この前の回答文もしっかり読み直して 他の若干一名の老醜とヤジキタ風に 糞味噌一緒に呑み込んできたその臭いの染み付いた心を 清め給え それは君自身にしかできないことなんだよ `
お礼
さようにほざかねばならないほどか。 ★ 文頭に戻って読み返す ☆ このあたりに病原菌がひそんでいる。文字から離れてみなさい。観念の帝国を夢見ていてはいけない。そこに浸っていてもいけない。 活字を飛ばしてみたまえ。
釈尊は自らの境地に至る過程で 人の心のメカニズムが様々にそこに至るを妨げることから 人が”さとり”に至るのは至極困難なのだと知った 達磨大師は決して弟子をとろうとしなかった 弟子をとらないと言われると 自分の腕を切り落として見せた志願者がいたとか そういう伝説を聞くにつけ 名誉や体面や体裁を気にする輩が 哲学のカテに踏み入って 真理を探究する求道の旅にあるんだと... 気に入らない回答だと歪んでしまって お礼の言葉の一つも言えなくなるような老醜 普段人が決して使わないような漢字をわざわざ使ってみたり カタカナ語をふんだんに織り交ぜたりと 人に伝えることを由とする簡潔な文章一つ書こうとしない 日々是好日 至ることができないのは ”知”の不足などによるのではなく ひとえに その心の在り方によるのみ 末法の世、終末期ともなると なめきって 求道の道もずいぶん平坦になってしまってるもんなんだなと そういう人間って不思議と同じように似たようなド壺にはまっている 外堀は詰め込むだけ詰め込んで想像を逞しくしド真ん中の核心をつかもうとするけど 皮肉にも そのものが何も分かっちゃいないんだということを 自分自身が一番良く分かってしまう羽目になる 無限遠に面積を持つ点 時空における点の稠密性 いたるところに点はある さとるものとさとらないものの境界 近づけども近づけどもさとりに属するその境界にまで到達することは決してない千尋の溝またの名を三途の川 そのものを見てはいけないという要請は聖書の何処かにも書いてなかったっけ? そういうことを軽く考えてはいけないんだけどさ しかし 見るなと言われると見たくなるって心理がまた ”さとり”に至るを妨げる心のメカニズムでもあったりする 幸いなるかな 心清きものは やがて神をみる この文章一行でさえ完全につまずき勘違いを起こす内容になっているのだけれども それが何処にあるかさえ分からないんだよね... さとりに至ることによって ただ違いだけがわかるようになり 点を通して透かして 複雑系に作用する捕獲された不確定性原理の中に 108の煩悩に作用する 模様の変化をみる
お礼
さとりが得たいってか。 なぜ周回遅れになったかを考えてみな。 ★ 気に入らない回答だと歪んでしまって / お礼の言葉の一つも言えなくなるような老醜 ☆ この心がきよめられなければならなかった。 気に食わない投稿にこそ気をつかっている。もっともふさわしい言葉を返している。撞かれた鐘が成るだけってしょっちゅう言っている。
ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 同じことの繰り返しになっているからです。それでも わがまま・つまりわたしの力量不足だと思います。 確か、ちょうど一年前から、釈尊に関しまして、「やりとりの繰り返し」が見られるかと拝察しております。bragelonne様の力量、云々というものではなく、先方様の考え・意志が強固になり過ぎているところに、原因があるものと解しております。なぜ、そこまでの強固さを持つ理由は愚生も分かりません。 > ☆ たぶんわたしの見立てでは 人びとの DNA に刷り込まれているかとも思われます。 でも日本人だけに見られるとも限らないかも知れません。 確かに、日本人には多い傾向が見られるかと思われます。 またこれは、もちろん、米国人にも見られるものと思われます。ですが、違いも存在するとも考えております。 米国人の“出る杭は打たれる”(”A nail that sticks out will get hammered down.” or “The tall poppy syndrome.(お花畑で、高いひなげしの花はつみとられてしまう)”)に関してですが、「こいつは出来る」or「お金になる」と思ったら、どんなに変な奴でも絶対に叩かず、守られる という合理的判断がなされるようでございます。 > 精神科へ行けという最後通牒を突きつけます。 以前、(日本語訳)“中立”様が、精神病扱いされていました。そこで、女史のブログが載せられておりましたので、さっそく拝見致しました。それを見ますと、それは、それは、ひどいものでした(先日、再度拝見しましたが、削除されていました)。 