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アスペルガーとアマテラス語方言
アスペルガーの特徴のひとつと言われることとして 《言葉を額面どおりに受け取る》を取り上げたい。 ▲ (ヰキぺ:アスペルガー症候群) ~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。 つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。 先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなばかな話はない。いくらでも言葉を尽くせばよいだけではないか。 ただ これが大人どうしの交通であったなら むしろそのままの事態が繰り広げられるかも知れないと思う。 そのような意思疎通の障害やそれにともなう交通事故を無くすためには どうしたらよいか。 これを もしこの特徴に限るなら アスペルガーが症候群であるなどとは ちゃんちゃらおかしいと思うという立ち場から 考えてみたい。 なぜなら 二枚舌――社会的な知恵や方便である場合もあろうかと思うが 一般に後味がわるく 社会的に弊害があると思われるような種類の二枚舌――を使うのは あくまでもっぱらの公民であるアマテラス族であって そのアマテラス語方言においてこそ 悪質なものがはびこっている。つまり アマテラス語方言の利用者にこそ 症候群があると診(み)られなければならない。 これは まなざしをやおら上から向けて来てひとを見降ろすようにして見るアマテラスお二階さんが 虫の居所がわるいのか 怒ったり喚き散らしたりあるいはいぢの悪い要求をつきつけたりとおのれの意識の排泄をおこなって それをアース役として受けとめるものとの間に繰り広げる二枚舌合戦であって このとき弱い者の側だけが 病いに落ち入ったと診断するなどとは 《ゆるせない》。つまり――ゆえに―― 赦す・赦さないを超えて 事態の精確な把握と分析をなしておきたい。 つまり問いたいことは アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。 あたかも敵は本能寺というごとく二枚舌をあやつるこのアマアガリ症候群に根ざすと思われるアマテラス語方言現象 これじたいが 或る種のアスペルガー症状なのではないか?
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少しアスペルガーについて、いろいろ情報が錯綜していますので、私の体験からですが、特徴をあげてみます。 空気を読めない。 言葉の裏を読めない。 平等主義を理想にする。 何事も理想的な考えに偏りすぎる。 議題のきまっていない世間話が苦手。 並列的な作業が苦手。 幼児の頃の記憶が断片ではあるが、いちいち鮮明に覚えている。 幼児の頃の絵をみると、端っこに小さく書いていた。 幼児の頃、一時期おしになったことがある。 こんな様な特徴があります。医者に判定されるまでは、人間関係が苦手で本当にダメ人間だと全く自身を無くしていたのですが、そういう特徴の定義付けの言葉にあてはめられて、なんだそうかだからなのかと少し安心したような気持ちになったのも事実なのです。 それで私が現在、本当に問題だなと感じていることは、レッテルを貼ることで、よけいにそういう言葉でくくって排除に働いたり、また言い訳しているにすぎないと見たり、そういう特徴を逆側から見ての改善を強いるような動きに働きすぎて余計に追い詰めたりと本当にまだまだ、いろいろ混乱しているということです。ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 支援団体というものがありながら、なぜか被支援者を蚊帳の外において支援者の支援にしか働いていないのかとか、なかなかまだまだこの問題は深いものがあるわけです。
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オコリザルです。 おっしゃる事は解りますが、あまりやる気はないのですがアマテラスさんの弁護です。 大抵の御意見は了解できますが、これだけは間違いだと思います。 > その観念の内容としては 《永世》なら永世であるなら 同じであり重なっているとは思います。スサノヲ市民にとっての永世は いま・ここの日常としての常世の延長というほどの意味だと思います。 そしてたしかにスサノヲ市民は それでよいとしていますから 過去の類型から推測するしか将来の予測はできない。 これが人間知性の限界であるとする論理が大手を振っていますが、そうじゃありません。 人間の私が「ときわたり」として大胆な将来予測が出来るくらいですから、意思を解き放つ事には過去に縛られない事も含まれるでしょうよ。 アマテラスさん曰く「堅実に生きるのは効率が悪い」だそうです。 しっかし、こうして弁護する私の立場は何なんでしょうね。 やっぱり色香に惑わされたんでしょうかね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 過去の類型から推測するしか将来の予測はできない。 これが人間知性の限界であるとする論理が大手を振っていますが、そうじゃありません。 人間の私が「ときわたり」として大胆な将来予測が出来るくらいですから、意思を解き放つ事には過去に縛られない事も含まれるでしょうよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この見方とちがっているから スサノヲにとっての《永世》観は間違いだということのようですね。 その見方の軸と言いましょうか あるいは基礎が そもそも違っているようです。 わたしの見るスサノヲの生きる基礎は こうです。《いま・ここなるわたしが すでにわたしであって そのまま過去と未来との時空間に通じている。そのわたしが わたしして生きる》。 将来予測はしてもよいのですが この境地そのものとしては 要らないということです。 ★ アマテラスさん曰く「堅実に生きるのは効率が悪い」だそうです。 ☆ 上に述べた基礎としての《堅実》と 生活の上で健康や経済あるいは家族や友人に恵まれて《堅実》であるのとは いちおう別だとしてもよいのではないでしょうか? あるいは 両者は同じだと見てもわるくないでしょうから だとすると それが《効率が悪い》と言い張るアマテラスは どういう考えなのでしょう? 人びとを束ね 何もかもを自分のために寄せて使う。そうでない堅実は 効率が悪いということでしょうか?
