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アスペルガーとアマテラス語方言
アスペルガーの特徴のひとつと言われることとして 《言葉を額面どおりに受け取る》を取り上げたい。 ▲ (ヰキぺ:アスペルガー症候群) ~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。 つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。 先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなばかな話はない。いくらでも言葉を尽くせばよいだけではないか。 ただ これが大人どうしの交通であったなら むしろそのままの事態が繰り広げられるかも知れないと思う。 そのような意思疎通の障害やそれにともなう交通事故を無くすためには どうしたらよいか。 これを もしこの特徴に限るなら アスペルガーが症候群であるなどとは ちゃんちゃらおかしいと思うという立ち場から 考えてみたい。 なぜなら 二枚舌――社会的な知恵や方便である場合もあろうかと思うが 一般に後味がわるく 社会的に弊害があると思われるような種類の二枚舌――を使うのは あくまでもっぱらの公民であるアマテラス族であって そのアマテラス語方言においてこそ 悪質なものがはびこっている。つまり アマテラス語方言の利用者にこそ 症候群があると診(み)られなければならない。 これは まなざしをやおら上から向けて来てひとを見降ろすようにして見るアマテラスお二階さんが 虫の居所がわるいのか 怒ったり喚き散らしたりあるいはいぢの悪い要求をつきつけたりとおのれの意識の排泄をおこなって それをアース役として受けとめるものとの間に繰り広げる二枚舌合戦であって このとき弱い者の側だけが 病いに落ち入ったと診断するなどとは 《ゆるせない》。つまり――ゆえに―― 赦す・赦さないを超えて 事態の精確な把握と分析をなしておきたい。 つまり問いたいことは アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。 あたかも敵は本能寺というごとく二枚舌をあやつるこのアマアガリ症候群に根ざすと思われるアマテラス語方言現象 これじたいが 或る種のアスペルガー症状なのではないか?
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少しアスペルガーについて、いろいろ情報が錯綜していますので、私の体験からですが、特徴をあげてみます。 空気を読めない。 言葉の裏を読めない。 平等主義を理想にする。 何事も理想的な考えに偏りすぎる。 議題のきまっていない世間話が苦手。 並列的な作業が苦手。 幼児の頃の記憶が断片ではあるが、いちいち鮮明に覚えている。 幼児の頃の絵をみると、端っこに小さく書いていた。 幼児の頃、一時期おしになったことがある。 こんな様な特徴があります。医者に判定されるまでは、人間関係が苦手で本当にダメ人間だと全く自身を無くしていたのですが、そういう特徴の定義付けの言葉にあてはめられて、なんだそうかだからなのかと少し安心したような気持ちになったのも事実なのです。 それで私が現在、本当に問題だなと感じていることは、レッテルを貼ることで、よけいにそういう言葉でくくって排除に働いたり、また言い訳しているにすぎないと見たり、そういう特徴を逆側から見ての改善を強いるような動きに働きすぎて余計に追い詰めたりと本当にまだまだ、いろいろ混乱しているということです。ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 支援団体というものがありながら、なぜか被支援者を蚊帳の外において支援者の支援にしか働いていないのかとか、なかなかまだまだこの問題は深いものがあるわけです。