元来、“精神病”か 否かは、専門医が判断するものかと考えられます。例えば、刑訴におけます“精神鑑定”等はその典型例かと思われます。ラベリングをする彼らは、その “専門医”の資格(日本国が認める)を持っているのでしょうか。もし持っていないというのでしたら、彼らこそ、“誇大妄想”に獲り付かれているものと考えております。ぜひとも、法廷でも、独自の精神鑑定おしていただきたいものかと....... > Tさん、Aさんのたぐいは 以前、愚生宛へのご質問が来ましたので、ご返答させていただきましたが、それ以降は存じておりません。 それにしましても、「「なんでも反対同盟」は時代遅れです。やめなさい。」と言っていましたが、これはAさんのことかと…… ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回は ご文章をたのしみました。 ★ 確か、ちょうど一年前から、釈尊に関しまして、「やりとりの繰り返し」が見られるかと拝察しております。 ☆ 力量不足を問わないとしても どうも運のようにも思います。 ★ 「なんでも反対同盟」 ☆ については 特に力量とも運とも 正直に言って 思わないのですが じ・・・さんについては どうも筋がところどころで違って来ます。これこれの方程式を互いに扱っていたと思ったら 別の方程式に移っていた。運がわるかったとなれば 運も実力の内だとなりますので どうも八方ふさがりのようです。 ★ 先方様の考え・意志が強固になり過ぎているところに、原因があるものと解しております。なぜ、そこまでの強固さを持つ理由は愚生も分かりません。 ☆ そのように思うところもあるのですが・・・。じ・・・さんは 昔ちらっと聞いたところによると お医者さんらしいんですが。 ★ 米国人の“出る杭は打たれる”(”A nail that sticks out will get hammered down.” or “The tall poppy syndrome.(お花畑で、高いひなげしの花はつみとられてしまう)”)に関してですが、「こいつは出来る」or「お金になる」と思ったら、どんなに変な奴でも絶対に叩かず、守られる という合理的判断がなされるようでございます。 ☆ さもありなんと思えましたが 知らなかったです。ということは 《お金にならないと思ったら 叩くであろう》 つまり 《妥当なことを言っているがお金にはならないなと思ったら叩く。こいつはおれの思い通りにはならないなと思ったら叩く》でしょうか? ★ “The tall poppy syndrome” ☆ これは 《打たれた杭が呈する症状》のことを言っていますか? それとも打とうとするくせが症候群であると言うのか。日本語では 打たれた後のことには無頓着ですね。 ★ 以前、(日本語訳)“中立”様が・・・ ☆ これも残念ながら知りませんでした。き・・さんにもその気があるようです。最後通牒の突き付けの気配です。いままさにです。これは公共の事態になっているかと考えます。 ありがとうございました。 ☆☆ 〔《出る杭を打つ》傾向〕・・・人びとの DNA に刷り込まれているかとも思われます。 ☆ これはやはり文学的な表現であるとことわったほうがよいかと考え直しました。
こんばんは、Hidocchiでございます。 申し訳ございません。少し、ご質問の内容とは幾分異なるかとは思われますが、愚見を述べたく存じます。 以下は、岩波明著「うつ病」6章 自殺者の国 からの引用でござます。 「日本人一人ひとりは、温情な人々である。しかし、日本人が集団で行動するとき、彼らはしばしば考えられない無慈悲な行動をする。」 <中略> 「終身雇用制は崩壊し、その後の社会が、より無慈悲で悪意に満ちたものになりつつあることはすでに述べた(陰湿なリストラの例が列記されていました)。雇用という安定という保障はない上に、はみ出し者を嫌い、切り捨てる日本独特の「悪人情」は健在である。むしろ、経済が好調だった時よりも、この悪人情は強くなっているかもしれない。」 経済状況の低迷による やるせない閉塞感もあるのでしょうか、排除・削除のシステムは活発化しているように思われます。「出る杭は打たれる」とは申しますが、出る杭はむしろ、”排除・削除”される傾向がみられるように察せられます。 さらに申しますと、 > (3) 根拠のないことがらによる誹謗中傷や 不当で過剰なわたくしごとの暴露でもない限り 名誉が問題になったという時点で その名誉にかかわる事柄では 自分のほうに非があると分かっているはず。つまりその間違いをそのまま認めれば済むことではないか? 単純に認めれば済むだけかと思います。人には間違い・勘違いはつきものですから、別段、問題にはならないかと思われます。あのアインシュタインも”量子論”を結局理解できずに終わったと言われておりますし。 ですが、かような(自分の非を認めないという)状況は、上述のような”集団心理”といったようなものが多分に働いているように考えております。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
