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禹長春(ウ・ジャンチュン)とは?
- 禹長春(ウ・ジャンチュン)は、韓国の農業の発展に貢献した人物です。
- 彼は道徳の教科書にも載っており、韓国国民にとっては有名な存在です。
- また、彼は種無しスイカの発明者としても知られています。
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韓国の教育を受けた方がお答えになるのが一番良いのですが、韓国人はみんな知っていて尊敬しているようです。偉人として小学校で習うようです。 知名度から見ると、野口英世を日本人なら誰でも知ってるような感じみたいです。 日本ウィキの記述もほぼ正確なようです。ただ、「キムチの恩人」というのは私は今まで聞いたことがないのですが、でももしかしたらそうとも呼ばれているのかもしれません。 また、日本ウィキの「日本での活動」の後半部、「1937年同社を退社」とあるのは「1937年同省(日本農林省)を退職」の間違いではないかと思われます。 (博士号を授かりましたが、学歴が東京帝大は東京帝大でも学部でなく付設の実科という、今で言う専門学校のような地位のところだったので、高等官吏に昇進出来なかったようです。昇進しなかったその辺を10年くらい前に見た韓国のテレビ局のドキュメンタリーでは、お父さんが朝鮮人なので差別された為だとナレーションを入れてましたが、どうだったんでしょ?) その他、韓国の斗山百科事典と韓国ウィキ、ハンギョレ新聞などから仕入れた情報を順不同で。 ・彼は長男で、弟がいました。 ・2人の子供を抱え、夫を朝鮮から来た刺客に殺されたお母さんは生活に困窮し、一時孤児院で生活しました。 ・好きなことばは「踏まれても花を咲かせるたんぽぽ」 ・「孤児院にいた時、お父さんが朝鮮人だといじめを受けましたがくじけませんでした。」道徳の教材にちょうど良いです。 ・1923年日本人女性渡辺小春と結婚しましたが、小春の親達は大反対で小春は実家と絶縁状態になります。 ・その奥さんとの間に、6人の子女を儲ける。 ・1926年、日本人の養子となり須永長春(すながながはる)になりましたが、論文発表の時は Nagaharu U(ナガハル ウ)で発表しました。父系の名字を固執したところも韓国人としてすばらしく、道徳のお手本になります。(ちなみに、現在の記念館のアルファベット表記では「ウ」は U でなく、 Woo と書いているようです。) ・1950年韓国政府の招請で渡韓する時、奥さんや子供も一緒に行くことも考えますが、何しろ1950年。朝鮮戦争直前で、政治テロ続発の不穏な時だったため、断念。 ・お母さんが亡くなった時、韓国政府に葬儀参席のための出国を願い出ますが韓国政府から出国禁止措置を取られ(韓国ウィキ)、韓国政府がパスポートを発給しなかったせいで(釜山日報)、お葬式にも行けませんでした。これは、博士は韓国語が出来ないため、さまざまな誤解や困難の中にいて、さらに奥さんや子供を日本に置いて来ているので日本に出国するともう二度と韓国に帰って来ないかもしれないと韓国政府が思ったからでした。(韓国のものには、日本政府の妨害工作により日本に入国出来なかったと書いているものも一部ありますが少数です。韓国政府によって、と書いているものの方が多いです。) ・お母さんのお葬式に行けなかった博士は、全国から寄せられた弔意金で園芸試験場に井戸を掘り、お母さんへの思いを込めて「慈乳泉」と名付けます。 ・お父さんは彼が4歳くらいの時に殺されて、後は母子家庭となって日本人のお母さんに育てられました。後に、自身の民族意識を支えてくれたものは?との問いに、「お前は朝鮮の革命家の息子だといつも教えてくれた母の教え」と述懐しています。 ・博士に対する評価は賛辞のみで埋め尽くされたものではありませんででした。彼のお父さん(ウ・ボムソン)に関しての露骨な憤怒と卑下、冷笑もまた明らかに存在したのです。 ・家族と別れ、ことばも解からない母国に来ました。しかもお父さんのことで自分を歓迎しない人たちもいるにも拘わらずです。それは一途に愛国の気持ちからだったようです。このことも道徳的に素晴らしい方であることを表しています。 ・1951年、博士は土の調査でチェジュド(済州島)を訪れた時、気候から見てチェジュドはみかんの栽培が良いのではないかと提案します。博士のこの薦めにより以後、チェジュドの農家がみかん栽培に乗り出し、チェジュドは韓国最大のみかん生産地となりました。 http://100.naver.com/100.nhn?docid=119210 http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9A%B0%EC%9E%A5%EC%B6%98 http://www.busanilbo.com/news2000/html/2003/0416/060020030416.1008091040.html
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- nogul2n
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続きです。 ・ 研究成果(カッコ内はわたくしの勝手な独り言です。) ペチュニアの花が八重のものを開発(ガーデニングの定番中の定番のお花が、博士の研究と関係していたんですねぇ。) 日本の在来白菜とキャベツを交配させ、韓国の環境に適した新種の白菜を開発(これが今韓国で食べられている白菜なんですねぇ。日本の在来種が元になってるなんて、やはり日韓は縁が深いですねぇ。) 油菜(菜種)を日本から取り入れ、チェジュ島で油菜を栽培するきっかけを作った。(チェジュ島の春の風景と言えば、一面に広がる油菜の花の黄色い波がお決まりの風景ですが、そのきっかけは博士が作ったんですねぇ。) 江原道のジャガイモの改良 二毛作に適したイネの研究 等、等、・・・・・・韓国ウィキなどより ・博士は慈乳泉(井戸)の回りをおそうじすることから、1日の仕事を始めました。 博士の記念館はこの井戸のすぐそばに作られたそうです。
- daisuke200
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※ ではいくつか (1) 初等学校の「道徳」の教科書に載っていた 子供 母さんの漬けたキムチはいつも美味しいな~!! 母親 何が私の腕なものですか、み~んな○○博士のお陰~ (2) 角田房子著 わが祖国 を読むべし (3) 韓国クラブにはまっていたころ「○○博士って知ってるか?」 とホステスにたずねたら知っていた。 (4) 結論 引用文された文は「正しい」と言っていい。