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宗教
信じる者は救われる。と良く聞きますが、神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか?その方が神や仏にとって、パフォーマンスが高いと思います。
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> 神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだと思いますがどうでしょうか? 貴殿がこう考えるそもそもの理由を教えてください。私はこのようには思いません。なぜなら神とは“救うために存在するもの”ではないように思うからです。(では何の為に存在するのか、は分かりません) また、神はパフォーマンスの高さを追求してもいないと考えます。 …以下は横レスです。 > >神から一方的に与えられるばかりではなく、人間の努力による部分もあるのではないでしょうか。 > そう思います。私は努力が100%だと思います。 世の中には当人の努力のみでは覆らない状況も間々あります。運やタイミングも無視は出来ません。よって努力は大変に重要ですが、100%ではないように思います。 > >神や仏に奇跡の実行力があって、善悪ではなく信じさせるだけの目的に奇跡を起こすならば、信じない者にこそ力を見せつけるべきでしょう。 > そうなんです、なんでもったいぶってんでしょうか? 信じさせること、が目的ではないからでしょう。
- yu-taro
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keiri2002さんこんにちは。日本人のライフスタイルは外人から見れば奇異にみえるところがありますね。 お正月は初詣に行き、彼岸には祖先の墓参りをするのは理解されるのですが、キリストを教を信仰していないのに、クリスマスにはパーティをしてバレンタインデーには女性から目当ての男性にチョコレートを渡すというのは特に理解されないようです。 生活習慣の違いからか、外国人特に西洋系の人の多くは自分はどの宗教を信仰しているかを堂々といえる人が多いですが、日本では宗教を信仰していると言うと何かと奇異な目で見られがちです。 数年前のある信仰宗教団体の一部の者が起こした大きな事件は今でも記憶にあるところです。 私も無信仰者ですが、初詣もすれば、バレンタインデーやホワイトデーなどは大歓迎だし、クリスマスも好きな女性と過ごしたいし、縁結びで良いと思った神社があれば西へ東へと行きます。苦しい時の神頼みですが、楽になると案外忘れていますね。この辺りが調子が良いところです。(笑) 生活の中に宗教が取り込まれているようでないのが 私の立場ですが、日本人の多くの人がそうだと思います。親類や知人友人が亡くなれば葬儀墓参りには行きますが、これは宗教活動でないですね。観光地に行き、由緒あるお寺や神社に行き、さい銭を上げお参りをして、願い事をするこれも宗教活動ではないですよね。冠婚葬祭は社会人としての当然の行いで、信仰や宗教活動ではありませんね。 信じる者が救われるというのはその人の気持ちの持ちようかと思います。誰でも苦しい時や辛いときがありますが、そういうときに、何かにすがりたいということで、実在するの有無よりは自分の心の中にある支えを持ちたいのだと思います。 つまり、人間は生まれながら弱いもので一人では生きて行くことができず、何かにすがって生きて行くことが良いという教えを説いたものかと思います。
お礼
回答有難うございます。 >お正月は初詣に行き・・・ は私も思います。でもこれが日本人の文化かなと。 >信じる者が救われるというのはその人の気持ちの持ちようかと思います。誰でも苦しい時や辛いときがありますが、そういうときに、何かにすがりたいということで、実在するの有無よりは自分の心の中にある支えを持ちたいのだと思います。 私の場合だと窮地に陥った時、助けてくれたら信じてやるって思ってます。でも助かったあとは、喉もと過ぎればなんとやらで、いい気なもんです。
こんにちわ。 私は無神論者なのですが、面白そうな質問だったので書きこませていただきます。 >信じる者は救われる。 特に神仏に対して言及していなければ、対人に使うと思いますが、それは省略します。 神仏に、という事に関しては、信じる事によって精神的な安定を得らる場合もありますし、それが宗教の存在意義だと思います。 自分を客観的に見る(神の目から見る?)ことができる、という事ではないでしょうか? >神や仏にとって、パフォーマンスが高いと思います。 ウケました♪ もしそうなら、数字やノルマなんかに振りまわされている神や仏ってのは、ありがたくないですね~。
お礼
回答有難うございます。 >信じる事によって精神的な安定を得らる場合もありますし、それが宗教の存在意義だと思います。 納得です。誰しも一度や二度は何か超越的存在に慈悲を請うたことはあるでしょうから。(だとしたら、無神論者などいないということになるのかな?) でも私の場合結局物事は、相対的な力関係(個人的能力や物理的な力)で決まると思っていますが。神の有無は分かりませんが、存在したとしても、この法則から自由にはなれないような気がします。 余談ですがアインシュタインが(事実かどうかは知りませんが)「神は別な宇宙を創造することができたのだろうか?」という非常に興味深い言葉を残したそうです。
- liuutaroh
- ベストアンサー率30% (4/13)
カソリック(旧約聖書)の文言だったと記憶していますが、[実在する/存在しない] [信じる/信じない] の行列(2行2列)として整理してみては如何でしょうか 能動/受動的な差ですが、信仰がなければ 対象も生まれません(我、思うがゆえに 我あり:デカルト) 余談に、なりますが…>> 性能を問うのは、機械ダケの模様です: ・遂行, 実行; 行為; 仕事; (機械の)性能, 運転; 功績; できばえ; (人の)遂行能力; 演技, 演奏, 演奏[演技]ぶり; 興行; 公演されるもの
お礼
回答有難うございます。 「我思うゆえに我あり」 私もわりと好き言葉ですね。 ただこれとは反対に、「あんたがあんたのことを認識していようがいまいが、あんたが厳然として存在しているのなら、誰もあんたのことを認識していなくても、事実存在しているんじゃないの」っていう考えもあります。 量子力学的な話になってきますね。認識とは、観測とは何かってやつですね。 >余談に、なりますが…>> ??どういうことなのでしょうか。 神がいるのなら、機械が神ということか。(飛躍しすぎ?)