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 郵便局に入り受付窓口看板の上に「郵貯銀行」の文字。銀行と名が付けば仕組みはどこも同じかなとおもえばそれがそうでもない。死亡ー口座凍結ー出し入れできない?民間の銀行は概ね口座の出し入れにストップかければ出金も入金もできないように止めることができるのに郵貯銀行では出金は止めることできても入金を止めることはできないそうだ。口座凍結した口座にどこからか入金がなされていけばある意味貸し金庫代わりに使う者も現れないとも…引き出すには、相続手続き等々があるけれどそこで相続税が発生し幾らか税金を支払ったところで、これがマネーロンダリングだったならば合法的にお金を手に入れることになろうか。 口座凍結すると預金は引き出せなくなります という話はよく耳にするが 口座凍結しても振り込まれてくるものはこばみませんという話はあまりきいたことがかった 裏木戸があきっぱなし
お礼
相変わらずですね。相変わらずでないことがあったようですが。 口座に入金されても 引き出すときには 相続の協議結果にもとづくはずだから それほど具合悪いとも思えないけれど。 これだけだよ。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
Q&Aのサイトにもどってきてみて、 お一人お一人の質問に対応するのは(アカデミックな事以外は、63歳まで 真剣に人の生涯について考えて来た人間ですから 言葉はどんどん連想されて出てくるのですが)、時間的に大変だなと思えてきています。 もちろん、 どうせ全部に答える時間なんてないのですが、 どんな人のどんな文もわたしには大切に思えるのです。 が、 無理は無理と承知しています。 ただ、やってみないことには私は解からないという気持のいつも強い人間のようなのです。 精一杯は その気持のままに、質問を選ばず回答してきましたが、 やるだけやってみた感はあるので、 すでに、この人にはこのように書いてみたらどうだろうか?とかいろいろな回答が思い浮かんでいるのですが、 ここからは、 ここに戻ってきた意図と絡めながら すこしづつ意図的に質問を選んでいこうと思っています。 bragelonneさんへの回答も なかなかそのあたりの意図がある者としては大変です^^。 質問のお気持は その出所とかも解かるつもりなので(前回のご質問へのNO:6の回答へのレスの最後の文の中の》恩恵の上の恩恵《という意味合いも その出所を暗示しておられるのですよね) よく解かる気持となるのですが、 読み取るのも大変ですし、やはりかなり時間を取られてしまいます。 アルペルガー症候群というのは始め聞きましたが、 ご紹介のURLの中身はすべて読ませていただきました。 (こちらを読む方が“こちらでの議論を読むより”はるかに時間がかかりません^^) これも これを読まれてのbragelonneさんの 正義の刃の鋭さ自体はよく解かるのです。 正義というより、人に差別をつけない精神(そちらの言葉で言えば“》人を裁かない《こころ”からの 鋭さなのでしょう。 私も 強烈に疑問を感じたところが多々あったのですが、 大きくはなぜ専門化がその症状について『診断』をくだすことにこだわっているのか?のあたりについて はっとして、えっ!という気持になりましたし、 人は 常に変化するしその可能性にはたくさんの機があるのにレッテルを貼ったら固定しがちな面があることを 専門家の方がたは 「これでは どう考えられているのか?」疑問にならざるをえませんでした。 まず、そのあたりを 何故いきなりアマテラス語と例えたのか? 何故 アスペルガー症候群から 二枚舌症候群といきなり飛んでしまうのか? と思いましたが ついさきほど、前回のそちらの質問が、そのあたりのご議論となっていたこをを知りました^^。 いちいちこれでは 読むのが大変なのですが^^;。…。 さて、 今回の質問文は アイロニー(皮肉)が強すぎるのをオブラートで包んだような感じの^^文と見ましたが、 結論は、これでは心理学者たち全体が(((アマテラスにくみした学者達の一群と共闘しているかのように)))、「「みずからのその症状(((つまり二枚舌症候群)))を隠すための社会的戦術にあるのではないか。 という文というふうに読めたのですが、 そうなのでしょうか? この文のあたりでは、 》社会的戦術《というのが 私にはよく解かりませんでした。 ただ単にビジネス戦術という事なのでしょうか? それとも あるいはもっと大きなビジネス戦術や戦略と うまく歩調をあわせているのではないかという疑いがあったりするのでしょうか? 二枚舌症候群ということを問題としているのであれば、 そのあたりもいろいろ詮索してしまいます。 しかし、 これを分析するのは 大変です。 相手は曲がりなりにも専門家ということになるからです。 