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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:許しに信用するが含まれるか。)

許しに信用するが含まれるか

このQ&Aのポイント
  • 許しとは、怒りのコントロールで、そのひとの幸福を祈ることが出来ることだと考えました。許すことには信用することも含まれるのか、という疑問を持っています。
  • (1)(2)が条件なら、たいていの人を許せる気がしました。しかし、自分だけの問題と思えるひとを許すことと、信用することが含まれるとしたら、許すことがはるかに難しいものだと感じます。
  • たとえば一度浮気をされた夫が、妻を許すと宣言しても、夫が裏切られることを恐れている状況では、妻は許されていないと感じるでしょう。許しには信用することが含まれるのか、という問いについて考えてみました。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kigurumi
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回答No.5

私は氷点を読んで<欺瞞>の作品と思った。 まず、作者の三浦綾子は赦しについて勘違いをしていると思うんですね。 そもそもキリスト教がユダヤ教の律法の赦しを勘違いしたこと、律法を歪ませる原因になったのですが。 律法は赦しと禁止が書かれています。 禁止事項のみじゃないんですね。 しばる(禁止)とほどく(赦す・許可するなど)。 で、出エジプト記あたりに赦しについて明確に書かれています。 暗記しているわけじゃないので、正確には書けませんが、こんな感じだったと思います。 「あなたの敵が日没になっても借金を返済できなければ、利子を取らずに質に入れた服を返してやりなさい。」 その理由も書かれています。「何故ならその人は服が無いと夜凍えてしまうから」 この場合の敵とは、隣人のことで、同じイスラエル人のことです。 日ごろ仲が悪い相手のことを敵って表現しているんです。 エジプトを出てさまよい、服が無かったら夜死にぬような思いをした民族というステータスを持っているので、服が無い人の気持ちが十分わかるはずだから。 (ゆえにイスラエル人同士の貸し借りでは利子は取らないが、それ以外の民族からは取るわけです。) また「自分の家畜が隣人の家畜に危害を加えて殺してしまった場合、神への祈りの時間であっても、まず隣人に謝罪しにいきなさい。謝罪されたものは赦さなければならない。」 理由もちゃんと書かれています。 「もし自分が逆の立場にたったとき、赦されるため」 この場合、過失とかそういった故意によるものじゃない場合は赦しなさいと説かれている。 クリアーですよね。 とってもわかりやすいですよね。 理由なくなんでもかんでも赦せとは律法は説いていない。 で、例に挙げられた件ですが、奥さんはまず過失とか詐欺にひかっかったってことを、旦那さんに説明しなければならないんです。 浮気した相手に騙されたとか。 「あなたの夫は浮気していて、別の家庭を持っていて、子供まで作って給料の半分はそっちにまわしていて、深夜までその家にいて残業で遅くなったと嘘をついて毎晩午前様をしており、日曜は接待ゴルフといいつつ別宅の家庭と外食三昧の日々を送っており、いずれ離婚して別宅の家を正規の自分の家庭とするつもりですよ」など嘘をついた男の話を信じ、どうしたらいいかと相談しているうち「もし離婚されても自分が結婚するから。助けてあげるよ」と言われたけど全部嘘だったと、騙されたことを証明しなければならない。 また こんなエピソードがある、ダビデは散歩していて人妻の入浴シーンを見て、手篭めにしたわけですが、人妻が妊娠したと聞き、浮気がばれるからと人妻の夫 つまり部下を激戦地に派遣して殺して、人妻を自分の妻とした。 ダビデは罪を犯したという自覚が無かったのですが、預言者からたとえ話をされて、自分が罪を犯したと気づいた。 預言者は罪の自覚をしたダビデは、自覚した途端罪は赦された とした。 罪により生まれた子供が罪の贖罪として犠牲になり死産しましたけどね。 代償を支払ったことで、罪が消えた。 初子ってのはダビデと等価。(その頃のユダヤ人は初子は父親の分身という考えだった) で、人を殺してはどうしていかないのかの論文を読んだことがある。 共同体は信用が礎となっている、その信頼関係で成り立っている共同体に対して殺人は究極の裏切り行為だから。 夫婦ってのもお互い信用したから夫婦という共同体を作ったわけです。 浮気はその共同体に対する裏切り行為。 ほとんどの人が踏み越えない境界線を踏み越えて浮気するってのは、ほとんどの人が殺人をしないなかで殺人をするようなもの。 裏切った共同体に対して、再度自分に対する信頼を獲得するには、とてつもない努力が必要なわけです。 誰もが踏み越えない一線を、踏み越えることができたのだから、また踏み越える可能性がうんと高い特徴を持つから。 人は人殺しをする能力を有する、能力を有するにもかかわらず、人を殺さない。 かたや人殺しをする能力があり、能力があるので人殺しをする人もいる。 能力がありながら人を殺さない、これが人間たる資格だと思う。(同じ共同体限定ですけど) 浮気をする能力がありながら浮気をしない、これがパートナーたる資格ではないか と。 資格を快楽のために自ら手放し、信用を故意に裏切った者には、何も言う権利は無い。 ましてや「赦しなさい」と部外者は命令すべきじゃない。 なんでもかんでも輸すのが善人かのように騙す小説はよくない。 三浦綾子ぉ・・・・orz

