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西本願寺 対面の間と白書院

西本願寺に行きました。 機会があり、対面の間(鴻の間)と白書院、お庭を拝観出来ました。 まるでお城の様で二条城より素晴らしいではないのかと思う程でした。 秀吉により寄進された土地に建てられたと言う事、強大な力を分断する目的で家康が東本願寺を寄進した事などは知っています。 鴻の間はとても広く上段の間、上々段の間があり、天井や壁画の豪華さにとても驚きました。 白書院を含めて誰が誰を迎えるのを目的として造られたのでしょうか? 天皇、徳川の将軍などが妥当だとは思うのですが、それにしてもあまりの豪華さにびっくりしています。

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  • Pinhole-09
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回答No.3

No.1の補足です。 西本願寺に伝わる「法流古実条々秘録」には、 (・・・・慶長十三年唯如上人三十二歳、御対面所建て直り結構に成り候、その時迄は上壇もこれなく、御門跡様御着座の所に常の畳一畳敷かれるばかり也、床其外帳付薄彩色の絵なり、金なる所は少しもなし・・・・・)とあり、 建て直し迄は今見るような、絢爛豪華な部屋では無かったようです。 また(先に天満に御座候時は・・・・・)とあり、天満から移改築したと思われます。 移改築前の対面所は、法主が一家衆との体面の場だったようです。 藤岡通夫博士は豪華に改築したのは、家光を招く為と推論しました。

fuzimurasaki
質問者

お礼

Pinhole-09様 度々ありがとうございます。 改築前は豪華ではなく、藤岡博士によるとその後家光を招く目的であのようになったのですね。 「法流古実条々秘録」から引用して頂いて、とてもよく分かりました。 歴史を少しでも知ると色々な事を知る事が出来て興味が尽きません。

その他の回答 (2)

  • dulatour
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回答No.2

対面の間は、元和三年(1619)の西本願寺の火災の後、すぐの建立というのが通説で、誰を招くためかは想定されていないようです。 この時は、家康が没した翌年にあたり、秀忠の時代です。ただ、将軍の秀忠を招くためとも考えられません。私の勝手な想像では、御水尾院かななどと思っています。 建立当初は、御影堂の南にあり現在の位置とは違います。現在の位置に移築されたのは、寛永十年(1633)で、この時期ならば、将軍が家光ですから、家光を招くためとも考えられますが、建立当初は誰のためとも言いがたいですね。

fuzimurasaki
質問者

お礼

ありがとうございました。 そうなんですか、火災で消失した後に建立されたものなのですね。 知りませんでした。 それにしても誰を招くかはともかくにして、この財力はものすごいものがありますね。信者の寄進なんでしょうか。 ますます興味が深まります。

  • Pinhole-09
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回答No.1

鴻の間は三代将軍家光を迎えるために設けたものです。   家康の庇護を受けていた東本願寺に対し、西本願寺は秀吉の庇護を受けていたからです。   徳川との関係修復のためでした。 白書院は家光と法主との体面所でした。 しかし家光のお成りは実現しませんでした。    九条殿を迎える時に使われました。

fuzimurasaki
質問者

お礼

ありがとうございました。 鴻の間は西本願寺が建立された当初からではなく、 後から作られたものなのですね。 それにしても本当に豪華絢爛。 かかった費用も莫大なものだったでしょうね。

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