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以前、亡くなった祖母が、我が家は江戸時代の文久に××家にできた。といっ

以前、亡くなった祖母が、我が家は江戸時代の文久に××家にできた。といっていました。 でも、その当時以前にすでに家族自体はできていました。 なぜ、文久時代なのか疑問に思いました。 我が家の先祖は、江戸時代の後期に肝煎役つまり、庄屋に抜擢されたと、町史に記述されていました。 つもり、庄屋に抜擢された関係?かなにかで、文久時代に名字を名乗ることが許された。ということで、文久時代から××家が始まったと解釈することはおかしいでしょうか?  なにか、お教えください。

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 NO2.の方が「島崎藤村」を具体例に出されていますので、 私も、ほぼ「同意見」です。 つまり、「庄屋」になったので、苗字を名乗ることが許されて、そこから××家となったのでしょう。 「庄屋」は、ただ単に「金持ち」というだけではなく、「村長」に匹敵する役目です。 (1)郷村のまとめ役 (2)年貢の割り振り、取立て (3)男手を失った家への「手伝い」の割り振り (4)土地などの境界争いなどの仲裁役 (5)夫婦喧嘩の仲裁 などなど、領主(大名など)や代官に替わって郷村の「とりまとめ役」でした。 「司法」「行政」の権限を有していました。 従って、「土地持ち」「金持ち」だけではなく、それ相応の「人望」も必要でした。 苗字については、NO2.の方の「夜明け前」は、木曽路について述べています、 つまり、「庄屋」「本陣」「問屋」をあげておられますが、 実際には、農民でも苗字を許されたケースもあります。 私が、佐渡の歴史を調べた折、 当時(宝暦年間)、佐渡奉行所は金銀を管理しているにもかかわらず、奉行所の財政は「火の車」でした。 そこで、村々の農民が「銭」を出し合い、佐渡奉行所に500両(約5,000万円)を寄贈しました。 その時、村々の代表者に、 「そなたは、以後、川口(屋)を名乗るように」 とか、 「そなたは、以後、小林(屋)を名乗るように」 と、「庄屋」ではなかったのですが、「苗字」を授かった例があります。 まあ、「補足」程度に・・・。

その他の回答 (2)

回答No.2

   封建時代の姓名 ~ 私称・通称・公称・失称 ~    家名が建った(苗字を名乗ることができた)という意味でしょう。  もういちど「町史」をみて、くわしい年月日を確認しましょう。  家柄や身分に拒否反応する人も少なくないので、なるべく控えめに。    江戸末期には、屋号や苗字を通称する例も多かったのですが、正式に 名字帯刀を許可されたのは、支配者と被支配者の間で、おおやけの職務 である庄屋・本陣・問屋の三役でした(下記に詳述)。   ── 一代苗字帯刀御免なし下され候。その心得あるべきものなり。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html ── 島崎 藤村《夜明け前 1932011‥-193511‥ 新潮社》    上記は 18440715(嘉永 6.0610)で、文久とは、つぎの3年間です。 18610329(万延 2.0219)文久改元 18640327(文久 4.0220)元治改元    藤村は、三役の「勤めというものは、主として武家の奉公である」と 要約しています。わたしの感想は、支配者の交代期(明治維新)には、 これら中間階級は、何の保障もなしに、没落するしかなかったようです。   http://q.hatena.ne.jp/1153150744#a571650  ↑江戸川柳(長屋&借家)まくら四題 ↓家柄自慢 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&aq=5&oq=%e5%ae%b6%e6%9f%84&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLT_jaJP353JP354&q=%e5%ae%b6%e6%9f%84%e8%87%aa%e6%85%a2  

  • 178-tall
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回答No.1

>文久に××家にできた ...... 「以前にすでに家族自体はできていました」のは当然です。 突然発生はあり得ません。 いろんな解釈ができそうです。 ・「××家」が屋号なら、創業が文久年間。 ・直系なら、分家の時期が文久年間。 系譜と照合しつつ、確かめていくしかありませんね。   

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