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宗教
信じる者は救われる。と良く聞きますが、神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか?その方が神や仏にとって、パフォーマンスが高いと思います。
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- gobun
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それでは逆にお聞きいたします。 『神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか?』 この考えに対しましては、一理あるのかも知れないと思います。 (でも信じなくてもいいという事ではありません) そこで、keiri2002さんのおっしゃる『救い』とは何を意味しているのでしょうか? 例えば具体的に何を指して『救い』言われるのでしょうか?
- taknt
- ベストアンサー率19% (1556/7783)
神は、人間に対して、干渉はしないようです。 つまり、干渉していれば、とっくにみんな 救われているでしょう。 人間が気づいて 直していかないと ダメなのです。 だから、信じない人は、直そうとしない人ということになりますね。 信じない人に いかに信じさせようか 努力(伝道)は しているでしょう。 でも、それを嫌がる人たちですけどね。
- KUJIYA
- ベストアンサー率34% (53/152)
#5です。 まだ締め切られていないようなので、ちょっと真面目に根本的な点について。 まず、「信じる者は救われる」という言葉の元はキリスト教だと思うのですが、 この宗教では世界中を信者で満たすことを目的としていません。 聖書の光をあてて、信じる者と信じない者を色分けしようとしているだけです。 信じない人は救われなくても、神様は困らないです。 だから、信じない人に奇跡をおこして無理に信じさせる必要もないし、 聖書という手段以外で獲得した信者は、神の意図に反してしまいます。 だから、「信じる者は救われる」が正解となります。 また、この「救われる」は奇跡を起こして魔法のように救うことを指して いません。死後の世界や神の時代になった時の復活など、未来への約束手形を 渡すことで、現世にも救いを与えています。 神によって創造された人間が、神を理解し来るべき神の時代に生きるための 準備期間として現世があると考えれば、生きることへの虚無感に苦しむことも ありません。死を恐れることもありません。このように現世的にも精神的に ですが、救いを与えています。 しかし、これは未来の約束手形や聖書という文字の塊を信じるから与えられる 特権であって、信じなければ理論破綻しますので救われません。 「救われるから信じる」のではなく、「信じるから救われる」です。 他の宗教では信じるだけではなかなか救ってくれません。 修行をしてみたり、お祈りを義務としていたり。 こちらは色分けではなくて、「努力してそこに到達せよ」という命令を 含んでいますので、逆に誰でも努力すれば救われますが、 信じていない人が努力もしていないのに救われては、努力の意味が なくなってしまいますから、これまた信じない人を救うわけにはいきません。 こんな例え話を聞いたことがあります。 崖から落ちそうになって、どうにも自力では戻れない、手を離せば死ぬだろう という状況で、天から神の声が聞こえます。 「今、その手を離せば、私が受け止め崖の上に戻してあげよう」 神とは、こういう奴です。 助ける力があれば、すぐに崖の上に戻せばいいのに、 信じるかどうかを試すんですね。
> 信じない者こそ救うべき パフォーマンスは高いでしょうが、信じない者には迷惑な話です。 実際、砂漠系の宗教(キリスト教、イスラム教、etc.)は信じない者へのアプローチを熱心にやっています。 熱心すぎて、神の名の下、戦争になってしまう事すらあります。 そこ行くと、日本の神様は偉いものです。 ヤオヨロズと言って、8,000,000ものカミサマがいるにもかかわらず、 長年の不景気には見向きもしてくれません。 そんなのんきな神様が、私は結構すきです。
- sayshownagon
- ベストアンサー率29% (8/27)
NO.14です。 >合理的に考えて、何で助かったのか分からない時(私 は原因があると思いますが)、それを信じていなくて も、何か超越的存在を考えることもあるのではないで しょうか。 あなた様がいう「超越的存在」というものを神様・仏様とするなら >神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか? という上記あなた様の最初の疑問は「神様は存在し、信じていなくても救ってくれる」と思えるじゃないですか? 後はそれを「信じるか」「信じない」かだけ。それを決めるのは自分でしかない。よって、「神・仏は自分が創り、自分の中にいる」と思います。「超越的存在」とは御自身どのよな意味で使われたか解りませんが,,,,, 昔「日食」をみれば神か悪魔の力(超越的な力)と考えたでしょう。また、明確な理由が解らないものを神か悪魔の力(超越的な力)でかたずけるしかなかったんでしょうね。でも、今、そんなことを言ったら笑われる。現在、不思議に思えることも将来、解明されるものでしょうね、きっと、日食みたいに。
お礼
遅くなってすいません。 再度の回答有難うございます。 >自分の中にいる 神や仏といった表現はともかく、何かしらのものを皆持っているのでしょうね。 >明確な理由が解らないものを神か悪魔の力(超越的な力)でかたずけるしかなかったんでしょうね。 納得です。とりあえず纏めておいとけって感じですね。
