- ベストアンサー
御親類同格とは?
今、長崎県の諫早市の歴史について調べているんですが、「御親類同格」とはどおいった意味ですか? いつ、どういった経緯で長崎県になったのですか?
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
#1です。 >>いつ、どういった経緯で長崎県になったのですか? #2さんが、佐賀の方を非常によく調べて下さったので、付けたすことはありません。 佐賀藩を除くと、江戸時代の長崎県は、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれる、と下記にあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C。 廃藩置県というと、甲と言う藩が、乙と言う名前に変わった、と思われがちですが、日本の西端はみんな入れるということになると、島が全部入り、対馬、平戸、福江(五島)のような諸藩をどう纏めるかが大きな課題であったようです。海岸線も4,000kmを越すという長さです。 私は県下の学校を出たと言うだけの素人ですから、歴史に興味をお持ちの質問者さんは、『長崎県史』などを繙かれると面白い経緯がお分かりになるでしょう。
その他の回答 (2)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
いつ、どういった経緯で長崎県になったのですか? ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E7%9C%8C#.E4.BD.90.E8.B3.80.E7.9C.8C.E3.81.AE.E6.88.90.E7.AB.8B 上記は経過しか書いていないですが、要は「長崎」を県庁にして一県作るのに、員数あわせをした。 ということになります。 廃藩置県の時に、各藩が県になります。(基本的に) 管理しやすいように、人口で整理整頓します。 人口=納税額なので、規模を同じようにした方が管理安いと言う発想。 歴史的にいっしょになりたくないとか出てきたのでその意図を組んで若干の集合離散があった。歴史的と言う意味で、旧国での分割が踏襲された。 で、重要な港湾では例外が生まれた 横浜 神戸 長崎の重要な港湾。 エリア管理とは違う意味で、ちゃんと役所を置いて管理する必要があるが、狭すぎちゃ括弧付かないというので、 横浜は、元々の武蔵の国。武蔵の国は江戸メインで東京 とその他埼玉にしたが、横浜は独立管理。でも狭すぎるので、相模の國をくっつけた。 神戸も神戸港を中心に周りを一円で「、摂津国有馬郡、川辺郡、武庫郡、菟原郡、八部郡、丹波国多紀郡、氷上郡」という状態。港の開発にはカネがかかるというので、豊かな飾磨県(姫路のあたり)を強引にくっつけちゃった。 長崎は、現在の佐賀県も含めて長崎県にされちゃったが、でかすぎて分割。佐賀と長崎を同じような規模にするために線を引いたら、諌早は長崎になったって感じかな。 ※ 横浜 神戸の話は有名だが長崎の話は、推測です。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
佐賀藩内の序列では、御三家、親類、についで御親類同格が、三番目となっています。詳細は下記に http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E8%97%A9 御親類同格の実例は下記にあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%B3%80%E8%97%A9#.E8.A6.AA.E9.A1.9E.E5.90.8C.E6.A0.BC もともと佐賀と長崎に区別はなく「肥前藩」とまとめて呼ばれ「佐賀藩]と同義に使われていたようです。