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戦争末期の中国戦線への武器弾薬の補給について

太平洋戦争末期の中国戦線(日中戦争)への武器弾薬の補給に ついてですが、戦争末期になると米潜水艦の暗躍により、 商船を安全に送り込む余裕もなかったと思いますが、(最悪略奪すれば・・・な)食料はともかく、戦車や小銃などの武器や弾薬は どのようにして日本本土から補給してたのでしょうか? それとも日本海経由である程度終戦まで補給は継続していたのでしょうか?

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回答No.3

 太平洋戦争末期ということですが、1944年(昭和19)4月から発起した一号作戦という大作戦時でいえば、それまで中国にある兵器補給廠や貨物廠に貯蔵していた軍需物資がありました。(当時上海の第13軍参謀だった曲寿郎氏の回想による)また、内地からは朝鮮沿岸沿い経由で上海までは海上輸送で補給ができました。つぎに物資を補給する輸送部隊として満洲の関東軍から野戦輸送司令部2、独立自動車大隊7、独立自動車中隊2、独立輜重兵大隊3、独立輜重兵中隊6、野戦自動車廠移動修理班1が編入されています。これ等の部隊はなし得る限りの予備資材や燃料を携行することとされていました。このほかに中国には支那派遣軍野戦造兵廠があり、各種兵器や弾薬の製造を行なっていました。本廠、教育部を南京に設置、支廠を漢口、上海におき、天津と南京に製造所がありました。南京製造所は金稜工廠とよばれていました。  45年に入ると、門司から釜山までの海上ルートにせばまり、しかも人のみとなり釜山からいったん満洲に入り兵器や軍馬、車輌を受領して鉄道で中国へ輸送されるのが主となりました。というのも満洲には1941年7月に行なわれた軍需動員(関特演)による蓄積があったためで、このころになると日本本土防衛のために満洲から部隊や軍需品が内地へ逆輸送されるようになっていました。

kikaku123
質問者

お礼

朝鮮半島経由で補給は維持できていたんですね。 また、満州などで武器弾薬を生産していたどころか、 豊富な備蓄物資を日本本土に移送までしていたんですね。 今まで中国戦線は武器弾薬が(前線部隊への補給の問題は別として) 不足気味、というイメージを持っていたのですが、現実は違ったんですね。 ありがとうございます。

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その他の回答 (2)

  • isa-98
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回答No.2

死に物狂いだったようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6 制海権を失いつつある日本軍は 陸路での輸送ルートを確保しようともくろみます。 見れば、燃料、武器弾薬、食料、重砲は欠乏しています。 補給よりも進軍の方がはるかに早かった。 めちゃくちゃな作戦だった。前も後ろも敵がいた。 いつ包囲されるかと不安だった。 などと言う証言もあります。 戦車第三師団の全部、一部が投入されています。 補給はあったものの、妨害が多く届きづらい。 戦闘機はあったが不足気味だった。 慢性的に物資不足は続いていたようです。

kikaku123
質問者

お礼

ちょっと知りたいことが違いました。 とはいえ、中国戦線は楽勝、というイメージではなく、 前線への補給も苦しかったのですね。 ありがとうございます

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回答No.1

青島にドイツが作った武器工場がありましたし、満洲にも工場を作っています。

kikaku123
質問者

お礼

なるほど、満州に工場を建設してある程度の供給は出来ていたんですね。

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