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私はお金は差し上げられませんが、愛なら進呈しますよ。

私はお金は差し上げられませんが、愛なら進呈しますよ。  と言う人は聖者ですか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.13

 【私はお金は差し上げられませんが、愛なら進呈しますよ。】  実は聖者ではないと存じます。お金はないが、神を愛しています。なら信仰者で、本当にそれで神に通じていれば聖者だと存じます。  愛は進呈できないと存じます。愛していますだと存じます。  身と行為を捧げます。という事だと存じます。  お金と愛とどちらを?ということになれば、それは区別はないと存じます。  聖者は選択しないと存じます。どちらも愛であり、お金の形をとる事もありえます。  ご質問を誤解しているかも知れませんが、私は質問が存立できないと存じます。

Full_Energy
質問者

お礼

 また今度質問した際などに、回答ください。

Full_Energy
質問者

補足

 完璧な回答であるように想います。納得できます。

その他の回答 (12)

回答No.12

 No.6です。  けっきょく  ★ 愛とは何ぞや?  ☆ という問い求めですか?  ○ 愛とは かかわり(関係)であり 具体的なまじわり(交通)のことです。その思いと振る舞いへの意志のことです。  ☆ 志向性と言えば 恰好がつきますかね。  ○ ただし 交通には 好きもあれば嫌いもあります。いわゆる愛情もあれば憎しみもあります。関係を保っていれば――言いかえると 無関心でなければ―― そこには愛があります。思いやりと憎しみ あるいは 愛情と憎悪と いづれも《愛》です。  ★ (No.6補足欄) ~~~~~~~~~~   > ことばも 骨折りも お金も みな同じように見なし得れば それも愛の境地なのではないでしょうか?  言葉や骨折りとお金を同じようにみなしていない例として挙げた質問文のような人は、愛の境地ではないということですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《言葉や骨折りとお金を同じようにみなしていな》場合にも 相手に何らかの関心をいだき 相手と向き合って まじわるというのであれば 愛があります。  強いて言えば この愛には 段階やその境地の狭い広いあるいは浅い深いがあるのかも知れません。  憎いと感じたり嫉んだりする感情は それだけでも愛があります。馬鹿にするというだけでも かかわりを持ち交わりを絶やさないのであれば 愛が涸れているわけではありません。ただし 無関心は 死です。  ですから ただおのれを愛するというだけでも それは自己中心的だとか利己的だとかと言われるし 実際そうなのですが それでも そこに愛はあるでしょう。水を遣り多少の肥やしをほどこせば 広く深くなっていくでしょう。   ま 甘やかしとの違いは ではどこにあるのか? と突っ込まれることでしょうが ここでは純理論に徹しましょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > その境地が確立した状態を 聖なると言うには言いますが。・・・  では、その境地が確立した状態の人は なんと言いましょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 二十四時間体制で 生徒や患者のことを見て気づかう聖職にある教師や医師は 聖職者です。そして 宗教も宗教の聖者も 死語です。  教師や医師が 聖職者であるとすれば 子に対する親 父親も母親も そうだと言わねばなりません。ただし 仕事である部分もあるかも知れないけれど 職業ではないので そうは言いませんね。  では ふつうの人が 経験を積み広く深い愛をみづからの《身体=精神》に確立したその状態は 何と言うか? たしかに《確立した(サンクトゥス)》と言えるのなら 《聖なる(サンクトゥス)》と言えるとは思います。またその確立は 死ぬまでの動態としての確立なのでしょう。  でもね。生まれつき誰にも《仏性》があるとも言うぢゃないですか? これは《目覚めた(ブッダ)》という意味の言葉でしょうが 目覚めた状態が確立したなら 同じことでしょう。  ★ では、その境地が確立した状態の人は なんと言いましょうか?  ☆ ただ だとすれば ひとは生まれつきで 聖なる存在だというようなものぢゃないですか。  しかも 人に対して関心を絶やさず つねに人と交わることを厭わないのであれば 憎しみを持とうとあるいはちょっと口をすべらせて言うとすれば いぢめをしようと そういう人には愛があり 仏性のかけらが生きており 聖なる確立に向けて歩いているということでしょう。廻り道をもとおることでしょう。道草を食うことも 時にはたのしいことでしょう。と言っていけば よいでのは?  ★ では、その境地が確立した状態の人は なんと言いましょうか?  ☆ どう言いましょうか?

