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大戦前のホームレス

アメリカで日本の近代史を勉強しています。世界大戦前、日本にはホームレスはいましたか?またその人たちは徴兵されたのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

古今東西、ホームレスのいない社会というのは存在しません。国家の歴史とともに古いものでしょう。内容や質はさまざまですが。 差別用語とされていますが、近年まで「門付け(かどずけ」や「乞食(こじき)」と呼ばれていました。今と違い、地域共同体が機能していましたので、地域で面倒をみていたような側面がありました。 基本的に住所不定ですので、出自が明確にならなければ、徴兵されなかったと思います。また、徴兵検査で不合格になる確率が高かったとおもわれます。

japaglish
質問者

お礼

乞食というのは聞いたことがありましたが門付けは知りませんでした。有難うございました。

その他の回答 (7)

回答No.8

 回答番号:No.5で掲げました、遍歴の方は立派な伝統的な職業者ですね。  そういう意味では確かにホームレスやルンペン、或いはこつじきとは異なる事はいうまでもありません。  ここに挙げませんでしたが、高野聖(こうやひじり)も、そしてロマびとなども誇り高い遍歴の方です。  そういう誇りの高い遍歴の職の方を、此処で掲げたのは一つは時として定宿まで着けないとどうしても昔寄る辺ない人と同じ寝泊りもすることもあり、旧内務省や旧警察は同一視したり、無宿者、渡り者扱いする傾向がありました。  一般人も彼らの文化などの伝統と誇りを理解できないことが多かった。  そういう認識の乏しい方からの見かたも紹介する意図でした。  定住ではない身分は何かと胡散臭い見かたをされるもので、いっぱ一からげにされていました。  資料的には区別しなければいけないが、警察はずいぶんいじめるものでした。さんかの方は近代国家の警察にはずいぶんひどい目にあったとのことです。  まぁついでの敷衍でしたね。回答番号:No.5で挙げたのは。失礼しました。  でもルンペンやこつじきも結構農家の季節労働者との区別は就きにくかったようです。仕事があれば仕事をしていた方もいたようです。  私は二・二六前後の浅草生まれ育ちですが、天秤で甘い薄いはんぺらを子ども相手に売り歩く歯のないお爺さんがいました。  彼、実は職ってないし、宿は公園でした。  親の目があると、みんなが買うその黄な粉と光の薄い饅頭を変えないのですが、いないときにそっと金を渡して、頂こうとしたら彼、味見、とか言いもしないで、半分食べて私に渡すのです。  歯茎の後ががっちりついたのを私は大事に満喫しました。  ルンペンと行商は難しい時代でした。

japaglish
質問者

お礼

いろいろ教えてくださって有難うございました。歯のないお爺さんの話、面白いですね。その饅頭、どこから仕入れたのでしょう?いろいろ大変興味深いです。

回答No.7

No.2です。少し補足します。 「ホームレス」という質問の語彙についてですが、字義どおりならば、家のないもの(住所不定者)ですが、本質は自分の意志は別として職のないもの(不定職者)であると思いますがいかがでしょう? 国家の枠組みに組み込まれない、流浪民は多く存在しますが、その中の職能流浪民をホームレスに分類するのは、私は抵抗があります。彼らは、食い扶持は自分で調達していましたので、、、 今はタレントとしてもてはやされていますが、うちの父は川原乞食(かわらこじき)という差別用語で呼ぶように、芸能をなりわいとして全国を流浪し、川原などに小屋がけして生活するものも、字義ではホームレスではありますが、それを質問の対象にはならないように思います。 ただ、それらのものと、同じように住み体をうる娼婦、本当の無芸な物乞いの区分は確かに混沌として、これもまた分類が難しいのですが、、

japaglish
質問者

お礼

なるほど、そうですね。映画などで赤紙は家々に配達(?)されているのをみましたので、職についているかどうかより住所不定の人たちも徴兵されたかどうかが知りたかったのです。有難うございます。

  • blackhill
  • ベストアンサー率35% (585/1658)
回答No.6

 第1次世界大戦の前、すなわち産業革命期の貧民窟の状況については、横山源之助『日本の下層社会』(岩波文庫)が古典的名著です。  やや遅れて賀川豊彦『死線を越えて』が大ベストセラーになりました。  それぞれの紹介は、wikiなどを参照してください。

japaglish
質問者

お礼

有難うございました。機会がありましたら読んでみたいと思います。

回答No.5

回答番号:No.4です:補足  戦前はいろんな職業の遍歴者がいましたが、ルンペンや路上生活者はまた違うものでした。遍歴者は結束がしっかりしていました  東京では各所にあった(池袋にいまもある)木賃宿にとまりました。  ここ隅田川を越えたところにも、先年まで木賃宿が在りました。  遍歴の方には、さんか、木挽き、鳥追い、薬売り、などなど。  さんかのかたと木挽きの方は今も交際しています。  もう箕もつくらず、魚もとらず、ある技術のひとです。  木挽きの方もいまは山に入りません。  鳥追いの方は、いろは四十八組の江戸火消しの一番筒の奥さんでしたが、とてもやさしく、いい人でした。小学生の頃から、かしらに呼ばれ、長火鉢を間に歓談しました。  読書家で、日比谷の最初のメーデーの参加経験を語られました。  おちんちんを残して、彫り物で、風呂を埋めると、金魚が泳ぐんじゃねぇと怒られました。

japaglish
質問者

お礼

面白いですね。私もその方たちのお話を聞きたいものです。有難うございました。

回答No.4

 無論いましたよ。  ルンペンとかいう呼称でした。  いろんなところに小屋掛けしていました。  広遠とかいろいろ。  国も、生活保護法の先祖である、行旅(こうろ)死亡人恤救規則などを制定交付して、対策していました。  この間の事情は小川政亮さんの著書にも詳しい。  http://www.jcsw.ac.jp/library/の図書館は、大日本帝国の内務省の史料もあり、大学図書館でもあり、専門図書館です。  もともとが戦前の唯一社会事業研究所の図書館ですからね。

japaglish
質問者

お礼

日本へ行く機会がありましたらその図書館に行ってみたいと思います。有難うございました。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.3

母親(89)達から聞いた話しですが、戦前から物乞いはいたそうです。 差別用語になりますが【コジキ】と呼ばれてました。 住居が無いですから、召集礼状も届かないので徴兵を免れてました。

japaglish
質問者

お礼

ホームレスでも若ければ、徴兵されるのかと思っていました。有難うございました。

  • dendenaaa
  • ベストアンサー率36% (22/61)
回答No.1

赤紙の厳密な送付基準を確認すれば後者の疑問については分かると思いますよ。

japaglish
質問者

お礼

有難うございました。調べてみます。

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