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吉原の楼主(忘八)はどこに住んでるのでしょう?
江戸の吉原で遊女屋をしている人を楼主(忘八)というみたいですが、 この人たち、またその人の家族は一体どこに住んでいたのでしょうか。 自分が持っているそのお店に住んでいたのでしょうか。 はたまた同じ吉原か外にでも別にお家があったのでしょうか。 楼主に子供なんかがいたら、すごくお店で育つのは教育上よくなさそうですが…どうなんでしょう。気になっています。
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楼主の家族は遊女と一つ屋根の下で暮らしてました。 ただし、遊女、その他の使用人、楼主の家族は 居住空間はきっちり区切られていたようです。 >楼主に子供なんかがいたら、すごくお店で育つのは教育上よくなさそうですが… 今の感覚でいうとそうでしょうね・・ただ、基本的に 楼主の子供が跡を継ぐでしょうから、むしろ余所から 跡継ぎを迎える(養子)よりは、ずっとよい教育環境、 という見方もできます。 吉原で働く使用人や楼主、などは一般社会からは ものすごく差別されていました。 ですので、吉原のなかで生涯を送ることが一番いい一生だった のです。仮に吉原を出て別の職業に就いても、その人は 「吉原出」としてずっと差別されるのです。 唯一の例外が売られてきた女性(つまり、遊女達)でした。 彼女達は年季上がりや身請け(お金を払って男性に廓勤めから 解放してもらう・・そののち妻や妾にされることが多いです)を されて廓の外にでれば、元遊女と知られてもそのことで差別される ことはありませんでした(ただし、江戸時代の話・・)。 ただ、幼い頃から遊女になるための教育しかうけず、家庭人としての ことは知らない人が多数でしたから、結婚して 素人社会にとけ込むには ちょっと時間を要したみたいですが。
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- Pinhole-09
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妓楼は二階建てで、客をもてなすのは二階で、一階の大部分が遊女や使用人の日常の場所で、楼主の部屋や台所、風呂場、便所などがあります。 妓楼を書いた浮世絵は多くありますが、楼主が書かれたものはわずかです。 歌麿の「青楼年中行事」に楼主の部屋が書かれています。 仏壇があり子供もいます。 青楼は遊郭の異称で他に北楼とも呼ばれます。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸の吉原で遊女屋をしている人を楼主(忘八)というみたいですが、 はい、そうとも呼ばれました。 「仁」「義」「礼」「智」「信」「忠」「孝」「悌」 の八つの「節度」を無視した人ということで、そう呼ばれました。 >>この人たち、またその人の家族は一体どこに住んでいたのでしょうか 回答から先に述べますと、同じ屋根の下に住んでいました。 妓楼の造りは、大体どこも同じで、 正面に玄関があり、向かって右側が遊女たちの居住空間でした。正面に遊女たちの顔見せの部屋があり、その奥が遊女たちの空間。玄関からはすぐに階段があり、奥へ向かって廊下があり、左側の正面に女将が座り、その奥が楼主たちの居住空間でした。廊下でへだててあり、遊女たちは左の楼主たちの空間には出入りできない決まりとなっていました。 >>楼主に子供なんかがいたら、すごくお店で育つのは教育上よくなさそうですが…どうなんでしょう。気になっています。 当然、子供もいたでしょうが、忘八と呼ばれる位の人間ですから、子供の教育などは、まあ、最低限「読み書き」「そろばん」ができる程度で良いとかんがえていました。 (よもやま話) (1)遊女の階級としては、 「太夫」「格子」「散茶」「うめ茶」「五寸局(つぼね)「三寸局」「なみ局」「次」 の8階級でした。 (2)しかし、妓楼はこれら全てを抱えていたわけではなく、「太夫」と「格子」だけの「大見世」。「散茶」「うめ茶」だけの「中見世」。「五寸局」以下を抱える「小見世」などと分かれていました。 (3)「散茶」の由来としては、煎茶で振ってたてるものと振らないでたてるものがあり、振らない方を散茶と呼び、どんなお客も振らずに、しゃにむに2階へ連れ込んで「事」を済ますところから、洒落て「散茶」と呼ぶようになりました。 (4)「太夫」「格子」は決して見世の前での顔見せはせず、客は出会い茶屋に腰をすえ、店の者を使いとして妓楼へ走らせました。この時、妓楼から出会い茶屋までの移動を「花魁道中」と呼びました。 客は酒食代はもちろん、茶屋の女将や使い番などへの「ご祝儀」、さらに、「太夫」などの揚代、妓楼の女将への「ご祝儀」、花魁道中で一緒に共をした「かむろ」や「太鼓持ち」などへの「ご祝儀」等々、一晩に30~40両は飛んでしまいました。よほどのお大尽でなければできないですよね。 (5)さらに、1度目、2度目は単なる酒食の接待だけ、気に入ってもらえれば3度目にして、やっと妓楼へ案内されて、「太夫」や「格子」の与えられた個室で夜をすごしました。 しかし、気に入られないと3度目はナシでした。そこで、客は、どうしても・・・となると、蒲団一式などをプレゼントして気を引く努力をしました。遊女が蒲団をもらうことは、非常に「名誉」なことでした。 (6)「太夫」は、美貌はもちろんのこと、「三代集」などを「レ(返り点)」なしに読めたり、書、唄、踊り、囲碁、将棋などもできる遊女の中の「超エリート」だったのです。 (7)吉原が拓かれた頃は、大名や江戸の留守居役、金持ちの旗本などが相手でしたので、そのような教養が求められたのです。しかし、江戸の人口は庶民が約50万人といわれ、男65%、女35%くらいでしたので、男の「ハケ口」として、次第に、庶民へも解放されました。 (8)しかし、庶民の金持ちとは言え、「太夫」などと一晩を過ごすには、教養が邪魔して?余りにも窮屈だ、ということで、宝暦年間頃には「太夫」は消滅し、そこそこの器量とそこそこの話題についていける「花魁」が登場しました。「おいらの姉御」「おいらんの」から「おいらん」と呼ばれ、「花魁」の漢字が当てはめられました。