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、確かに『氷点』の影響で、「他人からの評価」ということではなく、自分自身、ひとを許せる人間でありたいと考えるようになったのは事実です。 神父様も読むように勧めたくらいの小説なので、宗教的にも間違ってはいないのだとは思うのですが、その辺のことはとりあえず別の問題なのでよいとして、 >理由もちゃんと書かれています。 >「もし自分が逆の立場にたったとき、赦されるため」 >この場合、過失とかそういった故意によるものじゃない場合は赦しな>さいと説かれている。 >クリアーですよね。 とってもわかりやすいですよね。 >理由なくなんでもかんでも赦せとは律法は説いていない。 そうですね、わかりやすいですね。 そして、自分自身、その人に悪意があったかなかったかは、大きな基準に出来ると思っていました。 ご回答ありがとうございました。

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その他の回答 (7)

  • kigurumi
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回答No.8

No.5です >そうですね、確かに『氷点』の影響で、「他人からの評価」ということではなく、自分自身、ひとを許せる人間でありたいと考えるようになったのは事実です。 私の氷点の感想はあなたのとは違います。 この小説では夫は自分の子供を殺した犯人の娘を養子として引き取ったわけですよね。 氷点 ずいぶん前に読んだので、詳細は忘れてしまったのですが、、、 自分の子供を殺した犯人の子孫に対し普通は憎しみを持つものですが、この夫は逆で犯人を許すとして、その証として犯人の娘をひきとった。 夫は聖人君主? 許しの手本を示した人? 違う。 夫は犯人じゃなくて妻にとてつもない怒りを抱いていた。 妻は別の男と密会し情事を楽しんでいた。その最中に子供が殺された。 夫は子供が殺されたということにそう関心は無く、妻が他の男を愛したことが許せなかったわけです。 従って一応「自分は人を許せるか試したい」と言って孤児院の人だったか神父さんだったかに引き取る理由を告げたが、実際の動機は妻への復讐。 妻は自分の子供を殺した犯人の子供だと知らず、自分の本当の娘のように陽子をかわいがった。 夫はそんな妻を見て「何も知らずに。」と自分が妻に与えた罰に満足していたわけです。 そして妻はやがて真相を知り、手の平を返して陽子に冷たくなった。 陽子は母親の突然の変わりように戸惑ったが、いろんな理由をつけていじめじゃないと思おうとした。 そしてやがて、母親は弱い人だが自分はそうじゃない と凛としていたわけです。 清さを保とうとした陽子に対して、真実が告げられた。 「あなたは殺人者の娘、生まれながらに罪を背負っているんだよ。決してあんたが思っているような清い人間じゃないんだよ」 キリスト教は性悪説で原罪を重要視していますよね。 どんな人も生まれながらに穢れているというのが、キリスト教の主張で、氷点でもそう表現している。 だって筆者はクリスチャンだったから。 筆者も普通の人間ですから、恨んだり、憎んだり、毒づいたりするわけです。 筆者は理想の自分と実際の自分とのギャップで苦しんだ。 で、短絡的に原罪のせいにしちゃったわけです。 自分は悪くなくても、その前が悪かったので、自分もひきつぐことになってしまった と。 だから 不本意ながら、こんなことやってしまうんだ って。 思想の自分を求め、ありのままの自分を認めることができない、勇気の欠如が本当の原因で、解決策はありにままの自分を受け入れることだと思うんですけどね。 で、氷点の夫は小細工せず、妻に本心を暴露すればよかったと思うんです。 「お前が他の男とセックスしている最中にルリ子は死んだ」といわずに、「お前の裏切りが私を狂気にかりたてた。子供を失ったことより お前を失ったことの方だどれほど大きかったか。」と真実を告げた方がよかったと思う。 質問にあがっているケースも、真実を言わないから妻とちゃんと話ができておらず、妻の本音を聞きだせず、和解できず、妻を疑い続けるしかないわけでしょ? 許しとかそういう次元じゃない。 罪があるとすれば、本気で相手に向き合おうとしないことが罪でそれが災いを引き起こした。 前回書いた許しについての項目も、誠心誠意相手に説明しに行けってなってます。 神の祈りより、相手とちゃんと向き合うことの方が大事って律法では説かれています。

