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読書をしない人は悲劇的な人生になるのか
読書をしない人は悲劇的な人生になるのか 本を読まない人は、悲劇的な人生になると、今日、大学の哲学の先生が言っていました。 本当にそうなってしまうのでしょうか?
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本を読まない人は、悲劇的な人生になると、今日、大学の哲学の先生が言っていました。 本当にそうなってしまうのでしょうか? ●哲学の先生のおっしゃる通りですね。 人生の総決算をして絶対評価されることがあるのですね。人生は全ての人の統一試験のようなものですね。これは個人の好き嫌いや個人評価や他人評価ではありませんよ。その試験で3人に2人は落第するといわれています。つまり悲劇的人生であったと評価されるわけです。 そのほとんどの落第生の言葉は「そんなこと知らなかった。何故教えてくれなかった。」なんです。チャンスは何度でもあったと知らされてがっくり肩を落とすのですね。 ここで「知って犯す罪より知らないで犯す罪の方が重い。」ことを知るわけですね。 これ何を言っているかといえば、判りやすい例がいるかな。人も動物も一緒に生きてますが、動物もたのしく生きてますよね。でも人と動物の決定的違いはといえば本を読むか読まないかですね。本を読むか読まないかを基準にすると人も本を読まないと人に似た動物でしかないわけですね。巷には人に似た動物のほうが多いですから本など読んでもという人が多くなるわけですね。でもそれは基準に照らせば動物の論理ですからね。 哲学の先生はその本質を突いてるのですね。偉い先生だと思いますよ。 ただ、一言追加するとすれば、真っ当な本を読みなさいということですね。巷にはごまんとゴミ本がありますからね。ゴミ本をいくら読んでも猿ぐらいにしかならんですよね。人生の途路で哲学に出会い考えることはいいことですね。 若い人にはちょっときつかったかもね。
その他の回答 (17)
下記(リトル)のとおり、 「読書が出来ない」という能力面の悲劇と 思考が出来なくなる(もともとできない)という 動的悲劇の両立は、実存するようです。 しかし 原因が「読書をしないこと」かどうかは、結論付けることが出来ません。 思考能力がない人は読書をしてもしなくても、 思考能力がないという悲劇に見舞われるというのが、正論です。
お礼
回答ありがとうございます。 良く分かりました。
- littlekiss
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こんばんは、bctsdg さん。 ●読書をしない人は悲劇的な人生になるのか ↑ って? そら、あーた、あれでしょう 本を読んだ日のことをちょいと思い浮かべて… 本を読むと、ときに物思いに≪ふける≫ふけれるじゃないですか? ぼへーっと。 はなのいろは うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに 小野小町よろしく、いつの間にやら老けているじゃあーりませんか 人間は老いる生き物、これまた、人が人でありんす。 で、ですね。 仮に、読書をしない人で悲劇的な人生になる人がいるとしたら… さて、それはどんな人でしょうか? 老いることを知らない人、老いない人… いや、人と呼べるのか定かではありませんが… 『トワイライト』よろしく、吸血鬼。 死ぬことも叶わぬ者。 永遠に老いない。 愛する者が人間だった場合、愛する者が亡くなっても なお一人生き続けなければならない… これ、ある意味悲劇です。 ヤバい?!と、おもわれたなら… ブックガイドをおいていきます。よければどうぞ。 『トワイライト』 http://www.twilight-saga.jp/book/index.html
お礼
回答ありがとうございます。 参考にさせてもらいます。
- cyototu