専門家にはプライドというものもあるでしょう。 そういう自我の世界も考えてあげないといけないような問題です。 ほんとうは心理学者たちという職業は一応は 大学の心理課程のような簡単な心理学とかをしかもかじっただけでも卒業できてしまうカタチから出発できてしまう しかもその後は先生としてトップライトをあびる生活が待ってしまっているシステムの内にあるわけです。 それなら、もしほんとうに突き詰めて論議したら 私たち庶民の哲学家とか心理学家のライバルであるはずが無いのです。 だから 私はそういう人たちがいたら ほおっておきます。 心理学自体の発展には、私たちにも責任があるのですし、 みずから心理学を またその観点からはできるだけ脳科学をも庶民側の力でさらに開拓してゆくことだけを考えます。(日本民族的に^^) そこを議論したら、さらにさらにさらに^^(ちょっと皮肉ですが)、議論はややこしくなるだけだと思います。 心理学自体が発展すれば どうせすべては変わってゆくという 実践理論をここは私なら選びます。 もちろん、 それはビジネス戦略ではなく、すべて無料でその道を進みます。 情報無料化を進める道の中ですべては闘いとられていくはずです。 が、 一方では 最近ネットの世界が量的にどのようになっているのか少し見えてきた気がしているのですが、 今はまだマスコミとかのような影響力は無いのだから、 何が事をおかしくしているのかの 鋭いものの見方を論議しておくことは 真実ままにあってもいいとも思えてきています。 そして、bragelnneさんの 言い回しの中でのその道は、 これはもしかしたら「ちょうどいい」バランスのある世界なのかな?とも思えています。 二重の観点、 1つには、私自身は実践的でありたい、実際に質の良いコミュを応援していきたい、というその観点から、 また、もう1つには、ややこしすぎは困ったな^^という地点から、 (遠くから眺めた議論は一方がはっきり それを凝視していても 複雑なだけでなく怪奇にすらなってしまう、というあたりは、時間が赦す限り、つっこみたくなりますし)、 延々とのめりこむわけには いきそうにないという立場から、 ですが、 bragelonneさんの誠意は これからも応援していきたいと思います。 こんな感じですが宜しくお願いします。 なお、 心理学界は ほぼ二つの勢力に分かれていると聞いたことがあります(今からは30年以上も昔に聞いたことですけど)。 1つは 「心理テストなんかで人の心は計れない」というグループ、 もう1つは 「まずはテストから心の探究が始まる」とうグループ、 私のその時の印象は、後者が今ここでの問題のグループという感覚を受けています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 前回のご質問へのNO:6の回答へのレスの最後の文の中の》恩恵の上の恩恵《という意味合いも その出所を暗示しておられるのですよね ☆ ううーん。これは――このあと説明するように――直接には 関係ないですよ。 ★ まず、そのあたりを 何故いきなりアマテラス語と例えたのか? / 何故 アスペルガー症候群から 二枚舌症候群といきなり飛んでしまうのか? ☆ これは 本音と建前の使い分けが二枚舌なのですから それに対して アスぺルガーが額面どおりにしか意味を受け取らないと言われる特徴とは 比べられるはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 結論は、これでは心理学者たち全体が(((アマテラスにくみした学者達の一群と共闘しているかのように)))、「「みずからのその症状(((つまり二枚舌症候群)))を隠すための社会的戦術にあるのではないか。 という文というふうに読めたのですが、 そうなのでしょうか? この文のあたりでは、 》社会的戦術《というのが 私にはよく解かりませんでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おおむねそう(皮肉まじり)ですよ。戦術というのは 社会の動きを効率よく進めるためには 疾患のあるものをたばねて保護しておけばよいだろうというものです。自分たちの症状は アースをして弱い者たちに感染(うつ)してしまっているというわたしの推測です。 ★ だから 私はそういう人(心理学者)たちがいたら ほおっておきます。 ☆ この種の関係する諸学問に叛意を表わしていますが その前に この疾患の起源というものを考えてみたいというのが いちばんの課題です。その意味ではわたしも放っておきます。したがって 次のご方針とは別の道を行きます。 ★ 心理学自体が発展すれば どうせすべては変わってゆくという 実践理論をここは私なら選びます。 これまでにも少なからず説明してきております。ぜひご参照ください。