Hidocchiでございます。 申し訳ございません。忘れていました。 > ○ 《只今ミラー・ニューロン活性化中》現象 ☆ 科学的におかしなところはありませんか? 全く問題ないかと存じます。 > ようっしゃ。精神疾患は ぜんぶ治してみせるぞ! 愚生も、微力ながら、お力になれればと思っております。 それでは、またよろしくお願い申し上げます。
お礼
あぁ それはこころづよい限りです。ありがとうございます。 センセーショナリズムについてですが お二階さんの圧倒的なちからに抵抗するためには 多少は 景気のよい言い回しをするかも知れません。そこのところは よろしくお願いいたします。極楽とんぼのようです わたしは。 (ま でも 頼るのはより少なくよいことでしょうね。表現の幅を見ていただければありがたく思うというところでしょうか)。
ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。 > 専門の研究分野があり――精確には 生物化学でしょうか 愚生は、修士課程までは、”有機合成化学とその薬理効果の研究”を、博士課程では、”抗腫瘍免疫”の研究をしていました(医学部でドクター取得したため、日本語名は”医学博士”となりますが、愚生は医師ではないため、英語名は、”M.D”ではなく”Ph.D”となってございます)。 従いまして、合成化学(亀の甲にいろいろとくっ付けたりします)と”腫瘍”におきましては、多少の知識はあるかもしれません。現在の職に就くまでは、”環境ホルモン”、そして、少しばかり”創薬”の仕事をし、現在は”製薬”業に従事しております。ただ、会社側が大学に寄付講座を開いてくれたため、そこで仕事をしております(一応、たいそうな肩書きはもらっておりますが、個人的には肩書き等には全く興味がないため、肩書き名を自発的に用いたことはございません)。 今回のご質問との関連から、以下にて、”癌”につきましても、お話をお聞きいただければ、幸いでございます。 > しかもわたしが資料渉猟をおこたっているのと違って 通じておられる。 資料集めにつきましては、仕事をしていく上で自然と身に付いたものかと思っております。ですが、bragelonne様におかれましては、これら情報に対しまして、自由かつ興味深い解釈をしてくださり、愚生と致しましても、望外の喜びとするものでございます。 さて、癌の話なのですが、今から2,3年ほど前に世界各国で、「発ガンにもっとも影響のあるものは何か?」というアンケートをしたところ、日本人のみが”タバコ”だけを挙げていました。そして、その他の国々では”食べ物”と”タバコ”だったそうです(これが現在での通説でございます)。そこで、なぜこのような違いが生じてしまうのかを考えてみました。そこでまず、国立がんセンターのHPをのぞいてみました。 http://ganjoho.jp/public/pre_scr/cause/factor.html やはり、”食べ物”を挙げています(疫学データはアメリカのものですので、日本とは事情が異なるとのただし書きがございますが)。もし日本がピュ-リタニズムの国というのでしたら、ある程度理解ができるのですが、そういう訳でもございません。 愚生の記憶では、「産業の活性化に伴い、必然的に廃ガス等が排出されてしまう。だが、これは、国の発展(産業化=国民が豊かになる)ともつながることで、ある意味仕方がない。だが、喫煙は個人的な問題であるため、廃棄ガス等にふらべれば低リスクであるが、それでも若干のリスクがあるタバコ これは止めることが可能。だから、肺がんリスクを低下させるためにも、タバコは止めた方がよい」 という風にほぼ2,30年前までは、そのように言われていたかと思います(実際、最近の近代化する中国におきましては、都市部では肺の発ガン率は高くなっています。一方、農村部では顕著な増加はみられません)。 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=29853 社会的閉塞感から生じました「他人に生き方を押し付けて快感を覚える」という感情からきたものか(養老猛談)、もしくは単に情報社会による弊害なのかは、わかりません。 養老猛談 http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_tabacco__20070919_3/story/20070918jcast2007211417/ 次は、統合失調症につきまして(家族として、一緒に同居しておりましたので)、述べたいと思っております。 