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多分その先生は、超高度な表現の技巧を使ったのでしょうね。それで並な人間は大混乱をしてしまう。 私は若い頃のある時期に、この先生のように悟ったことがあるのです。人間のやることには常に例外が在る。そこで、ある主張をする時に、その主張が当てはまらない事例を見つけ出すことは誰にでも出来る。そのような場合に、その例外まで考慮に入れて一々厳密に述べていたら、場合によっては、読者や聴視者はその例外の部分に気を引かれて、こちらの言いたいことが相手に伝わらないことだってある。例えば、全体の99%が同意していたとしても、その他に1%の反対者があるとき、その反対者の主張を紹介すると、場合によっては聴視者に妙な印象を与えて、その意見を持っている人が何十%もいるのかと誤解されてしまうことだってある。人間て、そう言うもんなんですね。そこで、例外があっても、誤解を招かないために、敢えて100%そうであるかの如く表現する高度な方法を使うと、正確に表現するよりも誤解を招かないこともあるのです。多分その哲学の先生も、その高度な技巧を使って、要するに「本を読め」と表現したのではないでしょうか。 ところが、人間の営みには常に例外が在るという、こんな自明なことをつい忘れて、論理を弄ぶのが好きな頭の良い連中には、私の何時もするような、あたかも100%そうであるという表現が気に食わない。そこで、その連中から「お前の言うことはこう言う例外もある、ああいう例外も在る」と局所的な論理にこだわって、何のためにこちらでそういう大局的で高度な表現をしたかが伝わって行かないこも在りますね。私は、知っていても、いつも極端に100%そうであるかのごとき表現をすることに努めておりますので、頭の良い方にいつも誤解されているようです。そんなとき私は心の中で「お前もっと頭が良くなれ、そんなんじゃ、先は見えてるぞ」と勝手に思うことにしております。私って、何とまあ楽観的な性格なのしょう。こんな独断と偏見の固まりだから、私は中々不幸にはなれそうに在りません。
お礼
回答ありがとうございます。 確かにその先生は超高度な表現を使っていました。 まあ、読書は重要だとは思います。
- never-ness
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>本を読まない人は、悲劇的な人生になると、今日、大学の哲学の先生が言っていました。 これと次の文は多分等価です。 「本を読まない人は、悲劇的な人生になると、今日、そこらへんのおっちゃんが言っていました」 パーソナルな人間関係での「アドバイス」なのか、予言者を気取った「宣告」なのかの見極めも大事です。 また、情報収集のための読書や娯楽のための読書という区別もあります。 >本当にそうなってしまうのでしょうか? そうなるでしょう。また、「そうならない」可能性もあるでしょうネ。 先程と同様に「なる」も「ならない」も等価ですね。 ま、読書に関する予言はその程度の効能ということでしょう。 気がついてくれましたか? 読書って「悲劇的な人生」にならないためにするものじゃないってことですよ。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
>読書って「悲劇的な人生」にならないためにするものじゃないってことですよ。 じゃあ、読書は何のためにするのでしょうか?
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
そんなわけないでしょ!、の#8です。 ここ哲学のカテゴリーですよね。 「読書をしない人は悲劇的な人生になる」という命題が眞であれば、その対偶も眞でしょ。 「読書をする人は喜劇的な人生になる」、、? 私、読書大好き人間ですが、自分の人生が喜劇的に終わるとは思えないなぁ。 「私は読書が好きだ、なぜならば、、」とか、 「私は読書が嫌いだ、なぜならば、、、」という議論なら面白いけど、 こちらの議論は不毛に思います。 体重コントロールをしない人は悲劇的な人生になる ってほうが、納得性あるな。
お礼
Mokuzo100nennさん、ありがとうございます。 この回答には納得しました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 問いの立て方がちがっていると考えます。 読書そのものを立ててしまってそれが 人生の中身とどうつながるかと言えば そんなことはさまざまだと成ります。 問題は ひとの思想です。思想とは 生活態度のことです。 ただし一般に 生活態度と言っても 思想であるということは 普遍的な中身のあるものでありたいわけです。 人それぞれの主観において思想は成り立ちますが その主観の内容が人びとに共通のものであれば そのまま共同の主観(コモンセンス=常識)となります。 このときやはり一般に 一つの時点においては 旧い共同主観としばしばそれに対抗して芽生えつつある新しい共同主観とがあります。 ふるい共同主観は すでに現実のあり方とは遊離している場合が多いようです。それは ただ既成事実であるというだけで――もしくはけっきょく その既得権益を保守したいという勢力によって守られているというだけで――存続しているという場合です。これは個人個人の主観からも離れているとすれば 観念として流通しているだけという情況にもなります。