- ベストアンサー
姥捨て伝説って・・・
民話や映画にもなった『姥捨山』って、事実なのでしようか。 長野県に同名の山がありますが、事実であればどの時代まで、実際どのような行為が行われていたのですか。 もし、ご存じの方が見えましたら、出来る限り詳細に教えて下さい。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
私も詳しいわけではありませんが、この伝説のようなことが実際に行われていたかというと、かなり疑わしいのではないかと思っています。 長野県の同名の山もそうですが、この姥捨伝説の源流になったとされるのが平安時代成立の「大和物語」です。156段に確かにそのような話が出てきますが、実はよく読んでみるとかなり現在の姥捨て伝説とは趣が異なっています。 というのも大和物語のそれは、ある男性の母親がかなり高齢で腰も曲がってしまっていたのを男性の妻が大変うとましく思い、男性をそそのかして山に捨てに行かせた、という物語だからです。ここに描かれているのは生活苦ゆえの行為でもなく、また集団で行われてきた秘められた慣習でもありません。むしろ現代風に言えば単なる嫁・姑問題と言っていいでしょう。 ですから私には、この話をもって全国の姥捨伝説の源流と理解する気には全くなれないのですが、かといってその他に明快な史料として史実たる姥捨てを実証するものがあるかというと、そういうものにもお目にかかったことがありません。 逆に、「生活苦による止むに止まれぬ姥捨」の適切な例ではないにもかかわらず、いつでも大和物語が引き合いに出されるということは、その史実性の低いことを証明しているようなものでしょう。 これは私見ですが、「ウバステ」「オバステ」という言葉が、「御初瀬(オハツセ)」の転化ではないかという気がしています。ハツセというのは地名や寺名に多く残っていますが、もともとは身体の果てる場、という意味で古代の葬場に用いられた呼び名のうちのひとつです。 かつては死人の遺体は重視されず、むしろ穢れや災厄を恐れて忌避される傾向にあり、山懐や山中の谷に集合的に、捨てるように葬られたのです。「捨てる」、というのは中世では死体の扱い方の表現として至極当り前のものでした。 史料は持ち合わせていませんが、私の推測では、里人にとっての集合的葬場であって死体を捨てる、というニュアンスの場所であった「ハツセ」が「オハツセ」と称されるようになり、やがて生きたままの老人を捨ててた場所、という伝説が遡及的に造られることで「オバステ」の名を獲得して今に至ったのではないか、と思います。別のところで「人身御供」の伝説について回答しましたが、これと同様に「昔はこんな(ひどい)ことが行われていた」という語りは、いろいろな面で現在の有り様を肯定的に意味づけるために自然と作り上げられていくことが多いからです。 もちろん、かつての山間部では生活が恒常的に苦しい地域は沢山あったことは否定しません。しかし、つい数十年ほど以前でも、山間部や離島では「老人が病気になって寝こんだら村の慣習としてご飯を与えない」といったなかなか厳しい取り決めが存在する地域はあったものです。 つまり、姥捨伝説のようにわざわざ山に老人を捨てにいかなくとも、体の弱った老人は(程度の差はありましょうが)自然に死んでいくことがどこの地域であれ受け入れられてきたものです。この意味からも、姥捨伝説にはフィクションならではの誇張性が私には感じられるのですが、どうでしょうか。 碩学の方のフォローを待ちたいと思います。
その他の回答 (2)
近くにありますね。ビタミンB2ナイアジン不足症による皮膚円をたたりと称して.幽閉した寺院があります。 私のせんせん代の頃は日常的に行われていました。 あと.らいびょう患者も幽閉していたような時期があったようです。 位までは.施設の跡地が「たたりがある」として誰も立ち入りませんが.年1回程度草刈に出かけます。
- chokoni
- ベストアンサー率26% (13/50)
コレは、実際あった行為だそうです。 下のURLに詳しく載っていますので、 読んでみてはいかが?
お礼
さっそくのご連絡、ありがとうございます。 教えていただきましたHPを読みました。
お礼
詳細のご説明ありがとうございます。 確かに、neil_2112さんの申されました通り、『現在の有り様を肯定的に意味づけるために自然と作り上げられていくこと・・・』という昔話は多数あるようですが・・・。 『もちろん、かつての山間部では生活が恒常的に苦しい地域は沢山あったことは否定しません』そうですね、現在の各地方の食文化にもその当時の影響が一部現れている様子ですね。 ただ、本当に伝説だけなのか?知りたいです。