駄文、ご一読いただきまして厚くお礼申し上げます。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 わたしの友に 触媒を〔修士までですが〕やっていたのがいました。工学部でしたので 化学と言ってもだいぶ違うのでしょうね。ごめんなさい。何もしゃれたご返答ができなくて。おしえてくださりありがとうございました。 ★ 「発ガンにもっとも影響のあるものは何か?」 ☆ 環境および遺伝そしてさらにいろんな要因に分かれるということのようですね。 ということは 精神疾患にしても そういう顧慮ははらうべきであるというところでしょうか。 この質問では特に質問者は センセーショナリズムに陥っているようです。元凶というよりは 原因のひとつであるのではないかと言っていくべきですね。 ★ 養老猛談 ☆ 山崎正和については 一時期テレビ番組で話をよく聞きましたが まだ――いまだに――特徴をよくは捉えていません。養老猛については わたしは解剖学についてまったく暗いわけですが 社会についての見解には ときどき 違和感を覚えることがあります。『バカの壁』にしても 聞いた話の内容 X ゼロ=ゼロ という方程式のほかは もう何にも覚えていません。そのつてでは かれが言いそうな話だなとまづ思いました。 ただわたしはどちらの見解にしても根拠づけることがかなわないので そういう印象のみです。 そう言えば『バカの壁』で ソシュール言語学について触れていて これは成っていないと思ったことがあります。きわめてあいまいなまま 何か主要な主張をみちびいているかに思いました。 ★ 社会的閉塞感から生じました「他人に生き方を押し付けて快感を覚える」という感情からきたものか ☆ たとえばこの禁煙運動にしても 外国の運動のまねだと思えるようでいけません。古くは ウーマンリブの運動ですとかも起こって消えましたが もっと生活に根差した訴えをひっさげて運動をして欲しいように思います。 とは言うものの 禁煙と喫煙の区別は必要なのでしょうね。 次回ですね。うちも似たようですので。
- arayata333
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蚊論争について、No:16への「この回答への補足」に、 》 過去から引きずるものは つぎのふたつです。 (1) 《蚊が刺したようなもの》と言えば 何か(つまりはっきり言えば レ―プ)が歴史事実としてあって ただしそれは《蚊が刺した》ことに喩えられるといっています。《蚊が刺しただけ》と言えば そこにあった事実は 《蚊が刺した》ことのみになります。 それが 無効という行為のことです。《何もなかった》と言ってもよいし 原則は そう言うべきです。ただし何か物理的な接触などがあったということは 消せない事実でもあるので その事実に替えて《蚊が刺した》という事実を持って来ています。 つまり 主観においてはですが 《蚊が刺した》という歴史事実があったのみということを 社会的にも有効としています。《 という説明をいただきました。 なるほど、 それはそのような論議だったのですね。 そういう文脈での《蚊が刺した》という意味合いであれば たしかに《蚊が刺したようなもの》という言葉は あてはまらないですね。 が、 そのような意味合いでしたら、 私の言いたかったこととは別ですし、 興味はないところですので、 ここでおしまいにしましょう。 (2)として、 数学的表現の世界を示してくださったことは勉強になったのですが、 そういう意味で可能無限と 非経験としての―無限→神という言葉を置いておられるならば、 それはおそらく純粋思索の追及の過程の言葉であるのでしょうが、 私の政治的な道筋とは合いません。 以下、私の回答No:11への「回答への補足」に、 私の側の立場から簡単にコメントをしておきます。 》 3. 《武力行使が道徳的にも正当化される場合がある》とオバマが言ったそうです。(只今の情報)《 オバマ大統領が そのような事を言われることは予測できていたことですが、 政治的な問題なので、私のほうからはコメントを差し控えさせていただきます。 》5. 《心理テスト》などどうでもよい。初めにこういう症状を実証しようという前提と意図があるからには 勝手にやってろと言うほかない。《 もっと 無自覚に心理テストを作成しているのが現状と思ってます。 そのような意図とともに 心理テストが応用されたことはアメリカにはあったと思いますが、 心理テスト自体が 今回の疑問の起源ということが言いたいのではありません。参考にならない点と思われればうっちゃっておいてください。 