隠れ自己チューと云う研究テーマを立ち上げよう
さてこの質問は学問カテゴリーの哲学に投稿していて、研究用です。
テーマ的に心理学のほうが適切ですが、私が哲学趣味なのと、濃い人は両方見ているので問題ないだろうと哲学カテゴリーを選びました。
今回はショープレイを宣言する挨拶はなしです。
「隠れ自己チュー」
こういう定義を組み立てようと考えています。
まず、「自分は正しい」こう考えていてその根拠が社会規範と連携している。
誰が見ても当たり前じゃないか。
人間かくあるものだ。
こういう言い回しが多い。
そして頭が固い。
自己の心中に規範がなく、社会に規範を依存している。
文章が「かくあるべし」で埋め尽くされ、個人の身上はない。
あるとしたら愚痴っぽい話だけ。
したがって。心のこもった文章じゃない。
一般的自己チューと同じく、自分だけ納得した難解な言い回し。
さて、社会的他者への見地ではこれは規範優先人格とでも色分けしていいんだけど。本人が社会と自己を明白に区分しているため、社会優先で礼儀正しいように見えても、実際は孤立しており孤独である。
自己に根拠がなく、社会に根拠があり、それでいて自分は正しいと信じ込まされている。
政治運動をする人はたいていこういう気質ですよね。
さて書き出してみました、いろいろな見地からこのような人格の類例には、いろいろな定義が可能ですが、今回は本人の孤独、孤立と重ねて隠れ自己チューという定義を立ち上げて研究しようと考えています。
材料となる、回答者様の分析、身近にいたまさにそういう人、など間口は広くとりますので思うところを書き出してください。
哲学カテゴリーの研究者さんはバトルが好きで、私はそれを男磨きの闘技場、オカマバークラブヴァルハラと表現していますが。
いつも同様そうした方とオカマの痴話げんかに発展してもショープレイの範疇で愉快な読み物に仕上げますから、安心してご投稿ください。