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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:西田典之「刑法総論(第一版)」における故意・過失の捉え方)
西田典之「刑法総論(第一版)」における故意・過失の捉え方
このQ&Aのポイント
- 西田典之の「刑法総論(第一版)」では、故意・過失の捉え方について詳しく説明されています。
- 西田は、69頁の第二段落で構成要件的故意を否定し、また83頁で構成要件的故意・過失を認めています。
- しかし、主観的構成要件要素として故意・過失を認めることと、構成要件的故意・過失を認めることは異なると考えられます。
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質問者が選んだベストアンサー
主観的構成要件要素である故意は、その構成要件における意思そのもの、ないしその評価であるが、構成要件的故意は、『客観的評価基準』でもあるわけです。 意思そのもの、あるいはその評価が裁判上弁論などにに現れるわけですが、構成要件的故意はその事実が構成要件に該当し違法なものであるとの判断のための基準であります。
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- kanpyou
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回答No.1
ズバリ解答をするならば、解釈体系が違うというのが適当だろう。 主観的構成要件要素としての故意という部分は、行為者が実在する限り説明できるが、構成要件的故意は、それを採用する体系において解釈される。
お礼
早速の回答ありがとうございます 主観的構成要件要素として故意を認めることは行為無価値・西田ともに共通で、その主観的構成要件要素を「構成要件的故意」ととらえるかどうかの違いだ。 そして、そのような違いが生まれるのは、主観的構成要件要素としての故意をどう解釈するかが、解釈体系によって異なるからだ、ということですか? (間違っているかもしれません) しかし、解釈体系が違うからだ、ということだけではちょっとよくわかりません。 なぜなら、「構成要件的故意」として行為無価値論者により認められているものと西田の言う「主観的構成要件要素としての故意」が「具体的に」どのように違うのかということがわからないからです。「解釈体系が違う」というのはもちろんそうだと思いますが、具体的にどのように違うのか、そしてその違いがどのような根拠に基づき生まれているのかが知りたいと思い質問しました。