アマクダリ関係が例に挙げられるのではないでしょうか? つまり 共同観念と言えます。あるいはさらに もはや現実とは関係のない場合は 共同幻想とも言われます。禁忌(タブー)となって そのかたちで 存続しているという状態です。ローマ教会など宗教がその例です。 そうしますと このような共同観念や共同幻想が一般的に言って有力な社会の情況にあって あたらしい思想が 共同主観になるには ふるい観念の共同が 確かに旧いのだと説明する必要が出て来ます。 その説明には 思惟をまとめる必要があります。 思惟をまとめるには 頭の中でよほど棋士のような先読みとその体系化をすべてこなせなければなりません。たぶん 無理でしょう。それには 文字に起こし記録したものを繰り返し思惟し直すという作業が必要であり それがあれば十分にこなせるようになります。 文字に記した文章を読むには 一般に書物ということになります。 つまり ひとつの見方考え方ですが 旧習の墨守をつづけていてはたいていは くだらない人生になるでしょう。新しい思想に反対しないとしても ただ犬のようについていくだけでは 人間としてつまらないかも知れません。
お礼
回答ありがとうございます。 難しかったです。
- kigurumi
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悲劇的な人生ってのは、いくら他人がその人に悲劇的な人生だと言っても、本人がそう思わなければ悲劇じゃありません。 ある人は無差別殺人で4人殺しました。 死刑になることを全く恐れませんでした。 日本は3人殺したら死刑という判例が通常出ており、この人にも死刑判決が出ました。 しかし、日本は死刑判決が出てもすぐに執行されません。 刑務所に執行になるまで住んでいたわけです。 通常はその日はいつかと死刑囚は恐れながら暮らすのでしょうが、彼は恐れませんでした。 死刑を恐れるということは、負けるとでも思っていたのかもしれない。 彼は何も恐れなかった。 その彼に牧師さんが聖書を差し入れたんです。 ふん! と思って開きもしなかったが、それでも牧師さんはアプローチを続けたのだそうです。 そして数年たって暇だったのか、彼は本を開いた。 読むようになった。 そしてさらに数年後、彼は控訴した。 無実を主張したわけでも減刑を求めたわけでもなく、自分が無知だったことを知って欲しいと訴えたんです。 無知だったから、人を殺してしまったと訴えたんです。 自分が何をしたのか、はっきりとわかってしまった。 ここで初めて彼は自分が悲劇的人生を歩んで悲劇的な終わり方をするとわかったんです。 本が余計なことをしたために、彼は悲劇というものを知ってしまった。
お礼
その人は、本を読んでいなかったら悲劇じゃなかったんですね。 よく分かりました。 ありがとうございました。
ひとは生きているうちに出来るだけ楽しい娯楽を沢山覚えることでその人自身の人生の成果(生きていて良かったといえるかどうか)を左右すると私は思います。読書は娯楽の中でも一番コストパフォーマンスに優れたものだというのが一般の常識ですから、その楽しみを知らずに終えるひとのことをちょっと大げさにいった言葉がそれなのでしょう。 かなりいい線いっていると私は思います。
自分のそれであっても、他の人のそれであっても、言葉を大切に扱える人は、口にする言葉であっても、筆記する言葉であっても、タイプする言葉であっても、他の方法で示される言葉であっても、あるいは沈黙であってさえも、結局は、言葉による利益を得て、しあわせに近づけることでしょう。 それは、言葉を大切にしているというその人の理解によって、獲得されるものであると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 参考になります。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
そんなわけないでしょ! 文字が発明される以前の人々は読書をしなかったが、全員が悲劇的な人生を送ったとでも思っているのですか? 哲学の先生は、わざと愚かな命題を与え、学生の知能をテストしているのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 最近の若者は、本を読まないから大げさに言っていたと思います。 本から得られることはあると思います。
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お礼
ありがとうございます。 自分にとって、とても納得できる回答です。 これから哲学書をしっかりと読んでいきます。