- sayshownagon
- ベストアンサー率29% (8/27)
日本語の問題ですね。 例えば、神様・仏様が誰かを救ったとしましょう。 その人が神様・仏様を信じていれば「救われた」と思うでしょう。 仮にその人が神様・仏様を信じていなければ、「救われた」と思うはずが無い、だって、信じていないから。 「いない」もしくは「信じていない」と思ってる存在に「救われた」と思える人は居ません。「信じない」かぎり、救いは得られるはずがない。神・仏は自分が創り、自分の中にあるものと思います。(坊主のウケウリ)
お礼
回答有難うございます。 >その人が神様・仏様を信じていれば「救われた」と思うでしょう。 仮にその人が神様・仏様を信じていなければ、「救われた」と思うはずが無い、だって、信じていないから。 そうでしょうか、あるAという全く信用できない人でも、明らかにAから救われたとき、それを認識できるのではないでしょうか? 合理的に考えて、何で助かったのか分からない時(私は原因があると思いますが)、それを信じていなくても、何か超越的存在を考えることもあるのではないでしょうか。
- apple-man
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No.1で回答した者です >前半部分は人間が神の概念を創ったということでしょうか、 私はそう考えています。ただ神のモデルに なるような、皆の尊敬を集めた人が実在した かもしれません。 1つ確かなのは、神が実在したとしても、 神の話だとされる聖書を書き残した人たちが かなり偏見に満ちた考えを持っていて、 それが伝えられる神の話の中に残って しまっていることです。 旧約聖書について言うと、例えば男尊女卑の思想が 見られます。男性であるアダムに禁断の木の実を勧め て食べさせてしまうのは女性のエヴァであり、 その罰として女性には一生、(子供を生むという) 生みの苦しみが与えられます。 先のソドムとゴモラの町が神の炎で 焼かれる場面でも、逃がしてやるが 決して後ろを振り向いてはいけないと 神に忠告されたのに、逃げた一家の奥さん、 つまり女性だけが振り向いて、石にされて しまいます。 そういった、神の伝承に携わった人間たち の偏見に加え、宗教活動の成功が信者 獲得に依存している面があるため 「信じる者は救われる」つまり信仰が あなたを救うのですという表現で残って いるものと思います。 なお宗教解釈の点から見ると、この信仰が あなたを救うのですという表現の裏には、 必ずしも修行は必要ないという意味が含まれて いることが分かります。 現在残っている宗教の多くは、この 修行不要という概念を打ち出したことに より、信者の大量獲得に成功し、現在に 到っているという経緯があります。 仏教のお布施、寄進というしくみが その代表例ですが、キリスト教世界では 少し行き過ぎて、どんな悪事を働いても 金を出せば救われるという、いわゆる 免罪符の問題に発展し、その後ルターの宗教 改革へと繋がって行きます。 >何れにせよ神は全能ではないという事ですか。 そうゆうことだと思います。 また、多くの人間が未だに神の存在を いろいろな形で証明しようとしているの ですが、成功しないばかりか、神など 存在しいほうが理屈がとおることが多く、 少なくとも、現状においては人知を 超えた全知、全能の神など存在しないという 結論が正しいように思えます。 聖書の話を信じるまでもなく、仮に人間を 創った存在が何かあったとしても、それはお互いを 意味も無く殺しあうばかりでなく、原爆開発の ように世界を破壊しかねないような人間を この世に送り出すなど、明らかに先を 読む能力に欠けたものであることは 間違いありません。 また生物化学の分野で、人間は神の領域に 近づいているということを言う人がいますが、 そんなに簡単に近づけるものなら、神も 大したことはないのか?或いは人間が神に なりつつあるのか? >信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか? 神が人間を救うということを考えたとき、 悪人まで救うべきか?という問題が常に 出てくるでしょう。 心の広い神なら、差別なく全ての人間を 救うかもしれませんが、それでは人間は 納得行かないはず。 今の少年犯罪の話でも、少年の犯罪は罪として 罰するが、人権は守るなどと言うと、人を 殺したような人間に人権など必要ないという議論も 出る。 結局、人間は自分が正しいと思うことを 評価してくれて、自分が悪い思うことを 罰してくれる神を望んでいるのであり、 同じ内容を正しいと信じている人だけを 救って欲しいと望んでいる願望が 「信じる者は救われる」という言葉に表れて いるのであって、自分が正しいと思う ことを信じない悪人まで助けるような 存在は、神と見なさない、つまり悪魔と 呼ぶことでしょう。 >>信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか? 信じるという部分は普通、信仰を意味していますが、 広く解釈して「<自分が正しい(正義)と思うことを> 信じない者こそ救うべき、と言い切れるでしょうか? 救われるということは、罰も苦しみもなること ですから、信じない者こそ救われたら、普通 憤りを感じると思いますが。
お礼
