• 締切済み

昔の人は何で剣術なんかやってたんですか

日本の合戦は弓矢・鉄砲などの飛び道具が主流で、接近戦では槍を使ってました。日本刀は槍に対しては圧倒的に不利で、鎧の上から斬っても致命傷にはならなかったと考えられています。ではなぜ柳生新陰流とか吉岡流とか巌流とかいろんな流派の侍が剣術を学び、剣の腕を磨いていたのか、というのが疑問なんですが

みんなの回答

  • shizumo
  • ベストアンサー率12% (159/1285)
回答No.10

ご指摘のとおり、刀は戦場ではほとんど役に立ちません。戦場で最も使用されたのは(火縄銃を除き)槍と弓です。(そして投石) 槍や弓は平時には持ち歩くものではありません。今の感覚では戦場で軍隊が使う個人携帯武器はマシンガンやアサルトライフルでこれらは弓や槍、ピストルは刀のようなものです。ピストルをイラク戦争などの最前線で使うことはまずないでしょう。つまり戦争がなくなった江戸時代には個人携行の武器は刀だったし、威力的にはそれで十分だったのです。これにNo.9のかたもかかれたように幕府の教育方針が加わりました。

  • uissu
  • ベストアンサー率32% (42/129)
回答No.9

こんにちは。 そもそも、なぜ剣術ばかりが一人歩きしたように多くの流派が排出し、侍達の「必修科目」のようになっていたのでしょうか? それは、かの徳川家康が、槍や弓などの武器を携帯することを禁じ、剣に精神的要素をこじつけて侍の必修科目にすることを奨励したからです。 せっかく戦乱の世が終わったのに、他藩に槍や弓の腕を磨かれて、また新たに徳川の世をひっくり返されることを恐れたのでしょう。 要するに、戦ではあんまり役にはたたない剣術をせっせと稽古をし、また、江戸中期になれば、「素肌剣術」とよばれる甲冑装着を想定しない剣術が多く排出されたことを見ると、江戸時代とは、本当に平和な時代だったのでしょう。

  • taishi1
  • ベストアンサー率34% (9/26)
回答No.8

質問者様のおっしゃるように戦国時代のメイン・ウエポンは槍で、刀を使うのは倒した敵の首を落とす時ですよね。 あるいは戦場で槍を奪われたり紛失した場合やむを得ず代用品として使うということはあったでしょうが、しかしそれは圧倒的に不利な状況なわけで、戦国武者にとっては武運に見放されたも同様だったでしょう。 信長・秀吉やその他多くの大名が剣術にほとんど価値を見出さなかったのは、戦国期においては剣術というものが戦場で何の役にも立たぬ大道芸程度にしか見なされていなかったゆえでしょう。 ただ徳川家康は個人的趣味として剣術に興味を示した当時にしては珍しい大名であり、その家康が天下を取ったというのが江戸期における剣術興隆の理由としてはかなり大きいのではないでしょうか。 もし信長や秀吉の支配体制がそのまま続いていたら、剣術というものは存続したとしてもその地位はよほど低いものになっていた可能性は大だと思いますし、また武士たちは論語も朱子学もほとんど学ばぬ無学者のまま江戸期独特の精神的武士道は誕生せず、「刀は武士の魂」といった精神的スローガンが伝播することもなく、武士のイメージは今日我々が抱くサムライ像とはかなり違ったものになっていたかも知れませんね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

私はアメリカに住んで居ります。昨日、NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)という質の高い放送局で、イラク戦争の米兵の体験談を放送していました。大変迫力のある番組でした。これだけ火器の発達した現在でも、最終的には取っ組み合い齧り付き合いの凄まじい戦いになっていることを教えてくれました。したがって、基本的な武道は実戦でも役に立つどころか、必要なのではないでしょうか。 私はアメリカでアメリカ人から剣道を教わりましたが、ある機会に真剣を持たせてもらった時の異様さは印象的でした。アメリカですので拳銃や機関銃に触った経験もありますが、何かただの機械を触っているようで、あの日本刀の持つ冷たい異様さを感じることは出来ませんでした。別な言い方をすると、剣術をやり日本刀を携えていると、実戦としての役に立つばかりでなく、精神的にも「死」を身近に意識することになります。そして、そんな連中とは闘いたくないな、というような恐怖感を相手に感じさせるような雰囲気を持っています。 戦争で最も怖いのは恐怖感だそうです。あれだけ強大な軍事力を誇り何年も闘って来たアメリカ軍と南ベトナム軍が、北ベトナム軍の所謂テト攻勢の時に、あれよあれよと見る間にたった2~3日で降参してしまいましたね。あのときアメリカ軍と南ベトナム軍を襲ったのは恐怖感でした。恐怖感は伝染します。剣術の稽古は、軍人として肉体ばかりでなく精神力を鍛えるのにも役に立ったていたのではないでしょうか。 もう一つ付け加えておきます。私の友人で昔学生時代にラグビーをやっていた者がいます。彼から聞いたのですが、夏休みのアルバイトとして、海水浴場でチンピラやヤクザから治安を守るための用心棒みたいなことをやったそうです。その連中は皆大学の運動部だったそうです。この他にも、空手部や柔道部、そして剣道部の連中が居たそうです。彼の言うには、一般に剣道部の連中は線が細そうに見えるのですが、いざチンピラなどとやり合う時には、その剣道部が一番肝が据わっていたと言っておりました。