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 『氷点』に対する評価はともかくとして、 >勇気の欠如が本当の原因で、解決策はありにままの自分を受け入れることだと思うんですけどね。 >罪があるとすれば、本気で相手に向き合おうとしないことが罪でそれが災いを引き起こした。 >神の祈りより、相手とちゃんと向き合うことの方が大事って律法では説かれています。 という文章には共感できました。 今の時点では、悪意のないひとは許せる。悪意のあったひとは謝罪を条件として、謝罪がなければ許せない。許せなくともいい。 そんなふうに感じています。

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noname#124714
noname#124714
回答No.7

「許す」と私が思うためには、それ以前に「許せない」がなくてはならないと思います。 「許せない」理由とは、相手に反省のないまま許してしまうと、自分だけが苦しんだというだけでその件が終わってしまう、と感じるところにあると思います。 私のこの苦しみが和らぐためには、相手も被害を受けて苦しんだり、良心の呵責にさいなまれる必要があります。 十分な反省を見てとれたら、おそらく私はその相手を「信用」することが出来ますが、私が受けた苦しみをもう味わいたくないという気持ちがある場合は、相手にもうしないという約束をさせてから「信用」します。 以上は条件付きの「許す」ですが、条件の付かない「許す」もあると思います。 条件の付かない「許す」をするためには、自身の内にある苦しみを嫌わない必要があると思います。 自身の苦しみについて思い煩うと、付随的な思考が出てきますが、これは苦しみを増幅させます。この付随的な思考は、ほとんどが「相手のせいで私は苦しんでいる」という思考だと思います。 仮に苦しみを嫌わないでいられたなら、この思考は現れないと思います。 そして、「相手のせい」という思考がなくなった場合、別の見方が現れると思います。 それはおそらく、以前よりも相手をありのままに見ることができるものだと思います。 私の理解するところでは、「許す」も「許せない」も外的な状況によりそうなるという意味では受動的だと思います。 「許そう」という意図を持ち、自分が受けた苦を自身だけで完結させようとしたという意味では、「許す」は能動的になると思います。 以上、私が直接被害を受けたと感じたという設定での「許す」について、私の考えを述べました。

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 最近読んだ本に、不幸か幸せかは、状況によるのではなくて、自分自身がどう受け止めるかで決まるのだと書いてあったのを思い出しました。