再度の回答有難うございます。 >神のモデルになるような、皆の尊敬を集めた人が実在したかもしれません。 三国志に出てくる関羽なんかも神様扱いされてますもんね。 旧約聖書にはこういう事が書かれているんですか、知りませんでした。男尊女卑の考えもここにあったわけですね。 >修行不要という概念を打ち出したことに より、信者の大量獲得に成功し、現在に 到っているという経緯があります。・・・・ 宗教とそれを扱っている一部の人間の欲がコラボレすると碌な事にならないということですね。 >信じている人だけを救って欲しいと望んでいる願望が 「信じる者は救われる」という言葉に表れて・・・ なるほど納得です。 >信じるという部分は普通、信仰を意味していますが、 これは神という概念を人間が創ったという前提では、その通りだと思います。が >信じない者こそ救われたら、普通憤りを感じると思いますが。 は、信じていない人Aは、Bという人が信じている神を信じないだけであって、AはAで信じている神があるかもしれません。憤りを感じるというより仕方が無い事なんでしょうね。
> 存在しているが目的が無い。これは一体どういう事なのでしょうか? 単に「存在している」ということでしょう。これを突き詰めれば「そもそも神とは何だ」という議論に発展しそうですが、私の解釈では、宗教とは「神の意志」や「神の目的」によるものではなく、その神に何かを求むる「信者の意思」や「信者の目的」によって成り立つものです。 つまり神とは、フライパンやタイヤ等の物質と同じく「救おう」とか「信者を増やそう」とか考えたり思ったりしないもの…かなぁ、と。もっと平たく言えば「感情とか意思とか持ってないんじゃねーの?」ということです。私の考えでは。
お礼
度々の回答有難うございます。 >宗教とは「神の意志」や「神の目的」によるものではなく、その神に何かを求むる「信者の意思」や「信者の目的」によって成り立つものです。 私も「目的が無い」という表現は道具という印象を受けました。なるほど道具には意思が無く、使う人によって様々な意味・目的を持ちますものね。 仮定ですが、宇宙における、全ての物理的・化学的変化には目的は無く(単にこの宇宙の法則に従っているだけ)、しかし、宇宙は存在している。とみると神は宇宙そのものということでしょうか。なんとなく納得いくかな。(^^)
- taroimo_hasami
- ベストアンサー率23% (191/830)
>神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか?その方が神や仏にとって、パフォーマンスが高いと思います。 面白い発想ですね。けれども、考えようによっては、keiri2002さんの発想は神の存在を否定している事になりませんか? 仮に神がいたとしましょう。神様にも心があるでしょうから、なるべくなら沢山の信者を獲得したいと考えるでしょう。とするなら、信者獲得のためにも、信者ではない人間を救済して自分の存在を誇示し、信徒獲得に動き出すはずです。ところがその動きが無いという事は…いないという証になります。 信じるものしか救われないというなら、随分と酷い神様ですよね。神なら、あらゆる人間に手を差し伸べるのが本来あるべき姿だろう、と思うのですが。 神様はいたとしても、人間の動向に興味など無いのでしょう。いたずらで人に幸運や不運を与えているだけですので。考えようによっては、悪い人にもうつるのですが(と書くと宗教の人達からお叱りを受けそうですが…悪気は無いのでご容赦)。
お礼
回答有難うございます。 >面白い発想ですね。けれども、考えようによっては、keiri2002さんの発想は神の存在を否定している事になりませんか? そういうことです。(^^)私は結構否定的です。しかし存在云々で言うならば、先のお礼でも書きましたが、神が存在しているなら、私が信じなくても、存在しているのだろうし、存在していないのなら、誰かがいくら信じても存在していないのでは?と思うのです。信じる、信じないは存在に関係なく、その言い方がいかにもイカガワシク聞こえてしまいます。
> >何の為に存在するのか、は分かりません > にもかかわらず、少なくとも“救うために存在するもの”ではないと、或いは“信じさせることでもない”と、なぜ思われるのでしょうか? 私が各種教典等を読んだ限りでは、神が存在する理由なり目的なりを明確に述べた箇所がないからです。多くの教典に於いて神の存在、は“前提”であり、私は“そもそも神とは何らかの目的を持って存在するものではないのではなかろうか”という見解を持っております。よって、神が存在する目的が「救う為である」もしくは「我を信じさせる為である」と断ずることが出来ない、と述べたのです。
お礼
再度の回答有難うございます。 >私が各種教典等を読んだ限りでは、神が存在する理由なり目的なりを明確に述べた箇所がないからです。 私は教典等は読んだ事も無ければ、見たことも無いので偉そうな事を言うつもりは無いのですが、教典ですらこういうものなのかというのが率直な感想です。 >多くの教典に於いて神の存在、は“前提”であり そうなんです。存在が前提なんですね。私が質問したもう一つの理由は、信じる者しか救えない、人間でも出来ることではなく、信じない者でも救える、何か超越した「神」が存在するのか?でも現実は、信じない者は救われない、(信じている者もすくわれているのか?)のであれば「神」は存在しないのでは?という意味あいもあったのでした。 でも >“そもそも神とは何らかの目的を持って存在するものではないのではなかろうか” であれば上記のことすら意味がなくなりますね。 これは面白い命題ですね。存在しているが目的が無い。これは一体どういう事なのでしょうか?
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お礼
遅くなってすいません。 回答有難うございます。 >信じない者には迷惑な話です。 そうですね。実際、宗教は権力者の道具として使われてきましたもんね。 >長年の不景気には見向きもしてくれません。 どっかの政界と同じで、神様もいっぱいいすぎてゴタゴタしてるんでしょう。