Full_Energy
質問者

補足

>けっきょく愛とは何ぞや?という問い求めですか?  いえ、それは解っておりますので、その問い求めは回答者の問題であるようです。まだ解っていないのでしょうか?質問文と補足は漢字とひらがなで書きました。 >愛とは かかわり(関係)であり 具体的なまじわり(交通)のことです。その思いと振る舞いへの意志のことです。  もしブラジュロンヌを突き放すのがブラジュロンヌのためになると考えれば、関係や交わりを持たないのが、愛となりますね。「関係を持たない関係もある」と言うなら、それはそれで構いません。 >思いやりと憎しみ あるいは 愛情と憎悪と いづれも《愛》です。  これを言い換えると、「愛も憎しみも 愛 です。」となるね。精神錯乱を治してから投稿を寄せるように。言葉が違うので、意味も違います。もっとシンプルに考えても良いでしょう。  全てから発生した感情はすべて愛です。というなら解りますが、愛と憎しみを分けて使用している時点で、意味が違ってきます。 > ☆ 《言葉や骨折りとお金を同じようにみなしていな》場合にも 相手に何らかの関心をいだき 相手と向き合って まじわるというのであれば 愛があります。  そのように考える、依存しながらも相手を侮るモノを殺そうと思い、殺しても愛があるということになるね。関われば、それがすなわち愛だと言うのであれば。 > ま 甘やかしとの違いは ではどこにあるのか? と突っ込まれることでしょうが ここでは純理論に徹しましょう。  甘やかしとの違いが解ってから回答しましょう。これは、言葉遊びをしているのではないですよ。 >どう言いましょうか?  簡単だと想うけど。自分で考えるように。

回答No.11

こんばんは、Full_Energyさん。 確認…「―――――、愛なら進呈しますよ。」←ホントに? なら、「I」いただき!  【麻雀テクニック】  http://www.youtube.com/watch?v=TTMLV_A7I7M&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=Z-s0ltXxdhg&feature=related 【何を切る?】 http://www.ma-jan.or.jp/jan-up/nanikiru0710a.php 『風を感じて(Easy to be happy)』 http://www.youtube.com/watch?v=5NKcecVDSyg&feature=related  It's so easy, easy to be free

Full_Energy
質問者

お礼

 会話が出来ない人のようで、非常に残念です。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.10

もし本当に聖者なら、それとは間逆のことを言うのではないかな。 「愛はないけれど、せめてこのお金を、わずかばかりのたしに」と。 何故なら、お金と愛を天秤にかけたら愛の方が途方もなく重いはずです。 お金は、乞食でも持てるが、愛は誰でもというわけにはいきません。 それだけ愛の価値が大きいといえるのです。 仮に愛の所有者を聖者と言い換えられるなら、事実上愛を与えられるならそれは聖者でありましょう。 だが問題は、愛の所有者といえるほどの高貴な人が、聖人といえどもいるかどうかといったところです。 しかるに、まして「自ら愛を進呈する」と言い放ったとするなら、「にせ聖者」の香りがプンプンしてきます。 ある意味、「私は神である」とする傲慢邪悪な教祖にも近い言動と言えましょう。 本当に聖者なら、「自分は愛のある者」だから、その「愛を進呈する」などと自分を誇るようなことは言わないと思います。かえって、逆に謙遜な態度を示すでしょう。 「私には愛などないが、できる精一杯のしるしは、このわずかなお金ばかりだ!!」と。 もちろん、この場合のお金こそ=愛そのものであることは言うまでもありません。 言葉より実践です!!聖者なら、言葉や語りで装飾するより、第一に愛の実践でありましょう。

Full_Energy
質問者

お礼

 どうも

Full_Energy
質問者

補足

 いつも、参考にさせてもらっています。  陰陽を含み、合一している、内容が深い回答を寄せているような印象を受けます。  これはもちろん、同意してくれたから言っているわけでは在りません。  ところで、愛とは他者を認める(認識する)ことであり、究極の愛(神)は人に働きかけず、黙っているものだと想いますが、それの実践というのはつまるところ動かずに認識する ということになると想います。  しかし、認識がきわまり、善悪の自覚がない行為として自然と表出する好意振る舞いなどの表現は、やはり神(愛)であると思います。

