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刑法で、故意の認識認容について
誰が見ても人間にしか見えなかったのに、その行為者のみはなぜか人間にソックリのマネキンだと信じ込んでいて、安心して発砲したとします。 結果怪我を負いました。 このとき行為者に完全な故意は認められる扱いになるのですか? それとも過失ですか。 いや、無罪ですか。 【完全故意派の論拠は・・・】 (1)むささびもま事件は故意ありとされた。本人は故意はないとしたが、裁判所に跳ね返された (2)不能犯、因果関係論のところの「一般人が認識しえた事情」を基礎のするという考え方の準用(3つともTBの範囲ですから一貫性があって準用はむしろよいこと) (3)素人的認識があれば故意ありとする規範的構成要件との整合性 (4)(1)~(3)により認識あり、とされたら、実際積極的に発砲してるゆえもともと認容もありとなっていることから、結果、認識認容ともにありとなる。 【過失論の論拠・・】 認容などないから故意派なし。本当は無罪であるところ回避可能性は存在するので回避行動を取らなかったことから過失に問われる 【無罪派の論拠・・】 抽象的事実の錯誤は故意がないとするのが原則 刑法学的にはどちらなのでしょうか?? 銃刀法違反は除く
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(1)については全く事例が違います。むささびもま事件は、法律の不知の問題として処理されたのです。事実の錯誤の問題である本件に準用できるような類似事例ではありません。 (2)も、不能犯や因果関係は、客観的構成要件要素であるからこそ「一般人の認識」という概念を用いることができるのであり、主観的構成要件要素である故意の有無を「一般人の認識」を基準に判断していいとは思えません。 (3)は全く理解できません。「規範的」構成要件だから、故意の内容が素人的認識に緩和されるのです。規範的構成要件の概念からすれば、規範的成要件要素でない一般の構成要件要素については、原則どおり素人的な認識では足りないと考える方がむしろ整合性があります。 仮に、現実の裁判であれば、誰が見ても人間という事実があれば、何の理由もなく単に「マネキンと信じていた」と主張しても、裁判所は不合理な弁解として「信じていた」という事実そのものを認めません。 被告人が「信じていた」ということを認めて欲しければ、マネキンだと信じるに至った理由や経緯をきちんと主張する必要があります。そして、被告人には、マネキンだと信じこむような特別な理由や経緯があることが認められるならば、被告人はマネキンと信じていたのであり、殺人や傷害の故意は認められないという結論になるでしょう。 故意を認めるという立場では、被告人にマネキンと信じるような事情があっても、他の人にそのような事情がなかったのなら、被告人には故意ありということになるのでしょうか?
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- utama
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「信じ込んでいた」という事実を前提とするなら、故意は認められないでしょう。 「誰が見ても人間にしか見えなかったのに」という前提があっても、今の刑法の通説判例からすれば、典型的な事実の錯誤であり、故意が阻却されるという結論に影響は与えません。 過失については、信じ込むに至った事情や発砲するに至った事情がわからないと判断できません。マネキンであることの確認や、その他の安全性の確認を十分にして発砲したというなら無罪の場合もあるでしょう。 もっとも、誰が見ても人間にしか見えないという事実と、マネキンであることを十分に確認したという事実は、通常、両立しないでしょうから過失が認められる可能性は高いでしょうけど。
- nrb
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誰が見ても人間にしか見えなかったのに、その行為者のみはなぜか人間にソックリのマネキンだと信じ込んでいて、安心して発砲したとします。 誰が見ても人間にしか見えなかったのにならば争う余地が無いとするならば 精神が可笑しい・・・・ したがって鑑定留置 (心神喪失及び心神耗弱) 第39条 心神喪失者の行為は、罰しない。 2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 てことで心神喪失が争点です まあ、これだけで結論がでることは無い 鑑定結果によります 想定問題自体がナンセンスな問題
補足
ありがとうございます。 完全故意の(1)類似の事例であるむささび事件では故意だったのだから今回も故意だ。 という主張はどう反論されますか? また(2)、(3)、(4)も有力だと思うのですがどう説明されますか?