》 6. 神経症など心理の障害は たとえ精神の大海にとって上っ面で嵐が吹きまくるだけだと言っても それだけの問題を持つ。休養が必要の場合もある。ただしそれだけである。《 》神経症などの心理の障害《 とありますが、 《神経症や それに近い症状の心理の障害》と解釈させていただきますが、 被害者も本人もその症状自体によってたいへんな苦痛を味わっていたりもします。 休養も解決策の1つですが、 たくさんの具体策が当然 総合的に考えられる必要があるかとおもいます。 (7)については、補足の意味合いが解からないので略します。 》8. ★ 《“人間としての演技修行”の世界》――☆ 特に《人生演技説》というのもあるようですが これについては わたしは くそくらえと言ってやる立ち場です。《 《人生演技説》というのは知りませんが、 その名前からして、人生は演技の世界で捉えられるという説なのかもしれませんね。 それならそれを「くそくらえ」という点で それに対する立場自体はそちらと似ていると思います。 が、人の苦しみの世界を理解する一助としては有効と考えています。 それこそ 《表象ではとらえられない感性の世界》可能無限ということなのでしょうが、 そこからも 演技だけでは捕らえられない世界がたくさん眠っています。 9. ★ 《さまざまな遊び さまざまな興味、さまざまな触れ合い、さまざまな趣味をおおらかに友だちどうしで楽しめる環境がそこにあるだけでも そんなのはすぐ治っていく問題です》。――☆ よくもこんな安易な言い方をなしえたもんだなぁと思います。 具体的な教育改革のビジョンがあって言っています^^。 早合点していませんか? 10. ★ 《しかしながら、 そこには 権力のそれこそ二枚舌(嘘、や騙しの世界)が巧妙にかくされていたりしたとしても、 / 私の場合は、 それをも 太陽によってその服を脱がすとういイソップ式の方針でその悪に挑むでしょう》。――☆ さよか。 さよです。 11. ★ 《善への真心の世界を しっかりと掴んでおかないと》――☆ よくもこんな歯の浮いた言い方ができるもんですね。 これ抜きには 人の中の名誉欲とかの意識を自我の殻の中に引き込む要素を人の心から無くす方法は思いつきません。 それが無くならなければ、 どんな民主主義からも管理社会への隙がうまれると考えています。 最重要なこととおもいますので、 哲学からはそれが「歯の浮いたような言い方」として聞こえるのかもしれませんが、そのへんは言いたいことが よく解かりませんでした。 12. ★ 《さて ここにてなのですが、ではどっちが アスペルガーか? ということを問題にすべきところなのでしょうか?》――☆ たしかにわたしも そのように読める表現をしてしまっていますが あくまで焦点は 《起源》を突き留めることです。全体の説明から分かるはずです。対症療法には ここで関心を寄せません。 》関心を寄せません《 →それならそれでいいのです^^。 》全体の説明から分かるはずです。《 →そのへんは なんとか解かっているつもりです^^。 13. ★ 《私が 心理学で、問題にしているのは、 上記の「まごころ」がどうして生まれるのか その因果をまだ明らかにしていないことが明らかだからです。 推理ですがはっきりと、これははっきりと推理できるところなのです》。――☆ 勝手にやってください。 はい^^。 14は スルー。 ☆ 残念ですと言いますか すでに前回で方針がわたしとは違っていたようですので 仕方無いと思います。 との まとめの文、 了解しました。 「あんたは 哲学からも学びつつも、それよりも、政治家たれ」と背中を押されている気がしました。 ありがとうございます。 長い間、ありがとうございました。 情報の結節点にて、またいつの日かお会いしましょう。 哲学の研鑽の道、 ご活躍お祈りしております。
お礼
背中を押していませんし 押そうと思ったことはないです。 これは書いておかないと 認めたことになるのでしょう。 ほかにも食い違いがありますが――たとえば ★ 哲学の研鑽の道 ☆ こういう考えであゆんで来ていませんし これからもそうするつもりはありません。哲学は 手段ですから―― 何か言って 答えが返ってくる気配はないようですから うっちゃっておきます。
- heartmind