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回答No.6

許すということは、相手、自分を自由にすることだと思います。 正しいことをする自由,間違える自由,そのままでいる自由などです。 そして、その中で自分で必要なことに気付き自分を修正していくこと になると思います。 自由の反対は支配です。 正しいことをしているか,間違ったことをしていないか監視することに なるでしょう。 私の思っているようにしなさいと言われていれば自主的に自分を修正 しようとは思わなくなるかも知れません。 自由の中には信用はいらないと思います。 支配の中には信用は必要でしょう,逸脱することを許さないために。 信用している、信用していないと言うことで支配をするのに有効に 使えると思います。 なぜ,自分にとって不都合なものを支配し続けなければならない理由は その対象に依存しているからです。 その依存先を失うことで自分を不都合な状態にしたくないからなのです。

jaga262
質問者

お礼

お礼が遅くなりすみませんでした。 >許すということは、相手、自分を自由にすることだと思います。 正しいことをする自由,間違える自由,そのままでいる自由などです。 そして、その中で自分で必要なことに気付き自分を修正していくこと になると思います。 許すことが、自由になることになるとは、確かにそうだなと思いました。許せないでいると、許せない相手のことを考えてしまい、いつまでも辛い思いをしなければならないですもんね。

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  • kysp1124
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回答No.4

jaga262さん、お礼読ませていただきました。  その中で提示された例に関して思ったのは、最終的に「許せない人間の部類に入ってしまう」のはいけないことなのか?という点です。 自分の家族の命を奪った犯人が最後まで悪態をつくのを見て、許せる(=平常心を保ち、相手の幸せを願い、今後の更正を信じられる)人なんて世の中にいるのでしょうか? 余程何かの宗教にドップリと漬かってでもいないと、常人の感覚では無理でしょう。 「ああ、かわいそうな人だ」と気の毒に思えるところまで達っせたなら、もう充分ではないですか? 世の中を「本当に人を許せる人」と「それが出来ない人」に分け、あたかも「黒か白か」のように「善と悪」にズバッと区別し、それで人間性を評価する権利は誰にもないと思うのです。 全てケースバイケースではないでしょうか。  「許せる、許せない」の根源は、各自のこだわりや人生観、信念にも大きく影響されると思います。 私自身の例ですが、誰かが私の財布からお金を盗んだとします。 後日その人が盗んだお金を持って謝りに来たら、余程でない限り、おそらく私は許すと思います。 自主的に謝罪にきた姿勢を評価するとからです。 が、同じ人が子犬(私は大の犬好きです)を殴っているのを目撃したとしましょう。 私はものも言えない無害な動物を虐待する人間は心から軽蔑します。 ですので、お金を盗まれたことは許せても、動物に危害を加えたことに関しては根本から人間性を疑うレベルの内容なので、おそらく一生忘れず、人としても信用できないと思います。 そういう酷いことが一度でも出来たこと自体を「恐ろしい」と思うからです。  そうだからといって「相手を許せない」と声高に宣伝して回ることはしませんよ。 でも嫌悪感は持ち続けますし、そのことで「あなたは人を許せない人間ですね」といわれても一向に構いません。 私にとって多少のお金は水に流せても、動物の命を粗末にする行為は見過ごせないのです。 それで「許せない人」の部類に入ってしまうのなら、甘んじてお受けしましょう、という感じです。 とても興味深い質問でしたが、jaga262さんご自身が「許せる人」と見做されたくて悩んでいらっしゃるのでしょうか? 何となく、他人からの評価が問題の核心であるような印象を受けましたが・・。

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >とても興味深い質問でしたが、jaga262さんご自身が「許せる人」と見做されたくて悩んでいらっしゃるのでしょうか? 何となく、他人からの評価が問題の核心であるような印象を受けましたが・・。 そうではないんです。そのように受け止められても仕方ないんですが、 NO3さんの回答にあった 「許すことは能動的 信用は受動的ですから。」 という意見に賛成です。 だから、他人の評価の問題ではなくて、「許すことが出来るか出来ないか」という問題が、自分以外の他人に左右される問題であるというところが腑に落ちないなあ、と感じているのです。 なので、わたしが例にあげた犯罪被害者の遺族の方について言えば、もちろんkysp1124さんのおっしゃるとおり、許せないのが当然だとは理解しています。 >「許せる、許せない」の根源は、各自のこだわりや人生観、信念にも大きく影響されると思います。 まったくその通りだと思います。それなのにひとつの普遍的な答えを求めようとしたところが間違いだったのかも知れません。でも、わたしなりの答えを出すための参考のため、もう少し締め切らずにおかせていただきます。

