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昭和モダン時代の首都圏と関西圏の優劣
昭和モダン時代の首都圏と関西圏の優劣 「大正浪漫」から関東大震災を経て「昭和モダン」の時代が幕を開けます。 「昭和モダン」や「モボ・モガ」に関する記述を読むと、東京の話ばかり出てきますが、1923年(大正12 年)に関東大震災で東京や横浜といった首都圏一帯は壊滅的な打撃を受けたはず。 とても最新の都市文化を享受する余裕はなかったと思います。 実際の所、「昭和モダン」の時代の首都圏と関西圏で最新の風俗や都市文化をリードしたのはどちらだったのでしょうか?
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阪神間モダニズムと言う言葉をご存知でしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E9%96%93%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0 仰るとおり阪神圏は関東大震災の影響を受けませんでしたから、明治時代から続く富裕層による、高尚な文化発展は継続されました。 (軽井沢や田園調布などにも阪神間モダニズムの影響を見る事が出来ます。) ただし、震災後の首都圏(当時の言葉を使うなら帝都)は、一時遷都が考慮される程に酷い被害を被りますが、この機に帝都を世界有数の文化的都市に変革しようと言う試み(『帝都復興の詔書』)が実施される事になります。 (現代にも続く都市インフラの再構築) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%87%E7%81%BD%E5%BE%A9%E8%88%88%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD#.E9.96.A2.E6.9D.B1.E5.A4.A7.E9.9C.87.E7.81.BD 一部の富裕層を対象とした物と、都市そのもの(文化の直接の担い手でない一般人でさえ変化の息吹を感じられた)を変革しようとした物では、明らかに感じた人の人数が違います…。 後に残るのがどちらかと言えば…。