途中で閉めてしまいました。じねんさんの行動に嫌気がさしました。まだその心根をうたがってはいませんが 行動のあり方には疑問を持ちつつあります。 自分が対処し得ていないだけなのですが わがままを出します。ここでは 出したいと思います。 なぜか。同じことの繰り返しになっているからです。それでも わがまま・つまりわたしの力量不足だと思います。でも 一面では そのままあちらの我がままに従って行くことは こちらには屈辱があります。そのいま屈辱に耐えることは あちらの我がままを認め 屈辱を与えることをも認めたことになります。 分かりませんが 無理をすることは出来ないという情況です。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この《名誉・体面》のほうで回答を寄せてもらったわけですね。ということは ブディズムの問題である前に 人間の社会的な交通論――社会における人間的交通論――のほうですね。 異者排除の論理にさらに ★ 集団心理 ☆ という要素をつけ加えておられます。 ★ 「出る杭は打たれる」とは申しますが、出る杭はむしろ、”排除・削除”される傾向がみられるように察せられます。 ☆ ひとつ思うことは 《打たれる》段階ではまだよいかも知れません。《交通》が途絶えていません。《無視》がその次に来ます。すべて必要な話は 事務的に済ませるという行動です。 あるいは《打たれる》と《無視》のあいだに 村八分にするという行動――八分にするということは まだ意志して意識的に行動していますので 無視には到らず 或る程度かまっています――があるかとも思います。 ★ 経済状況の低迷による やるせない閉塞感もあるのでしょうか、排除・削除のシステムは活発化しているように思われます。 ☆ たぶんわたしの見立てでは 人びとの DNA に刷り込まれているかとも思われます。だって KY の認定はほとんど無意識のうちにその右へならえの号令が つまりは空気のかたちで 出されていますし それに従おうとしていると思います。枡に入れた米が山盛りのところを棒で均すように空気に従わせる行動は 条件反射のごとく出て来ます。あるいは場が成り立っているなら あとは無条件に反射行動をその身に用意しているかに思われます。 でも日本人だけに見られるとも限らないかも知れません。 わたしは日々死んでいますとパウロに言わしめた情況は 同じたぐいの雰囲気の有力(空気の帝政)であるかも知れません。人情がからむかどうかに違いがあるのかも知れません。このあたりのことは あまり分かりません。 けっきょく排除の論理は 実際のかたちとして 異者(よそもの)扱いを固めていくと思われます。周縁に・つまりは限界情況に追いやっておくということかと考えます。 そのあとは 精神疾患を病む者だという決めつけが来ます。いえいえ 実際にそういうふうにコーナーへ追い詰めて行くはずです。顔がなくのっぺらぼうの人びとは うわっつらの名誉以外のことは分からないのか それとも 分からない振りをしつづけているのか。いづれにしても うわっつらの空気に従わないなら 精神科へ行けという最後通牒を突きつけます。 集団心理なんですが けっきょく旗頭と成る者がひとりいます。これが 石頭と来ています。心を通じさせる交通は あり得ません。 そう言えばわたしはよくここまで生き延びて来たとわれながら思います。 そう言えば たらこ・アクシスのたぐいは このごろ見ませんね。
Bragelonne様、ご丁寧なご返事を頂きました。 少なからず啓発されましたので、多少蛇足ながら付け加えさせて頂きます。 まずさむらい精神について >名誉と言うよりも これは こころざしでしょうか。ですからたぶん あやまちを犯したとき体面を捨てることにこだわることはないようにも思えます。上の誇りが傷つくことのほうをこだわるというようにして。 そのとおりですね。つまり、さむらいのような階級的名誉は名誉そのもの(虚しいものであると仮定するにせよ)に実質的な価値があるというのではなく、名誉を守り抜くというこころざし、モラールの高さが重要なので、それが潰れたときには潔くその体面を守るべく腹を切ることで償うのだという覚悟がその価値をを保障していると考えれば、虚しさが虚しさではなくなるということになるのだろうと思います。