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だうして蜜柑は蜜柑なのでさう
だうして蜜柑は蜜柑なのでさう だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう だうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でないのでさう だうして目の前に蜜柑が有るのでさう だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう だうして蜜柑は甘いのでさう だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう だうして私は私なのでさう だうして心臓が音を立て休むことなく 私の胸の中で動いているのでさう だうして私は他人ではなく 他人は私でないのでさう この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです この世に有るものは現に有るのであり 禅問答など無や空について考えても無駄だからではないでしょうか。
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君たち愚かな人類が蜜柑と名付けたから君達はミカンとしか認識できないのだ。 蜜柑は君達の愚かさをあざ笑い、自らの生を謳歌する。その果実は君達の失った生命力だ。 君達は、自らが屈服することによって、生きることが初めて認められる。 君達が懇願する限り、ミカンは君達を生かし続けるだろ。 君はミカンに生かされている。 しかしその生命の神秘を、君達は蜜柑としか認識してない。 君達は、蜜柑のように食べられてこそ、初めて自らを知るのだ。 死をへて自らになる。 自らのいただく神すらも辱める君達にとっては、たかが蜜柑だろうが、生命は等しく神の恩寵を受けている。 君たち旧人類は、生命を失っている。 すでに屍だからこそ、死を持って自らを悟るのだ。 それに無駄な抵抗をするのは、君たち特有の愚かさだ。
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- suzumenokox
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世の中は動的です。それは、ビッグバン以後の時間軸の流れの中における自然界の法則の発現によるものです。その流れの先に地球上で生物が生まれ、生物がその動的であることに対応して存在を維持するために多様であることが必要になります。
- 雪中庵(@psytex)
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#1の者です。 >しかしあなたは超光速の世界は存在すると主張し続けている 物理学は、超光速を否定していない。 通常の物体が光速を超えようとすると、質量が無限大に近づく ので、加速できなくなる=光速を超えられない、という話で あって、最初から超光速である=対発生するのであれば問題は ない。 相対性理論において、超光速においてエネルギーは虚数になる ので、(実数と虚数は0以外で相互作用しないので)オーバー ラップして存在し得る(0=光量子=感受表面での量子相互作用 のみ共有して=対発生の等価)。 そしてエネルギーは相互作用において自乗で作用するので、 虚数の自乗=負エネルギー=時間軸逆行と等価となる。 この場合は、現在からの超光速=過去への対発生の「逆行」、 つまり時間軸順行となり、未来への対発生と合わせて過去から 未来への慣性的な運動(の途中での感受表面での反射)として 捉えられる。 (これは最先端の話ではなく百年前に知られた事実です。人に 反論する前に、少しは勉強される事をお勧めします)
こむばんわ。回答番号9のplapotaです。先日、ぶらげろさんのブログに、私のIDであるplapotaを使つて書き込みをしてゐる人がゐました。腕の良いパロディで、感心しました。かなづかひが私の流儀とはかなり違つてゐたので、あれでは偽者だとすぐにばれてしまひます。私は、 丸谷才一『桜もさよならも日本語』新潮社 に記載されたかなづかひを真似してゐます。私のIDでネット投稿なさる方は、その本をお読みください。
- kohichiro
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NO.2 です。 >さう→候 そうろう そろ 文例 みかんはみかんにてそうろう みかんはみかんなのだ みかんはみかんです だうして蜜柑は蜜柑なのでせう =なぜみかんはみかんなのだ? ≠ だうして蜜柑は蜜柑なのでさう→ 不条理の世界つーか意味不明 どうしてみかんはみかんです(? がつけばいいかもしれませんが、省略はできませんね。他の回答者はそうしているのでしょうか(これには?がつきますが省略も可です) 哲学では正確な言葉が生命です。正しく、意味が通るように使わねばなりません。 更なる補足を。
- kurinal
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こんばんは。 >「この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです」 受容しましょう。 >「この世に有るものは現に有るのであり」 ・・・吟味が必要でしょう。 >「禅問答など無や空について考えても無駄だからではないでしょうか。」 「無駄」と考えるのも、一つですか。