- heartmind
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こんにちは、ブロジェンヌさん。 二枚舌についてですが、ある意味、人間は誰でも二枚舌なのです。つまり、実在を言葉にしてしまった時点で、真実の嘘を言っているのです。 アスペルガーの場合は、ここでとても悩むわけです。実在と言葉の間の曖昧さで葛藤があるわけです。 私の2歳の時の記憶です。 「お兄ちゃんがいじめた~」と私は事務所で仕事する母に訴えた。 「困ったお兄ちゃんね~後で叱っておいてあげるね」と母 (真剣に訴えたのに軽くあしらわれてしまった)という感想です。しかし当然ながら2歳の私には(軽くあしらわれる)などという言葉はないのです。そういう感覚を覚えても黙るよりほかないわけです。そういう感覚と人間の発する言葉の曖昧さの中で成長していくうちに、4歳である程度言葉を意識し始めると、逆に全く言葉を発することができなくなったわけです。意思疎通の厳密さにこだわりすぎて言葉にすることが嘘に思えてしまった訳です。 しかし、成長段階で学校で論理的思考や文法などを学ぶことにより、なるほど納得していくわけです。最初の方は逆なんですね理解の仕方が。 それでもって、もっと成長すると、そういう枠に入らないものも出てくるわけです。言わなくてもわかるでしょ的な暗黙の了解とか、冗談とか、なぜなぜそんな不確かなものが分かるのかしら。 だけど、冒頭で言ったようにもともと不確かなものを言葉にしているにすぎないわけで、嘘つきには変わりないわけですからということで理解を進めていけるわけです。 参考になりましたでしょうか。
お礼
おぎないです。 《ゆかし》を出したなら 《なつかし》を出しておくべきでした。 ○ 行く ∽ ゆかし(こころがそこへ行きたい状態) ○ なつく ∽ 懐かし(なつきたい状態。懐いていた状態を思い起こさせる) ○ かねる ∽ かなし(悲し・愛し)(どうすることも出来ない感じだ。どうしようもないほど いとしい・かわいい) 孤独はそこを突き抜けると 孤独関係だと言い 《かなしみ》も同じく《悲しみ関係》になるのではないかと言った見方について。 これは 例の《わび・さび》の問題と通じているということを思い出しました。 ▲ (大野晋) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ わび(詫びる・侘びる)・わびし(侘びしい): 失意のさま 気落ちする気持ち 貧困で苦しい気持ちをいうのが原義。 ○ さび(錆び・寂び)・さびし(寂びしい・淋しい): 元来あった生気・活気が衰えて 荒れはてた感じである意。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらの状態と気持ちをどこまでも煮詰めていくと わび・さびの境地に達するのだと。虚無ではないのですね。もしくは 虚無であるかも知れませんが 虚無主義ではないのでしょうね。 嘘つきについても そこを突き抜けていくと どこかに到るかも知れません。どうでしょう?
補足
こころこころさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 魔術に白いのと黒いのとがあるように 二枚舌にも 悪質のものがあるはずです。これを問題にしています。ひとを自分の息のかかった者とすべく寄せるためのもの あるいはもっと言えば 人心操縦のために用いる場合のもの これらを取り上げ 糾弾しようとしています。 それにしても 二歳や四歳でそんなに意識や思考が発達しているものなんですか。まいりました。 産道を出てくるときのことをおぼえているというやからがいますが これなどは 面白半分で 軽く流しておけばよいものと受け取れます。 もっともわたしの場合が 特殊でして 大げさに言えば 三十歳になるまで――むろん西も東ももう分かっており ホンネとタテマエの使い分けも心得ていましたが―― ひとが 西をどうしても東と言おうとしていること。