回答No.9

こんばんは、Full_Energyさん。 疑問…なぜ「聖人」ではなく、「聖者」とたずねてるんだろう? お金ーモノの売り買いー貨幣 【貨幣】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3 お金ー形あるもの 愛 ー形ないもの … 信用 … 保証 … 【手形・小切手の基礎知識】 http://www.zenginkyo.or.jp/education/free_publication/pamph/details/pamph_04/animal02.pdf 【保証人と連帯保証人のちがいは】 http://eye-plus.verse.jp/hosyounin.html 【保証人】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%A8%BC%E4%BA%BA

noname#113009
noname#113009
回答No.8

それだけのお金がありながら、「お金は出せないけど愛は進呈します」というタイプは、何故それを選んだかによると思います。 1.単にケチであったから 2.この場合の資金援助は不要だと考え、本人の努力で解決するべきだと言う良い意味での厳しさだったから 1は尊いと思いませんが、2は尊いと思います。 それと、お金をケチった(1)時点で愛も進呈できていないという考えも出来る気がします。 こう考えるとANo.7は回答として駄目な文章でしたね。すみません。

Full_Energy
質問者

お礼

 また質問したとき回答をお寄せください。

noname#113009
noname#113009
回答No.7

こんばんは。 聖者とかそういうのは関係ないと考えます。 それぞれ自分に向いた形で自分の協力をする。そういう事ではないでしょうか。 良いか悪いかは別だと思います。

Full_Energy
質問者

補足

 聖者という言葉に囚われず、それぞれ自分に向いた形で自分でできることをすることは尊いことである、と言えそうですね。  では、お金がありながら、「お金は出せないけど愛は進呈します」と言う人は、聖者かどうかは別として、尊い行いであり、尊い人である と言えるでしょうか。

回答No.6

 こんにちは。  ★ 《進呈しますよ》という《愛》  ☆ とは何を言うのか まだ分からない段階で答えよという問いなのですか?  では 《愛》は一般論として受け止めよということで考えたとしても  ★ 聖者  ☆ とはいったい何を言うのか? どういう人間を言うのか? これが分かりません。  わたしは 聖者とは 死語だと思っています。  (教師や医師ら 聖職に就いている人びとを 言ってもいいかも知れませんが)。  要するに   ○ 人に《愛》をもって――見返りを期待するしないを超えて――接する行ないは とうといものですか?  ☆ という問いでしょうか?   はい そうです。と答えたから どうなのか? これが分かりません。  あと そうですね。《お金を差し上げる》ことは 《愛》の一環ですよ。つまりたとえば 差し上げるつもりで お貸ししますと言ってそのお金を渡す――これも 愛ですよ。  ことばも 骨折りも お金も みな同じように見なし得れば それも愛の境地なのではないでしょうか?  その境地が確立した状態を 聖なると言うには言いますが。・・・

Full_Energy
質問者

補足

>要するに 人に《愛》をもって――見返りを期待するしないを超えて――接する行ないは とうといものですか?という問いでしょうか?   質問文は読めますよね、漢字とひらがなで書いてあります。 >あと そうですね。《お金を差し上げる》ことは 《愛》の一環ですよ。つまりたとえば 差し上げるつもりで お貸ししますと言ってそのお金を渡す――これも 愛ですよ。  ここまで解っているなら、質問文に対する回答ができると想いますが。 > ことばも 骨折りも お金も みな同じように見なし得れば それも愛の境地なのではないでしょうか?  言葉や骨折りとお金を同じようにみなしていない例として挙げた質問文のような人は、愛の境地ではないということですね。 > その境地が確立した状態を 聖なると言うには言いますが。・・・  では、その境地が確立した状態の人は なんと言いましょうか?

