• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:どうして蜜柑は蜜柑なのでせう)

蜜柑の謎とは?

このQ&Aのポイント
  • 蜜柑の存在について疑問を抱いたことはありませんか?蜜柑は蜜柑なのに、なぜ葡萄ではないのでしょうか?また、蜜柑はなぜ甘いのでしょうか?これらの謎に迫ります。
  • 蜜柑という果物には不思議な魅力があります。まず、蜜柑はなぜ蜜柑なのか、なぜ葡萄ではないのでしょうか?また、蜜柑はなぜ甘いのでしょうか?これらの疑問について考えてみましょう。
  • 蜜柑はなぜ蜜柑なのでしょうか?なぜ葡萄ではないのでしょうか?また、蜜柑はなぜ甘いのでしょうか?これらの疑問に答えるために、蜜柑の魅力について探ってみましょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

質問者さんが混乱するのも無理はありませんね。その歌の詩は戦後確か昭和30年代頃だったかに流行った、野田醤油のコマーシャルソングだったのですが、印刷ミスがあり、「のだせうゆ」と書くべきところを「だ」を「で」と書き違えてしまい、さらに「ゆ」の字が落されてしまって「のでせう」と誤植されてしまったらしいですね。「のでせう」ではありあせん、「のだせうゆ」すなわち野田醤油です。今でも第一三共株式会社の出している食彩辞典では、「しょうゆ」を「せうゆ」と書いてあるので、間違いありません。 http://www.daiichisankyo.co.jp/healthy/hlmethod/syokusai/29/index.html を参照して下さい。 どうして蜜柑は蜜柑な野田醤油 どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にはいい部屋を揃へてゐる野田醤油 どうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でない野田醤油 ね、とても素敵なコマーシャルスソングでしょう。子供の頃良くラジオで聞いた記憶があるような気がしているような気がしております。その印刷ミスで質問者さんは大分混乱なされ、多分禅問答に関係ある歌だと勘違いしてしまったのだと思います。

g3452sgp
質問者

お礼

申し訳ありませんが本質問は野田醤油とは全く関係ないのです。 初めから気になっていたのですが、やはり本質問を哲学カテに投げるのがそもそもの間違いでした。 文学カテに投じるべきでしたね。ただし文学カテでは哲学について語ること、即ち宇宙や万物について、存在と認識の問題について語ることは多少無理があるのですが。

その他の回答 (9)

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.10

 [×] 残念!

g3452sgp
質問者

お礼

  やっぱこいつはオツムが足りんわ。   

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.9

>別に急いで無や空を体感しようとあせる必要はないはずです。  質問文の「禅問答や無や空について考えても無駄なのです」に加え、  「禅をしたり無や空を体験するのも無駄なのです。」を新たに加える、と言うことですね。  プリンを食べたことのない人が、「食べても無駄なのです。」と言えるだろうか?食べてみなければ「おいしい」とか「まずいからもう食べたくない」とか言えないね。  さあ、お待たせ。今こそ君のピンポンハットのボタンを押したまえ。  間違うなよ。「○」だろう?

g3452sgp
質問者

お礼

人は死ねば消滅し無になる。 だから人は誰しもそのうち否が応にも無を体験することになる。 しかも思う存分、永遠に無の世界を体験できるわけだ。 これ以上完璧な無の世界はありませんよ。申し分ないでしょう。 だから生きている間に無を体験しようなどと考える必要は更々ないということ。 さてさてどうです、これ以上完璧な答えは無いと思うが。  

g3452sgp
質問者

補足

わしが禅宗の坊さんにこんなこと言うたら、その坊さんは怒ったり気悪くしたりするかなー。 そんなこと無いよなー。 もしその坊さんが怒ったり気悪くしたりしたら、その坊さんはただ修行が足りんつーだけやろ。 それしかないよなー。

回答No.8

>愛、即ちLOVEは自己と他人の間に起こるもので自己と >他人が同一となった場合、愛は必要なく消滅します。 「自己と他人が同一となる」のは、短絡的意識においてではなく、 まさに愛(自我仮説の相補としての環境認識~社会生命的自覚化) によって可能になるのです。 目から世界が見えているからといって、目玉が自分だと思う 人はいません。 感覚器官は“自己”の肉体についているので、放っておくと 自己チュー化(即物的肉体の短絡的充足)します。 「自己」を宇宙の目として、深い認識と広い愛において、 全ての必然(宇宙)の自覚化する、ていう(無=無限の 潜在たる自我仮説と時空仮説の相補分化の認識)。

g3452sgp
質問者

お礼

自己チュー化した感覚器官による即物的肉体の短絡的充足により他者が生まれ、その継続的営みにより人類は発展した。即物的肉体の短絡的充足が普遍的意識の基に社会生命的自覚化へと変移したとき、その継続的営みは終わり迎え、同時に他者の誕生は終了し人類社会のエントロピーは減少へと向かう。 このとき異なる認識可能性は一つになり愛、即ちLOVEが実現する。