つまりそれが間違いであることを聞いているわたしがすでに分かっていて 分かっていますよという顔を差し出して聞いていても 平気でそのウソを言い続けるひとがいるということ。そういう情況 つまりそういうひとのこころと言いますか神経がまったく分からなかったのです。 もう少し細かく見てみます。ホンネとタテマエの使い分けは むしろ譲歩しているという場合です。ホンネを差し控えるのですから。ところが ウソとホントを使い分ける場合は そう簡単にそのこころが分かるものではありません。 そのひとは むろん初めにウソだと分かっているのです。それでもタテマエとしてそれを採用しなければならかったようで それをわたしに伝えるのですが わたしがウソであることは分かっているという顔を突き出していると そのひとはホントであるはずだとみづからに言い聞かせるかのごとく固まって行きます。その神経が分からなかった。 ともかくしっかりとした意識において遊び仲間や町の人びとと共にこの世界に自分がいるのだと分かったのは わたしは 幼稚園から小学校へ上がるときの春休みだったのです。 この本音と建前と微妙に絡むウソとホントの問題として ここで悪質だと捉えている種類のものは 二枚舌の内のひとつの舌による表現が 無謬性を持つと言い張る場合です。 アマテラス公民は この不可謬性を信条としているのではないですか? むろんローマ教会の法王が つい最近までそうだとみづから言い張って来ました。まちがうわけがないのだと。 公民がみづからのまちがいを認めたのは たしか鳥取県知事が初めてだったとかどうとか。だとしたら これも最近のことです。 たとえば。《これは 強制ではありません。あくまで参加は自由です。みなさんの自由に参加いただくものです。よさそうだと思っていただけるなら 参加してもらえばよいのです。絶対に 自由な参加になっています。・・・》という場合は どうですか? まなざしをそそぐ者とそそがれる者とのあいだに この二枚舌の関係が繰り広げられる場合 これを問うています。前者の行動においてすでに 二枚舌を柔軟に駆使するという建て前の中に 答えはただひとつ 自分たちの作成した案に従うこと・従わせることであるという・そういう意味での――無謬性をとなえるゆえの――《所期の額面どおりの解釈》一本しかありえないという思い込み念力教アスペルガーが 顔をのぞかせていませんか? この結果です。社会的な感染の結果です。 ★ アスペルガーの場合は、ここでとても悩むわけです。実在と言葉の間の曖昧さで葛藤があるわけです。 ☆ となるのは。アマテラス公民がみづからの頭に心に胸に飼い始めてすでに飼いならしているアスぺルガーを まなざしを注がれる側は アース役となって受けとめているのです。その結果です。 いつでしたか 《ダブル・マインド》という問題が提起されたこともありましたね。 まだ説明が足りないでしょうが どうでしょう?
- kigurumi
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他の例に挙げてと。。。 例えば子供が牛乳をこぼしたとする。 おかあさんはと<叱るかわり>に「牛乳をこぼしてくれてありがとう」と言ったとする。 おかあさんがどうして直接叱らず、そのような言葉をあえて選んで言ったのかはわかりますよね。 でも、アスペさんは「牛乳をこぼすとおかあさんは喜ぶ」と、言葉に裏に潜むおかあさんの気持ちを理解せず、おかあさんを喜ばせたいと、またこぼすんです。 他には、、、 アスペさんにチョコレートと書いてある箱を見せて「この中に何が入っていると思う?」と聞くと、「チョコレートが入っている」と答える。 ここまでは問題ないですよね。 私も「・・・チョコレートじゃないの?」って言います。(聞くからには違うものが入っていると推測できますが、他思いつかないのでそのまま答えるしかない。) 「残念、実は鉛筆が入っているんだ」とアスペさんに中味を見せる。 そして「この箱をお友達に見せたら、お友達はこの箱の中に何が入っていると思うかな?」と聞くと、アスペさんは「鉛筆」と答えるんです・・・・・。 ええ、確かに鉛筆は入っているが、お友達は鉛筆が入っていることを知らないので、チョコレートと答えるはずなのに、お友達も自分と同様に外箱に騙されるということを推測できない。 機能的に無理なんです。 騙しが機能的に理解できない。あるいは騙しの存在を認識するのが、機能的に非常に困難。 