  • pupurr
  • ベストアンサー率18% (129/704)
回答No.5

それは聖者じゃなくても、恋人や両親がやってます。  ですから聖者だけができることではありません。  みんな一度はやってると思います。人間のもってる作用ですから。  ですから、それだけで聖者かという基準があってないと思います。  そういうことをいうのは私と変わりません。  普通の人です。  無料のスマイルなら、マクドナルドでもやってます。

Full_Energy
質問者

お礼

 まあ、しかし全く関係のない人にあげたり、寄付したりする人もいるかもしれないですね。  普段からしている無料のスマイル=愛と考えるなら、それは特別な人でなくてもやっている というのは確かにそうですが、普段誰に対しても微笑んでいるとしたらそれは人によってはかなりうっとうしく感じるかもしれません。  しかし、寄付できる人は余裕があるんですね。地球の国々の全員が、貯金が在る状況というのはちょっと想像できませんね。そして、多分不可能でしょう。新たに植民地のようなところを開拓しない限りは。

Full_Energy
質問者

補足

 自分の身内であれば、感情的に自分が気持ちよくなったり、恍惚感に浸ったり、満足したりするからお金を上げたり愛情と言われるものをあげたりしますが、全く関係のない人にはあげないですよね。  無料のスマイルは、仕事でやっているんです。お金をもらっている職場でそれをやらなかったら上司から注意されるでしょうね。  全体的に、考えがかなり幼く、浅いようです。気付いてますか?

回答No.4

 充満エネルギーさん  お金って、物買ったり、なんとかですね。だから何なのでしょう。エネルギー、可能性の凝縮ではありませんか?  聖者のお金は聖なる者です。聖者に差し上げるもの、頂くのも。  それは愛です。愛は無料ではなく、愛は全額です。全てです。  無条件無前提です。無論愛を持てば、全部を差し出します。  信仰や宗教はそこを衝いてきます。惑わすのもあり、利用するのもあります。  意識的にそうやっているずるいのもあり、結果としてその原理を悪用しているのもあります。  愛を出して、お金を出さないわけにはいかないのが、宇宙の原理だし人間の本性だと存じます。  悪用したらその贖いに苦労します。

Full_Energy
質問者

補足

>愛を出して、お金を出さないわけにはいかないのが、宇宙の原理だし人間の本性だと存じます。  そうですね、寄付金や義援金は、人を押しのけて貯めた人にとっては愛と言うより当然のことかもしれません。  いずれにしろ、地球全体で見れば、皆が皆、貯金がある状態というのは在り得ないようが気がしますが、どう想いますか?

回答No.3

  聖者ではありません。愛を進呈するという言い方は愛とお金を同じように考えているからでしょう。愛とお金は価値的にも次元の違うことになります。相手を思いやり愛情がある中で子供にお金を上げることはあると思いますが、また真の慈善的活動の中で募金をしてアジアやアフリカなどで経済的にも社会的貧困に喘いでいる人達を助けるためにお金を進呈することは愛情表現の一つかもしれません。しかし本当の愛は其処に住んでいる人や困っている人がいたら、本当に其の人達が復興を願い努力し自分らが、人並びに社会、国が経済的にも、社会的にも豊かな人間社会を作るように、指導し育ててゆくことが、人類愛ということに成るのではないかと考えます。世の中何でもお金お金社会かもれませんが、お金では買えないものも数多くあります。正に愛はお金では買えないものと思います。親子の愛、兄弟愛、友人恋人愛など人間の心もお金では変えません。  因みに聖者と言われる方々は人間一人一人にお金を上げたりしておりませんね?神様などにお金を下さいといっても、ご供養はするかもしれませんが、貰ったことはありません。汗水流して仕事をしやっと得るものがお金です。聖者はいつでも困っている人がいたら慈悲の心で身をもって相手を助けてゆくのが聖者と言われる人と考えます、それはお金ではなく、慈悲に満ち相手を善の方向へ導きだしてゆく行動であり、対話、指導がその聖者といわれる由縁です。その意味ではただ単なる愛という表現(進呈)ということには聖者に対しては当たらないと思います。

Full_Energy
質問者

補足

>愛を進呈するという言い方は愛とお金を同じように考えているからでしょう。  愛とお金(モノ)を同じように考えてる、には同意です。  「愛とお金は全く別です」と言いながら、「進呈」すると言う人もいますが。 >汗水流して仕事をしやっと得るものがお金です。  そうやって得たお金を惜しみなくあげたら、本当の聖者であると言えそうです。  また、お金を得るために使う時間や精神力やエネルギーと同じくらいのそれらを、他者のために使っても、聖者であると言えそうです。

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