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.7

 「止めれば良いと解っていても止められない」のと、「禅無や空について考えることが すなわちそれを体感するということではない」ということは別ですね。 >酒や麻薬の常習者はそれをやるとどうなるか、最終的にどのような苦しみが待ち受けているか経験上既に分かっているがやめることが出来ないといったことがあります。  止めれば良いと解っていてもその途中で苦しくなって止められないのは単なる意志の弱さです。

g3452sgp
質問者

お礼

人は死ねば土に帰るので、そこでは否が応でも永遠に無や空を体感することになります。 別に急いで無や空を体感しようとあせる必要はないはずです。  

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.6

>禅の修行者であれ、無や空について考えたところで得るものは何もなく無駄であることは重々分かっているはずなのです。 にも拘らず無や空を求めようとする、求めずにはおれないのは何故かということを知らねばならないのです。  本当にムダであるとわかっていれば求めないはずだけどね。求めるということはそのことが解っていないからでしょう。自明ですね。

g3452sgp
質問者

お礼

>本当にムダであるとわかっていれば求めないはずだけどね。求めるということはそのことが解っていないからでしょう。自明ですね。 このあたりの状況、心理というのはそれほど単純ではないのです。 どのような結末になるか答えが分かっているのに行いを変えることが出来ない、人間にはそのような事は多々あります。 ここでこのような例を持ち出したくはないのですが、例えば酒や麻薬などがそうです。 酒や麻薬の常習者はそれをやるとどうなるか、最終的にどのような苦しみが待ち受けているか経験上既に分かっているがやめることが出来ないといったことがあります。 従って本当にムダであるとわかっていれば求めないはずと単純には言えないのです。

回答No.5

 No.1です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  仰る通りこの世は無常なるもの、万物は全て変化流転する運命にあるものです。  哲学において弁証法的唯物論、即ち万物は全て弁証法的に変化発展するものという捉え方は重要であり正しいのです。  ただしここでのテーマは哲学のもう一つの側面、即ち存在と認識の問題なのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから   ☆☆ (回答No.1) さなぎが蝶に変わるように / 前史から後史へと。  ☆ ということなのですが?   《変態》のごとく 旧き人を脱ぎ 新しき人を着るというこの自己到来としての《存在》論なのですが どうでしょう?  ☆☆ どうして変わらないと決められるのでせう?  ☆ 動態としての過程的な存在という意味です。  世界のほかのことは すべて 措定から反措定そして綜合へと変化すると思われますが 《存在》にかんしては むしろ初めの自然本性の――自覚をとおしての――奪還にその中核があるように考えます。  自然本性において わたしがわたしであるという――しかも 動態としての――存在です。  このわたしにとって 蜜柑は蜜柑 葡萄は葡萄 林檎・大根・梅その他その他がそれぞれであるというところでしょう。  なぜ《変化》をわたしが言おうとしたかは  ★ (趣旨説明) この世に有るものは現に有るのであり  ☆ というところについて 簡単に言えば突然変異もありうるであろうと言おうとしたのです。どうでしょう? 前史から後史への《変態》です。

g3452sgp
質問者

お礼

  >簡単に言えば突然変異もありうるであろうと言おうとしたのです。どうでしょう? 突然変異は当然起こります。 突然変異といってもその殆どは小さな突然変異です。 生き物が進化するのはこれら小さな突然変異の連鎖の結果として起こるのです。 生物界においてこれら小さな突然変異が数百万年、数千万年と続くうちに大きな突然変異、即ち進化をもたらすのです。 小さな突然変異は珍しいものではなく、ごく当たり前のことであり我々の日々の生活の中で常に起こっているのです。 つまり真理を探究し、新たな真理を一つ得る毎に小さな突然変異が我々の体内に記録されるのです。 このようにして人間はそして人類はこれまで進化してきたのです。  

回答No.4

「mikan」という発音に意味はなく、それが関係付けられた一群の物体が、 ひとくくりにできる形質のものであった事に由来するのです。 たとえば「犬」と聞いて、イメージするのは、四つ足の小さな動物です。 実際には、事故で三つ足のとか、人より大きなのとかもいるでしょうが、 脳の持つ総和機能=五感の相関した経験の蓄積において平均化する中で、 そうした例外は埋没し、平均的なイメージが結び付けられる=グループ化 できるものに意味(先行感覚において生理的経験の総和を励起させる) を与えるのです。 (さらにそれが「ひとくくり」にできるのは“階層現象性~進化”に由来 するルーツの共有による) しかし、その根底となる「五感の相関した経験の蓄積=記憶」とは、 異なる時点=異なるプランク定数(h)=異なる原理によって成る、 一種の錯誤だと言えます。 宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を 一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、 空間的広がりにおける他人も等価です。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として 発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 宇宙の発生に異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、 その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性 の他我化=愛こそが、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を 両立させるのです。

g3452sgp
質問者

お礼

  >宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として >発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 愛、即ちLOVEは自己と他人の間に起こるもので自己と他人が同一となった場合、愛は必要なく消滅します。  

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.3

 禅や無や空について「考えても」無駄なのです。

g3452sgp
質問者

お礼

禅の修行者であれ、無や空について考えたところで得るものは何もなく無駄であることは重々分かっているはずなのです。 にも拘らず無や空を求めようとする、求めずにはおれないのは何故かということを知らねばならないのです。  

回答No.1

 こんにちは。  さなぎが蝶に変わるように 人間すなわち現実も変わりますよ。  前史から後史へと。  どうして変わらないと決められるのでせう?

g3452sgp
質問者

お礼

  仰る通りこの世は無常なるもの、万物は全て変化流転する運命にあるものです。 哲学において弁証法的唯物論、即ち万物は全て弁証法的に変化発展するものという捉え方は重要であり正しいのです。 ただしここでのテーマは哲学のもう一つの側面、即ち存在と認識の問題なのです。    

関連するQ&A