体面は、ですから潰れたらそれまで、ということでなく、そのあとのいさぎよい行動が重要なので、下手に守ろうとばた狂う醜態はまったく無意味というより本末転倒といった行為なのでしょう。 ★ 天皇陛下、あるいは総理大臣の出す握手を無視することも可能であり、この場合大臣の体面が潰れるということはあっても、お互いにその事実を無視しあうことは可能です。 この例は、ただ、形式的な礼節が相手を実質傷つける可能性があるかどうかということを示しただけです。前長野県知事の田中氏の名刺を彼の目の前で折った副知事にせよ、我慢すればそれまでだったのが、その事実をマスコミが喧伝したから知事も実質傷ついたわけです。そういった”無礼な”行為は、無意味なままで終えることが可能だといいたかっただけです。 >単純にアメリカ化でしょうか。 >わたしは 振り子が社会の一部分において昔のままである姿が目の前にちらつきました。それは 強固であるように感じています。 まずアメリカの基地である状態から脱却せねばならないと私も思っていますし、これは動き出しています。この点においてのみ私は小澤氏に賛成です(笑)。 >その体面をめぐる《価値観の差》を ここでは問題にしているということもあって 一概にはそのままを受け容れがたいようにも思います。 >というのも 《死ぬほど傷つく場合》というのが ひょっとすると 勘違いであるということが無きにしもあらずと思えています。プライドの高いひとは どうしてもこちらから会釈の一つでもしないと それだけで 傷つくと言いますか すでに怒りあるいは蔑みが起きているように思えます。 細かく分析するのがよいかと。 結局虚名にせよ自分のあるべき価値をおとしめられたという心の傷害行為として感情的に捉えているのでしょう。価値観の差、個人的度量の大きさなどに左右されるのだと思います。結局礼節はその社会の文化であっていちがいに無意味だともいえないと思いますが。 (6) (あ)体面に固執する振る舞いも(い)恥も外聞もない行動も どちらも大きくは《成り振り構わざる振る舞い》であると思われます。 双方の基準点は大きく違います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうかも知れません。少なくともさらに分析の要ありです。 あ)は多くはその体面をこれ以上損なわないように注意深くなされるのが普通です。もちろん、外見上のそういった優雅さがその実質的行為の下劣さをカヴァーすることはないでしょう。この場合の基準はあくまで見かけ上当人の体面という高みでなされます。(い)は文字通りモラルもエチケットもない最低の状況でなされる行為でしょう。あ)と(い)のどちらが人間的に許されるかは好みによりますが、多くは自然体という観点から(い)に好意をもつのではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >・・・ぶっきらぼう・・・ でも、敵はほおってはおきませんよ。必ず弱みに付け込んできます。びしっと反撃せねばならない最適のタイミングは絶対存在します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ これも自然体についての問題でしょうか。あまりに隙の多い名誉職は適切に反撃しなければいずれ奈落に落とされるのではないかということです。蛇足に過ぎました。
お礼
コマアスさん お早うございます。ご回答をりがとうございます。 ★ まずさむらい精神について ☆ これについてもチョンボしました。武士道を頭に思いつつ 切腹のことはもう遠い過去のこととして忘れた格好となっていました。 たとえば忠義心。これは広く考えれば 藩主のため・お家(藩)のため・あるいは藩に住む人びととその生活のためという場合があり得ますので その忠誠心は 誇りであり得て 名誉です。しかも武士の場合には この名誉が 内実をともなっていたというところでしょうか。最後(最期)までつらぬく。 ゆえに――町人に威張り散らす一部のさむらいを除けば――単に体面を保つということには意義を見出さず その実質を問い求めつつ実行をすすめた。というところでしょうか。 そうだとすれば どうでしょう ひとつの策としては この名誉を 市民みんなの連帯名誉とするというのは? 名誉連帯の社会とすれば よいのでは? そうすれば むやみに体面を保つ必要もなくなるでしょうし 最期までつらぬくというかたちも避けられると思います。 切腹は 《体面》さん自身にしてもらいましょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 天皇陛下、あるいは総理大臣の出す握手を無視することも可能であり、この場合大臣の体面が潰れるということはあっても、お互いにその事実を無視しあうことは可能です。 