だから、相手はチョコレートの箱に鉛筆を入れて自分を騙して遊んだんだとわからない。 だから、大学教授なのに、普通の人ではすぐわかる詐欺にひかかってしまう人がいるんです。 (大学教教授とか専門職の人の中にアスペさんは多いと言われている。) 人を騙す方が障害があるじゃないか? そうですね。 確かに人を騙すことの方が問題があるが、人を騙す人の方が社会的成功者になっているって実情がある。 障害を持っている人の方が、騙すという障害を持っていない人より人生が成功している場合もあるのも現実。 >アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。 悪巧みをする悪者が、「騙される側が悪い」と自らを正当化しているってことですか? 確かに騙しをした方が悪いに決まってます。 でも ことはもっと複雑なんです。 最初に挙げた例のように、相手を叱るかわりに、やんわりと相手の非を指摘するにとどめ、両者の良い関係を保つために比喩を多用しているんです、われわれは。 でも、中には比喩を理解しない人も1万人だか1000人だか100人だかに1人はいるわけで。(ちゃんとした統計が取れていないので、どれくらいの割合でいるのか、把握されていない。) 天然とか言われる人たち。 コントでよく取り上げられていますよね。 言葉そのままをやって、「なにしてんねん」って怒られて、「だってあんさん そう言ったやないか だからワテはあんさんの言った通りにやったのに なんで怒るねん」って。 やんわりと遠まわしに言われたことを、言葉そのままをやってしまい、怒りを買うってコント。 ボケ側がアスペルガーってわけじゃないのですが、その世界をコントでやって、言葉の比喩が理解できる人は、ボケ側の行為に失笑してしまうわけです。 アスペさんは、このボケとつっこみのコントを見ても、何がおかしいのか理解できないと思います。 漫才という文化。ジョークという文化。 これを人類は編み出すことで、コミュニケーションを円滑にして、悲しい時もユーモアで乗り越えてきたわけです。 でも、中にはそれを獲得していない というか機能的にうまれつきできない人もいる。 ただし、マイノリティーなので、配慮されてこなかったわけです。 というか今まで障害があって理解できないという認識ではなかった。 こういう空気が読めない、比喩を理解できない、言葉遊びを1人で勝手にやる、かしこばった表現をする、上下関係の概念が無い など奇異な行為は障害により起るって今までわからなかった。 で、今はこれらが機能的にできない あるいは困難さを伴う人もいる という認識になってきており、じゃあ そのような人達とどう共生するのか ってステージに現在なっているわけです。 それでそういう人たちがマイノリティーだけどいるってことを、多くの人に知ってもらおうとして、ドラマとかでやって、認知を高めているわけです。 で、身体障害者や精神障害者を隔離せずに、共に一緒に暮らそうってことを国は方針で打ち出したわけですよね。 重度になると彼らは施設に入ってそこで暮らしてきたが、これからは隔離せずに、一般社会で共に生きようってなったので、施設が閉鎖されて一般社会で暮らすようになるので、よく見かけるようになり、今までこんなにいたんだってわかりだしたわけです。 でも、アスペさんは国から保護されていないので、今までも一緒に暮らしてきたわけです。 ただ、天然とかKYとか変わった人とか呼ばれてきたわけですが、彼らの中には社会的成功者も数多くいる。 シリコンバレーで働く技術者、web業界の最先端を行く企業で開発を続ける金を生み出す鳥たちのほとんどは、アスペさんの可能性が高いと言われています。 とうわけで、空気が読めない、天然、比喩を理解できない、上下関係の概念が無い なんてことは、人生の成功とはなんの関係も無いってことです。 その何の関係も無いことをあえて彼らは弱者だと言うのはどうか・・・と。 結局は障害とされるものがあるために、成功者になっているわけですから。 二枚舌といえばパウロ。 「神の正義を追い求めるものは幸いなり、彼らによって天の国は作られる」 この言葉を「貧乏なものは幸いなり。神の義によって迫害されるものは幸いなり、彼らは死んだあと天国にいける」という意味だとして、 信者に献金を強いて、ぼろもうけしてキンキラ御殿を作った成功者たち。 騙された側が悪い? はいそう思います。 