- KUJIYA
- ベストアンサー率34% (53/152)
パフォーマンスという視点ですと、信じない者を主に救う場合、 信じている者の方が救われないケースが多いと言えますが、 救われない信者はやがて離れていってしまうので 信者獲得パフォーマンスが上がっても、離脱率が上がって 全体としてはよろしくないんじゃないでしょうか。 実際には、「救い」は奇跡とかでなくて、教典に書かれている 言葉などによって救われるという形式になっていると思いますので 信じていない人を救うのは難しいでしょうね。 神や仏に奇跡の実行力があって、善悪ではなく信じさせる だけの目的に奇跡を起こすならば、信じない者にこそ 力を見せつけるべきでしょう。 でも、某キリスト教系の宗派では、人間にも悪魔側の人間を 設定していますので、悪魔側の人間は排除しなくてはいけません。 宗教は、単に集金するための人集めではないと言うことです。 ・・・・・名目上は。
お礼
回答有難うございます。 >信者獲得パフォーマンスが上がっても、離脱率が上がって全体としてはよろしくないんじゃないでしょうか。 離脱率を上回る獲得率を目指します!! >神や仏に奇跡の実行力があって、善悪ではなく信じさせるだけの目的に奇跡を起こすならば、信じない者にこそ 力を見せつけるべきでしょう。 そうなんです、なんでもったいぶってんでしょうか?
- taknt
- ベストアンサー率19% (1556/7783)
救えるものならば、とっくに救ってます。 信じてるものさえ なかなか救えない現実なのに、 信じてない人まで 手がまわりませんよ(笑)
お礼
回答有難うございます。 >救えるものならば、とっくに救ってます。 私もそう思います。神にも無限の力が有るわけではなさそうですね。 「なんで、俺がこんな事せなあかんねん。」という声が聞こえそうです。
- tenitukoku
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神様がいないとすれば「天国も地獄も無ぇ!」って事になります。「地獄も天国もねぇンだから、極悪非道な生き方しようが、正しく善良に生きようが、べつに構わねぇんだよ。だから、俺は生きてる間に好きなことをやるだけさ!捕まらないように、上手くね。へっへっへ…」もし、すべての人がそのように考え始めたら無秩序な世界となり、人類の未来には希望が無くなる様に思います。ですので、私は『神様がいた方がいい!』と考えます。 >神や仏が実在するなら、信じない者こそ救うべきだ と書かれていらっしゃいますが、『苦痛から解放されて救われる』とか『幸福に至る』ということは、神から一方的に与えられるばかりではなく、人間の努力による部分もあるのではないでしょうか。 人間自身で問題を克服し、解決し、成長してほしいからこそ、あえて手を出されず、沈黙を保たれる神様の姿もあっていい様に思います。
お礼
回答有難うございます。 >もし、すべての人がそのように考え始めたら無秩序な世界となり・・・ とありますが私はそうならないと思います。確かに全ての人がそのように考えたらそうなるかも知れませんが、全ての人がそう考えないでしょう、少なくとも私はそう考えません、それに人間界の理非善悪など時間的、個人的などの要因で同じことをやっても、どう捉えられるか、それこそ神でもなければ分からないと思います。 >神から一方的に与えられるばかりではなく、人間の努力による部分もあるのではないでしょうか。 そう思います。私は努力が100%だと思います。 >人間自身で問題を克服し、解決し、成長してほしいからこそ、あえて手を出されず、沈黙を保たれる神様の姿もあっていい様に思います。 だとしたら神はいったい何がしたいのでしょうか? 盆栽でも眺めてる気分なのかな・・・
- master-3rd