この例は、ただ、形式的な礼節が相手を実質傷つける可能性があるかどうかということを示しただけです。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すみません。《形式的な礼節を超えよ》というふうには読んでいました。現在の段階で その《握手の無視》には説明が必要だろうなという付け足しだけなのでした。次のようにおっしゃる通念の要素ですね。理論はともかく 実際の問題としてでした。 ★ 結局虚名にせよ自分のあるべき価値をおとしめられたという心の傷害行為として感情的に捉えているのでしょう。価値観の差、個人的度量の大きさなどに左右されるのだと思います。結局礼節はその社会の文化であっていちがいに無意味だともいえないと思いますが。 ☆ ま 高い地位にある人は その行為のあやまちについて批判を受けた場合たとえ自分が我慢して甘んじて受けるとしても 自分には部下もいる ゆえにその者たちに屈辱感を与えることは出来ない だから空威張りとしてでも 体面を保つのだと 言うかも知れません。 だとすれば やはり広く名誉連帯として 体面や屈辱感よりも 実質的な修正や撤回をとおしてあたらしい舞台に出てゆくほうがよいではないかという考えかた この共同主観の実現というのもよいかと考えられます。 ○ あやまつはひとのつね ゆるすはかみわざ。 ○ つみをにくんでひとをにくまず。 ☆ と昔から言い慣わして来ていると言うのに。風通しをよくしましょう。そういう運動も考えられるのではないでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (6) (あ)体面に固執する振る舞いも (い)恥も外聞もない行動も どちらも大きくは《成り振り構わざる振る舞い》であると思われます。 ★ 双方の基準点は大きく違います。 ☆ そうかも知れません。少なくともさらに分析の要ありです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あ)は多くはその体面をこれ以上損なわないように注意深くなされるのが普通です。もちろん、外見上のそういった優雅さがその実質的行為の下劣さをカヴァーすることはないでしょう。この場合の基準はあくまで見かけ上当人の体面という高みでなされます。 (い)は文字通りモラルもエチケットもない最低の状況でなされる行為でしょう。 あ)と(い)のどちらが人間的に許されるかは好みによりますが、多くは自然体という観点から(い)に好意をもつのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶんどちらかと言えば (い)のほうが 実質を重んじる方向を向いているというところでしょうか。《自然体》と言っていただきました。さむらいは一生懸命でしたが もしそれが出来たとすればそれは 基本はこの《自然体》にもとづいていたからでしょう。 さらにぶっちゃけ話になりますが この質問はわたしの置かれている状態を打破したいというところから出発しています。要らぬ体面は捨てたらいいのにという発端です。 主題を広く取ると いくつか中身のある課題が見つかりますね。論じていただきました。 ○ 名誉連帯 ☆ はちょっと弥縫策っぽいと思い直してもいます。のでよしなにおはからいください。
補足
★ まずアメリカの基地である状態から脱却せねばならないと私も思っていますし、これは動き出しています。この点においてのみ私は小澤氏に賛成です(笑)。 ☆ そうですね。大筋では 民主党としては 理念として・あるいは方向性として 菅も小沢も鳩山もそれほど違いがなく 独立ないしいわゆる対等な関係という外交政策ではないかと思っております。 この時点で 小沢が鳩山と同じようなことを言うのは おかしい感じを持ちます。それでは鳩山の費やした代償は何だったのかとなりませんか。 中国を国家幻想からいかに脱却させるか。こういう課題でもあると思っているのですが。
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お礼
