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弓矢での合戦、鉄砲が導入される以前と、後と分けてなのですが、
弓矢での合戦、鉄砲が導入される以前と、後と分けてなのですが、 一度の合戦において、矢の準備数量はどれほどだったのでしょうか? また、 矢となる「竹」は「矢竹」というらしいのですが、 日本のどこでも手に入れることができたのですか? よろしくお願いします
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残念ながら戦国時代、鉄砲導入前の陣立、軍の編成に関する 資料は見つかりません。 鉄砲導入初期、後期については推定出来る資料があります。 武田信玄の陣立てですが、信憑性の高い資料の「妙法寺記」 弘治元年の記に「・・・・武田晴信公、旭の城に弓を八百張、 鉄砲三百挺、御入れ候。・・・・・・」とあります。 また配下の各武将の「武田氏軍役状」の一部も残っており 元亀~天正初期のそれから、軍勢100人当たり、弓10張 鉄砲7挺と推定されています。 一方戦国後期の軍制によったと見られる、江戸幕府の軍役 では、将軍直轄軍の例えば五千石の旗本の軍役は、軍勢 100人のうち、鉄砲10挺、弓6張とあります。 ただしこの軍役では戦闘員は60人位で、40人位は荷物運 などの非戦闘員で、戦闘員の10分の1が弓、6分の1が 鉄砲です。 従い戦国後期戦闘員1万の軍勢では弓1000張、1張あたり 24~25本の矢を負うので、約2万4千本が必要です。 同数の予備を用意することもあるでしょう。 鉄砲導入前では戦闘員1万の軍勢では、その倍位の矢が必要 だったでしょう。 実際は戦国初期の戦は戦闘員数千程度と思いますが。 矢に使う竹は普通の竹でなく、矢竹といわれる大きい笹の 種類です。 本州以西に生え、今は釣り竿につかわれます。 武田信玄は今川氏を滅ぼしたのち、元亀2年駿河唐沢郷から 年1万の矢箆(矢竹)を納めさせたとあります。 「臨済寺文書」
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- rurubonpp
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矢についての数量はわかりませんが、「矢竹」についてですが、真田家の居城の上田城には、真田昌幸が合戦に備えていつでも矢が整うように「矢竹」を植えていたそうです。そして、現在もそれが残っているそうです。 このように、どこでも手に入るというより、常に矢が十分な数が揃うように植えていたのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 「矢竹」というものは、普通に生えているものとは違う種類のものですか?
お礼
ありがとうございます。 詳細な解説、感謝します。 参考になりました。