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見性成仏というのは、「自分の心のうちの本性を直観し、それが仏であること
見性成仏というのは、「自分の心のうちの本性を直観し、それが仏であることを悟る」ということですが、自分の心のうちの本性がやましいと直観したときも、そのやましい本性が仏なのでしょうか?
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「自己の本性が仏であることを悟る」のが「見性成仏」です。 自己は本来、仏性を有しているので(と断言すると語弊がありますが)、それを直視せよと言っているわけです。 “やましい本性”は、本来の自己の本性ではないでしょう。 煩悩という塵にまみれているから、本来は純粋無垢であり仏であるはずの本性が“やましい本性”に見えてしまうのだと思います。 その煩悩の塵を払いのけるのが“修行”ということになると思います。 ただ、「自己の本性がやましい」とわかったならば、そこが出発点になり得るのですから、そこで悟りへの道が開けるとも言えるかもしれません。 専門家ではなく“門前の小僧”なので、間違っていたらすみません。 こういう質問は、“哲学”のカテゴリーへ行くと、すぐれた回答がたくさんつくと思います。
お礼
ありがとうございました。結局、今の心ではなく本来の心へ至れということなのですね。