コマアス8さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやあ うまくまとまるものですね。回答No.1へのわたしの応答にあるように 心つもりでは初め 要するに《みとめるべき自分の間違いを是が非でも認めないというかたちで 体面を気にする》場合をほんとうは想定していたわけです。 あって無きがごとき体面のことを問うていたのですが 名誉の問題もあると思って両方をいっしょにして扱いました。 あっちへ行ったりこっちへ来たりで 要領をえなかったのですが うまくまとめてくださいましたね。 ★ かつてのさむらい階級のプライドが日本の社会に少なくない良質の秩序を与えていたことは事実です。 ☆ 武士の誇りは ・ 利害関係だけでは動かない ・ おのれの利益だけを求めることをいさぎよしとしない あるいはもっと根本的に ・ 利害関係をめぐる交渉は 徳をもって徳に応じるという基軸のもとに 損得を超える でしょうか。名誉と言うよりも これは こころざしでしょうか。ですからたぶん あやまちを犯したとき体面を捨てることにこだわることはないようにも思えます。上の誇りが傷つくことのほうをこだわるというようにして。 よって ★ いわゆる名誉とか体面は空しい(虚しい)ものであって、それを無視しても実質的な変化はないだろう、 ☆ と言葉にしてもらいました。次の例は ただ 極端ではないですか? ★ 天皇陛下、あるいは総理大臣の出す握手を無視することも可能であり、この場合大臣の体面が潰れるということはあっても、お互いにその事実を無視しあうことは可能です。 ☆ 握手をすることが 自分の志を傷つけるとも思えないのですが どうでしょう? あるいは それが理論的に自由なのだということを示す例示であるかとも思われます。そうしますと そのとおりにするとして たぶんただしその握手をしないことの説明は 明らかにする必要があると思いました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (2) あるとして 守らねばならないものなのか? 結局価値観の問題でしょう。名誉が経済活動に結びついていることは非常に多いですし・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはそのものとして 現実の一部であるということで。つまり 必然の王国の中にあっては その必然性をまぬかれることは残念ながら 至難のわざです。 ★ 日本が本来あるべき中立精神を取り戻すにはまだまだ時間が必要であるとはおもいますが ☆ 日本も 体面固持の傾向から振り子もそれの自由の側へ振ったということですね。民主主義 あるいは 単純にアメリカ化でしょうか。 わたしは 振り子が社会の一部分において昔のままである姿が目の前にちらつきました。それは 強固であるように感じています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (5) 《傷つけられ害われる》という場合は むしろ名誉棄損といった犯罪を構成するような場合であって そうではないでしょう。( a )犯罪にいたるまでの各段階で、( b )価値観の差もあってひとは死ぬほど傷つく場合もあるということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( a )はそのように段階別に分析する必要があるかも知れないですね。( b )はどうでしょう? その体面をめぐる《価値観の差》を ここでは問題にしているということもあって 一概にはそのままを受け容れがたいようにも思います。 というのも 《死ぬほど傷つく場合》というのが ひょっとすると 勘違いであるということが無きにしもあらずと思えています。プライドの高いひとは どうしてもこちらから会釈の一つでもしないと それだけで 傷つくと言いますか すでに怒りあるいは蔑みが起きているように思えます。 細かく分析するのがよいかと。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (6) (あ)体面に固執する振る舞いも(い)恥も外聞もない行動も どちらも大きくは《成り振り構わざる振る舞い》であると思われます。 双方の基準点は大きく違います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうかも知れません。少なくともさらに分析の要ありです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >・・・ぶっきらぼう・・・ でも、敵はほおってはおきませんよ。必ず弱みに付け込んできます。びしっと反撃せねばならない最適のタイミングは絶対存在します。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。たしかに理論のほうをまづは固めたいと思っていました。昔のままの体面固持の現実におけるもんだいを上で言っていたというのに。 ありがとうございました。