これは障害により比喩を理解しなかったからということじゃなくて、障害を持たない人が詐欺師により完璧犯罪に巻き込まれ、言葉巧みに騙されてきたわけで、詐欺師が悪い。 でも、自分を正当化するために自分は騙されて詐欺を担がされた、自分も犯罪をしてきたと認めることができず、騙してきた詐欺師を庇い続ける勇気が極端に欠如した信者がもっと悪質。 罪を売ってる人から罪を買う人がいなくなれば、罪を犯す人はいなくなり、罪はこの世から消える。 供給があっても需要が無ければ、供給は消える。 騙されたいという需要が多いから、詐欺師たちはその要望にこたえて増えるわけです。 どっちもどっち。 悪者同士で騙しあいを勝手にやればいいけど、どっか私の目に入らないところでやって共食いしあってよ って思います。 聖職者も信者も二枚舌の名手。 二枚舌ゲームやっている両者をみて「哀れねぇ・・・」って思います。
お礼
あなたとの対話は終わっていますが 主題から言って 何も言わずに済ませるわけにも行かない。 母親はその子どもに みづからのこころの真実を話してやればよいのです。幾度もいくたびも 昼も夜も 分かるまで言い聞かせていくのです。死ぬまでです。それだけのことです。 器質の問題は 扱い難いという事割りを書きましたが それでも こういうことが考えられます。身近な人びとや社会から切り離されたかたちに置かれて来たとすれば その生活態度がならわしと成って 或る種のそれ独自の神経細胞のかたちをつくったかも知れません。 つまり 社会的な扱いつまり扱われ方によって そのひとつの特徴が 症候群と言われるまでに強固なものになったに過ぎないかも知れません。社会源病であるのではないか。すべての精神疾患には この疑いがかけられる。 二枚舌の弊害を言おうとしておられるようだが あなたは言ってみれば 舌も顔もない。そういう生活態度つまり思想であるようです。まぁ しゃれた言い方をすれば 世の中の写生をしておられる。
- ri_rong
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なんていうか、ウィキペディアの喩え話はどうも難しそうですね。 教師はその子がアスペルガーである事を知っているにも係わらず、「犬があなたの宿題を食べたの?」という、(普通では考えられない)質問をしたわけです。障害を持つその子は、自分がアスペルガーである事を知っているはずのその先生が、あたかもそれを知らないかのような顔をして質問をしたのだから、その背後には、余程の罠があるに違いない――という、先生の「こころの裏」を悟ったその子は、シニカルに「先生、犬って紙なんか食べないよ」と言うべきか、それともあるいは、自分以上の障害を持っているのではないかとふと気付き、そして怖れ、やがて絶句してしまった――というような場面のほうが、しっくり来るような気がしました。 その子の心の動きに気付いた先生は、きっとその子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくでしょう。 こういう場面を想定する僕も、あるいは病気なんでしょうか? 確かに、質問をした先生が「その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていく」――というような行動を取ると結ぶのですから、「例えば教師が、アスペルガーの子供に」という書き出しの前提にはもう少し配慮をして、――例えば、アスペルガーの子供に、それを知らない教師が――というふうな書き出しにしておいた方が、(アスペルガーを説明するための例文としては)より親切ではないかなとは思いますが、 この例文からは、その子がアスペルガーである場合、ない場合の双方に、どちらにせよ憤慨して立ち去る先生の行動――という同じ結果を与えることが可能だと思います。 あるいは、質問者は「それを知らない教師」という、アプリオリに与えられる前提は常に用意されるべきだし、そうでないような表現は、アマテラス語方言現象なのだと ――こう、おっしゃるわけでしょうか。 その子がたとえアスペルガーであったとしても、常に先生を憤慨させる行動を取るかどうかは、僕にはよくわかりません。その子がアスペルガーである事をずっと知らずに立ち去る先生と、その子がアスペルガーである事を知っていたにも係わらず、ふと「そうではないんじゃないか」という気付きから、憤慨して立ち去った先生の場合では、どのような違いがあるでしょうか。 ご質問は、こんな感じの内容でしょうか?
