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霊性

霊性 例えばファッションや持ち物、身に付ける物などで、人は内面が成長すればするほど上質なものを選ぶようになっていくのでしょうか?値段が高くてもしっかりした作りの物やデザインの良い物を選ぶようになるものでしょうか?自分らしさを発揮していくものでしょうか? それとも、霊性が進化するすればするほどこだわりが無くなり、別に安い物でもなんでもいいやとなるのでしょうか?自己主張などしなくなり、自我が滅却されていくものでしょうか?

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noname#189246
noname#189246
回答No.1

霊性の高い人と一口に言っても、その人生は千差万別だと思います。 たとえば高い経済力を用いて人民を助けるような課題もあるでしょうし、 極貧生活の中で自分を磨いて行く課題もあることでしょう。 高い経済力を用いて人民を助ける霊性の高い人は、 そのファッションを綺麗なものにする必要があるでしょうか。 ない場合もあるでしょう。 しかし場合によっては、 ある程度清潔感のある外見を便宜的に身にまとっている方が、 目的を達成しやすいとか、各々の事情が千差万別にあるでしょう。 問題は外見そのものではなくて、その行動の意味する動機なのです。 どんな行動であれ、それがどれほど人のためという最終目的に向かっているかなのです。 利己的動機と利他的動機は常に入り混じりながら複雑な人間心理を作りだしていると思います。 そのなかで、より利他的動機が勝っているほど、霊性が高いと言えるでしょう。 身だしなみだって同じことです。 ある集団の中でやっていこうとすれば、それなりの格好をしなければならないでしょう。 問題はその人がなぜその集団の中でやっていこうとするのか、にあるのです。 外見は各々の事情により千差万別になっているのであり、 それだけで一概に霊性を判断することは出来ません。

noname#115673
質問者

お礼

素晴らしい回答ありがとうございました。

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回答No.4

デザインにおける「機能主義」において言われていることに、 「単に物理的な必要から生じた、結果的な形状を機能主義と 言うのではなく、それを見る人の心に正しい認識を与えるのも 機能の1つである」というものです。 (肉体に対する「機能」ではなく、心に対する「機能」) たとえば、建築デザインにおいて、単純に経済性を優先すれば、 駅も学校も病院も、四角い“豆腐に目鼻”なものになりますが、 そうしたものの並んだ特徴のない街並みでは、人は迷いがちだし、 また単調な空間(閉ざされた施設など)で育った子供は無気力に なる現象が観察されており、街全体がそうなってしまう危惧が あります。 もちろん、それを見る人間に深い洞察力があれば問題ありません が、人の認識は表面に依存しがちである以上、その内面(中)や 社会的目的性(外)、機能(t)といった、“見た目”を囲む要素を 表面に付加することが、相手への思いやりであり得ます。 (それは中身以上に見せようとする、装飾とは異なります)

noname#115673
質問者

お礼

ご回答まことにありがとうございました。

  • cyototu
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回答No.3

>それとも、霊性が進化するすればするほどこだわりが無くなり、別に安い物でもなんでもいいやとなるのでしょうか?自己主張などしなくなり、自我が滅却されていくものでしょうか? 先哲の言っていることが参考になると思います。 先ず一休和尚さんの話しから。あるお金持ちが亡くなり、一休さんに葬儀で偈を書いてもらうことにしました。そこで、一休さんはいつもの襤褸(ぼろ)をまとって、葬式の前日に下見に来ました。そしたら、そこの家人が一休さんとは気付かず、この乞食坊主め、今は取込み中で忙しいんだっと言いながら一休さんを叩き出しました。次の日の葬式の本番に、今度は一休さんは大変上品な袈裟を着てやって来ました。一休さんが上座について、さあいよいよ葬儀は始まりました。そうしたら、一休さんはいきなり袈裟を脱いで裸になり、お宅では、私よりもこの袈裟に敬意を表しているようだから、それを置いて行くと言って、さっさと葬儀場から出て行ったそうです。 次は孔子様の話し。われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。  この言葉は凄い言葉ですよ。私はもう還暦を越えて居りまますが、全くその通りの言葉だと実感しました。五十代まではまだ自己に拘り、自己主張が前面に出ていたのですが、還暦を越えた辺りから、人の言うことを聞くことが出来るようになり、若い者の言っていることに耳従えるようになった自分に驚きました。 最後に、源氏物語にも出てくる比叡山の恵心僧都源信が書いた『往生要集』。この本で源信は地獄と極楽を克明に描写しています。ところで、地獄の描写はどんな民族の人が書いても必ず面白いのですが、天国や極楽の描写はどれもこれも退屈きわまりない。イスラムの天国は何かキャバクラみたいだったり、キリスト教の天国はアナーキで昔のピッピーが行きそうなところで、十日もいたら飽きてしまいそうです。ところが、源信の画いた極楽は大変知的な世界なんですね。ダンテの『神曲』の天国篇なんて、それを読んで是非そこに行ってみたいなんて思えなかったのですが、源信の極楽なら行ってみたいと思えました。  その源信の描写によると、極楽には入門コースと中級コースと上級コースがある。入門コースでは、極楽の辺り一面に美しい花が咲き乱れ、心地よい香りが漂い、仏様がきらびやかな衣装をまとい、菩提樹の木の下にお座りになられたり、あるいは空中に浮かびながら、入門者たちに講義をなさって居られる。その講義は大変分り易く、難しい話しが簡単にこちらの頭に入って来る。そして、「そうだ、そうなんだよ」と納得する度に自分が成長した満足感、幸福感を味わうことができる。何か第一級の学者さん達の講義を聴いているみたいなんですね。そして、一つ納得する毎に百万年の命を授かるのだそうです。その恍惚を味わって行くうちに自然に中級コースに進んで行く。その段階で周りを見回すと、周りには花も香りもなく、仏様のきらびやかな衣装もない。大変質素な衣をまとって居られる。そして相変わらず感激させられる講義がつづいており、こちらはそれを恍惚と聞いている。そしていよいよ上級コースに入り、最早自我が完全に滅却され、仏様と一体に融合した存在に成っているそうです。 以上。

noname#115673
質問者

お礼

勉強になります。ありがとうございました。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

霊性がどのような意味なのかわかりかねますが 「霊性=心」とザックリと捉えて回答してみますね^^ ・身に着けるものについて。 自我意識がなくなっていけば、こだわりがなくなるので、身に着けているもので外から精神面を垣間見ることは難しいでしょう。よく言われる自分らしさとは自我意識のこだわりでしょうから、こだわりが強ければそれだけ自我意識が高いともいえましょう。しかし、こだわってきているのかどうなのかは外からはわかりませんね^^; ただ、智慧高き自我意識無き方々は、お金は有意義に使うでしょうから、服は最低限の機能面を満たしていれば十分と考えるかもしれませんね^^ 個人的には自我意識が増すほど堕落・滅するほど成長と捉えてます。

noname#115673
質問者

お礼

参考になります。ありがとうございました。