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回答No.3

明けましておめでとう御座います。 許すとは、恐らく相手を受け入れることだと思います。 頑なに拒否をする姿勢が拒絶や嫌悪であります。 逆に其れを止めて、相手を受容しようと言うのが許しだと思います。 従って――― 許し=相手の価値観も罪も何もかも「一人の人として認める」事ですが、 問題はその後の話。 「信用」するかしないかは許容の範囲内ではないと思います。 寧ろ定義づけて考えることも出来ませんしね。 相手を許すことと、相手に委ねる事は似ているようで違う。 許すことは能動的 信用は受動的ですから。

jaga262
質問者

お礼

>許し=相手の価値観も罪も何もかも「一人の人として認める」事 感覚的に、ふっと入ってくる表現でした。ご回答ありがとうございました。

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noname#29298
noname#29298
回答No.2

許す事と 信用する事とは全く別の事だと思います。 浮気を許せるのは結局 愛情があるからなんじゃないですかね。愛情があるから 浮気される事をおそれ 疑う,のではないでしょうか。許す事って 愛情があれば そんなに難しい事ではないんだと思います。

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >許す事って 愛情があれば そんなに難しい事ではないんだと思います。 わたしも含め、世の中にはけっこう不幸せな人間がいるものなので、そうとは言い切れないかなと思いましたが。。

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  • kysp1124
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回答No.1

jaga262さんの仰る「許すいうことは、また相手を信用すること(または信用しようと気持を転換できること)」というのは本当だと思います。 単に(1)(2)だけであれば、それは「水に流して、これ以上深追いしない」だけのことであって、大人同士の場合、その時点で縁が切れるケースが多いのではないでしょうか。 生理的に受け入れられないこと、または人間として許せないと嫌悪感を抱くような行動を取られると、心底許そうと思ってもそう簡単にはいきません。 「一旦なされてしまったことに関して相手を責め続けても仕方が無い、終わったことだ」とその辺りまでは普通の大人だったら辿り着けると思います。 そして「ちゃんと反省して、今後の人生は上手くやっていって欲しい」と思うことも可能でしょう。  ただ、その相手と自分がこれからも深く関わりあっていきたいか、一度抱いた嫌悪感を払拭できるか、となると話は別なんですね。 悪い意味で人間性を垣間見てしまうと、この先それに基づいた連想・推測が絶えません。 常に懐に爆弾を抱えているような感じでしょうか。 「一度あることは二度も三度ある」への猜疑心と恐怖です。 よって結末は「どこか遠くで元気で暮らしてね」的な心理で幕を閉じることになる・・と私は考えます。  「夫婦」や「家族」に関しては、単なる交友関係には無い愛情や経済的な問題も絡むので、「見切る」段階まで至るのには少し時間がかかるかも知れませんね。 そして「許す(努力をする)」ことに対して、より積極性があるかも知れません。 大人になってからの「人を許す」って、本当に難しいことだと思います。 生きていく上で永遠の課題ですね。 

jaga262
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 日常生活だけ考えるとそうなのかも知れませんが、たとえば、ふたりの人物がいて、二人ともひとを許すことの出来る人間だとします。 そして、ふたりとも殺人事件の遺族になってしまいました。一方の犯人は深く反省し、謝罪しています。もともとひとを許すことのできる人でしたから、遺族の方も犯人を許すことが出来ました。 ところがもう一方の犯人は、反省の姿勢を示さないどころか、裁判でも悪態をつくような人間でした。ひとを許すことのできる人間なので、この事件の遺族も、わたしの定義の(1)、(2)は出来ました。が、(3)の信用することは出来ません。犯人本人が信用に値しないのですから、仕方ないと思います。この犯人が信用できない人物だからということと、この遺族の人が人を許すことのできる人間かできない人間かということは、別問題であるべきという気がしたのです。たとえばこの事件の遺族が聖人君子であったとしても、この犯人を信用できないのは当たり前のことだと思うのです。それなのにもかかわらず、人を許すことの出来ない人間になってしまうというのが、納得いかない気がするのです。 示唆に富むご回答、わたしのわかりにくい文章だったのにもかかわらずいただけて嬉しかったです。ありがとうございました。

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