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その行為が、神が行ったことだと考えなければ神にとって意味のない行為になりますよね。 たとえば、あなたが、誰かに親切な行為をしたとしましょう。もちろんあなたがしたとは一言も言わないとします。 1、自然に起こったことだから感謝も何もしない。 2、あなたがやったと信じ、感謝の気持ちでいっぱい。 どっちが良いですか? あと、この言葉は神の立場から見たものではないと思います。 あくまでも、人の考えの持ち方だと思うんですが… 一例として、 どんなに今の状況が辛く苦しくても、神様がこの努力を見ていて、いつか救ってくれると考えています。 というように、何かにすがっていれば心に余裕ができ、日々生きていけるという人間の弱さをあらわにした言葉ですね。 ほかにも、何かひどい災難が降りかかったとき、 「おぉ神よなぜ私にこんなひどい仕打ちを…」 よく映画なんかで聞くせりふっぽいですけど、やり場のない怒り・憤り・悔しさなどをぶつける場所がない場合、神任せにしてみたりしますよね。 そういうことだと。
お礼
回答有難うございます。 >その行為が、神が行ったことだと考えなければ神にとって意味のない行為になりますよね。 これは前提が間違っていますよ(間違っていると信じたい)←信じる者は救われるそうだから(笑) これでは神が人間と同じ俗物だという考えです。 >やり場のない怒り・憤り・悔しさなどをぶつける場所がない場合、神任せにしてみたりしますよね。 これは分かります。神任せにはしませんが、最近愚痴がおおいなぁ~。
- apple-man
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保険と同じですよ。 加入して掛け金払っている人だけ 怪我、入院のときの費用出してくれる のであって、 >信じない者こそ救うべきだ とするのは、掛け金を払えないような 貧乏な人にこそ怪我、入院のとき 保険金をあげるべきだというような もので、それでは保険に入らない ほうがお金もはらわず救われて いいということになる。 宗教にしてみれば信者獲得が 1つの目的ですから、信じなくても 救われるというのでは困るのです。 神の存在の有無は別として、 宗教活動が信者集めという 人間くさい活動であることに 過ぎない良い例でしょう。 >信じる者は救われる。と良く聞きますが、 正確には、聖書の随所に出て来るのは 「信仰があなたを救うのです」 ということで、神様が直接救って くれるわけではないようです。 旧約聖書に、ノアの大洪水とか、 ソドムとゴモラという町を焼き払った話など、 神が大量の人間を地上から消し去ったと いう話が出てくるのですが、それらの 理由は皆、神が人間を作ったのは間違いだった と判断しているからで、いずれの話でも ほんの少しの人間を逃がすようにしており どうも神は人類の殆どは生きるに値しないが、 一部には確かに良き心を持った、生きるに 値する人間もいるようだと考えて いるようで、それが (<神>私を)信じる者は救われる。 という表現になって現れているのだと 思います。 傲慢のようですが、聖書のとおりなら、 人間は神が創ったもので、神の意思に 反するような、つまり神を信じないような ものは駄作であり、不良品であり、存在 するに価値はないということなんでしょう。
お礼
早速の回答有難うございます。 前半部分は人間が神の概念を創ったということでしょうか、であるならば神は俗物に成らざるを得ないのでしょうね。 後半部分は神が人間を創ったという考えですが、 >神の意思に反するような、つまり神を信じないような ものは駄作であり・・・ が本当なら神も大した事無い、まさに俗物ですね、創った人間が俗物になるのも頷けます。稀に不良品として俗物ならざる高貴な人間が創られるのでしょう。何れにせよ神は全能ではないという事ですか。
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お礼
>回答有難うございます。 >貴殿がこう考えるそもそもの理由を教えてください。 信じる者を救うくらいなら、私だってやりますよ。こともあろうに神や仏ともあろうかたが、なぜ人間と同じ行動をとるのか疑問だったわけです。 >何の為に存在するのか、は分かりません にもかかわらず、少なくとも“救うために存在するもの”ではないと、或いは“信じさせることでもない”と、なぜ思われるのでしょうか? >世の中には当人の努力のみでは覆らない状況も間々あります。運やタイミングも無視は出来ません。よって努力は大変に重要ですが、100%ではないように思います。 この考え方は一理ありますね。なぜなら人は(主観的ですけど)成功すると自分の能力のおかげだと思い、失敗すると運命のせいにしがちですから。