補足
ふうーう。これはしくじったでしょうか? アインシュタインにはかなわないのかなぁ。 ri_rong さん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ▲ 例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたらうんぬん ★ 教師はその子がアスペルガーである事を知っているにも係わらず、「犬があなたの宿題を食べたの?」という、(普通では考えられない)質問をしたわけです。 ☆ ううううーん。 分かった!! 事態の打開策として:―― (1) 教師は知らなかったと強引に解釈する場合。 《アスペルガーの子供》という規定は この教師がいまこの事例のいきさつの結果として初めて一般にも気づくことになったということ。そのあとの認識であるという解釈です。そのことを振り返るかたちで言っているのだと。 (2) 子どもの事例は 子どもの判断力がつねに大人のそれと同等・同質だと見ることは出来ないとすれば この事例をやはり強引に 大人どうしのやり取りの事例へと移して 考えていこうとする場合。(これは 初めの意図にもあるものですが)。 いづれにしても ▲ 先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。 ☆ という教師は おかしい。その《犬が食べた》なる修辞法の一本槍のまま固まってしまっているのは どう見てもおかしい。 そうして そのように自分の表現――つまりたとえば具体的には自分の知識の披露としての回答の投与――に最後まで固執する場合が考えられます。しかももし――と事例を引っ張って来つつ すでに大人どうしの場合を取り上げようとしているのですが―― この回答者=表現者のほうが 仮りに身分として上だったとした場合 そのときには アスペルガーの問題とは関係なく 交通の障害が発生し事故を起こさないとも限らなくなって来ます。 辛辣に言って しかもこの投稿した回答が 間違いをかかえていたと分かった場合 すると回答者=表現者は 自分の表現へのこだわりの問題だけではなく もしその間違いを認めないとしたら 二枚舌の問題に移行します。 おそらくここにこそ アスペルガーのしるしは見られるのではないでしょうか? 交通において思考膠着に落ち入るというかたちです。(身分が上だというのは 自分がそう思いこんでいるという場合を想定すればよいのではないでしょうか)。 つまりは 表現を受信する側については《アスペルガーの問題とは関係なく》としたことが そのまま生きます。 言いかえると ★ 「それを知らない教師」という、アプリオリに与えられる前提は常に用意されるべきだしうんぬん ☆ という視点を用意しようとするのではなく そうではなく アスペルガーの起源をまづ問題にしたいと考えます。いま想定されているような内容としてのアスペルガーは 一たんご破算にしたところから出発して考えて行きます。 つまりは まなざしをそそぐ側(一般にアマテラスと呼ぶ)にこそ その症状のようなことは生起している。のではないか。このような問題提起です。 言いかえると 器質としての症状については ここでは扱えないという事割りになると思います。母源病ということばがありますが アマテラス公民起源病ともいうべき心理現象として 社会的なでっちあげによるのではないかという疑いについて考えて行きたいと思うのですが どうでしょう?
お礼
ふううむ。わたしは No.36の aeromakki さんに指摘されましたが 何も実地に分かっているものではありません。ましてや何も実際に言えるものでもないのです。――あっ ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですが 勘でしょうか 明らかに《でっちあげ》だと確信しています。量がいわゆる質に変わるときには かなりそれとしての専門の分野という扱いにもなるのだと思います。これに抵抗や批判をするのは たしかにその専門家に自分もなったときです。 ですが わたしには 体験があるのです。明らかにたとえば生体電気信号が 外へ出てひとに向けて発信されたということがです。すでに言ってきたアース役の問題ですが これは相手に確かめていますから 自信があります。 日本人は ちょうど欧米の人たちが挨拶に握手をするのと同じように――ま この握手を同じくするかしないかとは別に―― この電磁波でのやり取りをおこなっているということです。これ自体は 推測ですが 馴染みどうしの場合や初対面の場合などなどで どうも――まなざしをそそぐ・そそがれるという表現をも使いましたが それとも別に と言いますか このまなざしに伴なうかたちでと言ったほうがよいと思いますが―― 電波のやり取りを 時にはライワ゛ルどうしなら火花を散らして たのしんでいるようなのです。 ジャブの応酬といったところでしょうか。―― 一般には 相手と自分とでは 社会的な身分はどちらが上か これを値踏みしているのだと思われます。 ★ 特徴 ☆ これらは このような電波合戦のあと――アース役が決まったあと―― 時とともに(親から子へ)つくられつつ感染もすることがある。こういう認識です。つまり でっちあげです。 《デンパによる握手行為はやめましょう》 これを標語にしたい。こう思います。 ★ ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 ☆ これはわたしも肝に銘じます。