回答No.6

教育の一環です。 剣道を通じて礼儀を学んだのです。 江戸時代に比べて、今の時代は礼儀も道徳観も低下していますね。 嘆かわしいことです。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.5

武士というのは戦闘要員でしたから武芸はそのための必要教養でした。 それが平和な時代になっても自衛の意味もあって続いていたのです。 武芸は剣術に限らず柔道や体術でもよいのです。 これらに優れている事は出世の方便であったといえましょう。 平和の時代では学問や事務能力なども重視されこれが出世にも役立つようになりました。  しかしこれらはある程度能力が必要で、その点武芸は体力と鍛錬だけである水準に達する事が出来ますから皆励んだのだと思います。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.4

 基本的に、江戸時代は武家政権です。  武家政権では指揮官=殿様が最重要。  戦時では、鉄砲・弓・槍が当然ながら主な武器で、兵士同士が争いますが、平時でも殿様を守る体制を取っています。  刀は、建物の中で急に戦闘になったときに、当時では一番有効な武器です。ボディーガードの技術として剣術が優秀な若者は、殿様の周りで雑用を勤める係りとなる確率が高く、雑用を勤めるうちに、殿様や家老に「この男は気が利く」「腹が据わっていて動じない」などと認められれば、親の地位を越えて出世しました。  つまり、若者が認められる一番の近道であったのです。  もちろん、藩校で成績優秀・剣の腕も一流が文武両道を備えベストですが。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.3

隠居した武士を除き、武士は外出時には常に大小を腰にしていました。一方、平民でも「大脇差」と称して刀を一本だけ腰にすることは何だかんだ言って認められていました。 武士は、通常は「生まれてから死ぬまで、刀を抜くのは手入れの時だけ」なのですが、仮に止むに止まれぬ理由で刀を抜けば、必ず相手を斬らねばなりません。「江戸時代の武士が剣術修業必修であった理由」は、「いざという時に不覚を取らないため」というのが答です。 「いざという時」は、江戸時代のほとんどの武士には一生を通じて訪れなかったでしょうが、例えばこういう場合です。 1. 武士同士の喧嘩。相手から武士として耐えられない侮辱を受ければ、忠臣蔵の松の廊下のように「刀を抜いてはならない場所」にいる時を除き、躊躇なく刀を抜いて相手を斬らねばなりません。 「甚だしい侮辱を加えられたのに(剣術に自信がなく、斬り合ったら負けるのが明白なので、命が惜しく)沈黙して何もしなかった」場合、「武士にあるまじき振る舞い」として処罰(切腹命令)を受けました。 ただし、武家社会の基本ルールは「喧嘩両成敗」で、刀を抜いて喧嘩をした武士は生き残っても切腹することになります。ですので、正気の武士が「別な武士を人前で甚だしく侮辱する」ことは通常あり得ません。誰でも命は惜しいですから。 2. 平民相手の喧嘩。先述したように、平民でも「大脇差」と称する刀を持っている場合があります。ヤクザ者であれば当然のことです。 武士が、平民(ヤクザ者)から侮辱を受け、「侮辱を受けても沈黙して何もしなかった場合」「刀を抜いて斬り合ったが、平民(ヤクザ者)に負けた場合」、いずれも「武士の面目を損なう不届きな振る舞い」として処罰(切腹命令)を受けました。(1)で述べた武士同士の喧嘩より、さらに「武士として恥ずべきこと」です。平民に侮辱を受けたら、必ず刀を抜いて相手を斬り殺さねばならないのです。この場合、「侮辱を受けたことが明白で、不届きな平民を見事に斬り殺した」のであれば、いわゆる「斬り捨て御免」として武士は何ら咎めを受けませんでした。 なお、「侮辱を受けたわけでもないのに、罪なき平民を面白半分に刀を抜いて斬り殺した」のであれば、これは「斬り捨て御免」ではなく、「良民を故なく殺傷するとは武士の風上にも置けない」として処罰(切腹命令、もしくはさらに重い罰)を受けました。これは当たり前ですね。 以上のように、「いざという時に、刀を抜いて、同じく刀を持つ相手に勝てること」は、武士がその身分と面目を守るために必須の技量でした。とはいっても、武士が皆一定以上の剣術の技量を見につけられたかどうかは別問題ですが。

  • k-josui
  • ベストアンサー率24% (3220/13026)
回答No.2

古来合戦だけが戦いではなかったはずです。 ちょっとした事でも刀を抜いての切りあいもあったはずです。決闘、敵討ちなども認められていました。そんな場では剣術がいかに優れているかが武士として崇められていたと思います。 そして「刀は武士の魂」と云われるように武士=刀のわけです。 そうなれば当然、魂と言われる物が扱えないのでは笑いものですし、剣の腕がたつ人が多くから認められるわけです。     合戦となれば雑兵が最前面で、武士と呼ばれる人たちはその指揮に当たることのほうが多かったと思います。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

剣術は平和な時代の産物で、飛び道具や槍がめったなことでは使えなくなってから興隆したものです。 もちろんそれ以前にも少しはありましたが、その頃の剣術というのは日本刀だけを使うわけではなくなんでもありで、正面から向かっていくというようなものではなく弱いところばかりを狙う、今の剣道ではルール違反になるような技が主流だったようですが。

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