こむばんわ。 >>だうして蜜柑は蜜柑なのでさう 蜜柑としての実体をそなへてゐるからです。 >>だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう 蜜柑としての価値が内包されてゐるからです。 >>だうして蜜柑は葡萄でなく、葡萄は蜜柑でないのでさう 異なる性質を内在するからです。 >>だうして目の前に蜜柑が有るのでさう >>だうして林檎ではなく蜜柑なのでさう 偶然です。 人との出会ひも偶然です。このサイトで会話できるのも、たまたまなのでせう。幸運といへるかもしれません。 >>だうして蜜柑は甘いのでさう >>だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう 人それぞれ個性があります。人間の善悪は決めがたいものがあります。さまざまな人がゐるからこそ、社会として成立します。 >>だうして私は私なのでさう 自我が確立されてゐるからです。 >>だうして心臓が音を立て休むことなく >>私の胸の中で動いているのでさう 心臓は勤勉だからです。鮪と同じです。 >>だうして私は他人ではなく >>他人は私でないのでさう 蜜柑が1個しかない場合、だれが所有すべきか、それを考へれば、私と他人を区別することが可能になります。 >>この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです そのとほりです。 蜜柑、葡萄、林檎、大根、梅、それぞれ必要なものです。もしかすると不要なのかもしれません。でも存在したほうが楽しい。 最近哲学カテゴリの参加者が増えてきました。おもしろい意見を出してくださいます。 とくに変化が見られるのは、素粒子教です。ずいぶん明るくなりました。ブータン帰りのあの人は、ユーモラスな投稿がちらほら見られます。ゆにさんのページは、賛同者もぽちぽち現れ、健全な話し合ひの場として成立するやうになりました。 アルケー教と仮面ライダー教と人権教のやり取りは、あひかはらず愉快です。
- a_hona
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これは素朴唯物論というやつでしょうか。 この世の実相は、人間の感覚器官では計り知れないものだと思います。人間は人間の能力を道具で拡張は出来ても、それを根本的に超えるのは難しいでしょう。 逆にその難しさが、人類に普遍的な一定のものの見方というものを与えているのであり、それは素朴なものなのでしょう。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3を承けます。 どうしても必要なことのみ 応答します。 ★ (No.3お礼欄) だうして非思考の庭に漬かっている人が、人に思考停止とか思考放棄なんて言えるのでさう。 ☆ 《非思考の庭》は 思考や感情や意志やが寄ってたかっても まったく《思考によって捉えられ得ない場(あるいは チカラ)》です。そこに《漬かる》という行為があり得ないと知るべきです。あらゆる意志行為(ハカラヒ)から自由な場です。 非思考の庭がわが心に成った場合にも その庭は《思考に非ざる》領域なのですから 《思考を停止するとか放棄する》とかの対象には成り得ないと知るべきです。 ★ だうして分かるか分からないかが分からないって言う人がそんなこと分かるのでさう。 ☆ 先ほど《思考によっては捉え得ない場(チカラ)》と言いましたが げんみつに言えば《思考によって捉えられるか捉えられないかが 分からない場》のことです。 思考ないし哲学の領域は 《非思考の庭》には直接には関係しません。非思考の庭とは別に ふつうに考えたり感じたりするということです。 あなたは アルケーの神〔という じつは 観念〕に漬かってしまっているので 《わたしが わたしである》という思考の領域における主題についてもはや思考が眠ってしまった状態にあるのでしょう。しかも そうではいけないという暖かい指摘を受けても 逆切れになる。いまの状態は これです。よ。
- Y Y(@yy8yy8az)
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不思議ですね。 生命の不思議。 不思議故に人間は無駄を承知で考えてしまうのでしょう。 未知の世界に興味を抱くのは人間ばかりではありません。 人間に近い動物ならば、犬、猫でさえ、あれはなんだろう?と興味を示すしぐさをします。 人の道さんも、“アルケー”を屋台骨としながらも「未知の世界」が有るので、ここ哲学カテに住んで “これ何?”と問うていますね。 生命の不思議の最大の事は、微生物から動植物を経て、人間へと成長してきたことではないでしょうか。 生命に、後退はないんですね。 あってもそれは生滅でしかなく、それは考える“材料”が無いという事でもあって、どうしようもありませんし。 “不思議”に付いて考えてみることを無駄と云っては“思考放棄”と云えます。 馬鹿でもチョンでも無駄でも考え続けていれば、凡人のままでも“仄かな光明”に気づくはずです。 ☆ 自分が自分であって、他人でないのは『個』でありそれは『唯一』だから。 ☆ 花が花であるのもそれ故に。
- NemurinekoNya
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☆だうして蜜柑は蜜柑なのでさう ◇そこにあるのは蜜柑という言葉で指し示される何かです。 で、この質問は、その何かを何故に蜜柑と名づけ、呼ぶのかという意味ですか? あるいは、 「そのものをそのものたらしめているのは何か?」 の意味ですか? 前者の意味であるならば、 誰かがそのものに類するものを蜜柑と名付け、そして、そのように蜜柑と呼ぶようになった、その名称が一般に広く採用された、 となりますでしょうか。 後者ならば、 蜜柑の形相や蜜柑の実体 となるのでしょうね。 ☆だうして蜜柑の実がひつそりとつつましく 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでさう ◇そのようなものを蜜柑と呼んでいるに過ぎない。 どうしてそのような構造を持つにいたったのかは、科学的には突然変異としか答えようがない。 ☆だうして蜜柑は葡萄でなく 葡萄は蜜柑でないのでさう ◇姿形などが大きく異なり、それ故に、蜜柑と葡萄は別のもの、種や類、グループなどであると認識、判断しているに過ぎない。 ☆だうして蜜柑は甘いのでさう だうして大根は辛く、梅は酸っぱいのでさう ◇甘くない蜜柑もあれば、甘い大根、サトウダイコンもある。 また、これは単に多くの蜜柑は甘い、大根は辛い、という事実を述べているに過ぎない。 化学的に言えば、甘さや辛さを感じさせる化学物質を持っている、ということ。 何故、そのような物質を持つのかという目的論的な言及をすることはできるけれど…。 ☆だうして私は私なのでさう 他人は私でないのでさう ◇自他の区別を立てるから。 私以外の人間や人を他人と想定し、そのように呼んでいるのだから、 「他人は私でない」 は当たり前のこと。このことに疑問をはさむ余地がない。 質問するならば、 私を私たらしめているものは何か、 私と他人との違いは何か、 とするべき。 ☆この世は全て見た通り、聞いた通りの世界だからです ◇のはずがない。 主観世界と客観世界は異なる。
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