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こんにちは。 アスペルガーの割合が日本人が高いというデータがあることから、確かに規格外の認定は日本においては少し範囲が広いのかなと思えてきました。そこで、もう少し日本人のアイデンティティーについて疑ってみてもいいのかなと考えることにしました。 まず、純粋な神道というものは、歴史上ではあまり中央集権的役割は果たしたことはないという事実があります。勿論、文化的役割はあったと思いますが。江戸時代の中期に国学の研究がされたことはありますが、それも学問として研究されただけなのです。ただ明治維新という改革には影響力をあたえてははいますが、、、。なので、どちらかというと、仏教や儒教、または武力(軍力)によって、その役割を助けてもらった感じなんですね。どっちかっていうとそれに利用されたんでしょうか。 それで現在はというと、個人的見解になっちゃうけど、資本がそれにあたると思っています。資本が神道を利用している形のような気がします。テレビメディア(民放)もそこにはさすがに切り込めませんから、なぜならスポンサーあってのテレビですから、どんな情報番組作るにしてもさすがにね。日本人なんてブロジェンヌさんが思っている以上にけっこうふらふらしてるんですよ。そこが曲者といえば曲者かもしれませんが、ですので本質的には企業最優先という潮流が企業を弱体化させてそれがアスペルガーの枠を広げているという見解になっちゃいました。 しかし、時代をさかのぼると案外横並びの発想もあるはずなんです。ブルーカラーとホワイトカラーの差が無くてボトムアップで伸びてきた歴史もあるわけですから。 三谷幸喜さんの「12人のやさしい日本人」を見ると主体性がなくって周りの意見にながされる日本人の特徴がユーモラスに描かれていますが、そこにも横並びの発想が取り入れられています。 参考になりましたでしょうか、どうでしょうか。
お礼
すでにその原形が 卑弥呼(ヒメのミコトの ヒとミとコで 中国の史書に載ったか)のシャーマニスムでした。アニミスムの親分というような性格の心性です。しかも こんどは すでに 歴史知性に芽生えたあとの《ヨセル》です。これは すでに イリ歴史知性を その知性の能力にものを言わせて アマガケルところのスーパー歴史知性です。たぶん 観念の帝国を すでに いの一番に 思い描くのでしょう。 神功皇后オキナガタラシヒメのときに この《ヨセ》の記事はあるのですが その後も かのじょの系譜に見られるという意味で この《ヨセ》なる超歴史知性を 広くアマテラス族と呼びます。《タラシ》でもいいはずです。アマテラスのほうが 一般性があります。正確には 崇神ミマキイリヒコも アマテラス族ですから やはり それとは区別するなら スーパーアマテラスと呼ぶといいでしょう。 §4 《イリ歴史知性》を基礎として 《ヨリ原始心性》および《ヨセなる超歴史知性》とが 共存する アマテラス(天照らす)というのは その言葉どおりに もともとは ヒコ(日子)と同じであろうと考えます。人間の精神であり 理性の光であり 社会的な役割としての公民です。崇神イリヒコなるアマテラスの系譜には のちにタラシ系統(スーパーアマテラス)から出た雄略ワカタケによって 謀略に遭い殺されたイチノベノオシハのミコがいます。その双子のオホケ・ヲケは 命からがら逃げて あとで 身分を明かし名乗り出るといった歴史があります。そのあと 市長となったとき(顕宗ヲケ=弟そして仁賢オホケ=兄の順序でなったとき) 父の仇の雄略ワカタケの陵墓から ほんの少し土をけずって 復讐に代えたという逸話があります。 つまりふつうのイリヒコ系アマテラスと ヨセ=タラシ系のスーパーアマテラスとのちがいを 見たいという主観(えこひいき)です。 したがってというほどに 後者の《ヨセなる超歴史知性》は けっきょく そのヒコ=アマテラスなる指導者の地位を 専門化させ――それはそれは もともと秀才でもありましたが 人一倍も二倍も勉強し努力しました その結果―― 社会から単独分立し もともとの市民政府ではなく その上に社会的な第二階を築き そこを 自分たちの住み処としてしまいました。 →No.14補足欄につづく。
補足
heartmind さん ご回答をありがとうございます。わたしは厚かましい割りには小心者で 応援があると元気になります。 ★ 「12人のやさしい日本人」を見ると主体性がなくって周りの意見にながされる日本人の特徴がユーモラスに描かれていますが、そこにも横並びの発想が取り入れられています。 ☆ 紹介記事を見た程度ですが それはおそらく スサノヲ市民として スサノヲどうしの横の関係と アマテラスとの縦の関係とがあるということではないでしょうか? ★ 現在はというと、・・・資本がそれにあたると思っています。 ☆ この《資本》をわたしは 勤勉資本主義のそれとガリ勉資本主義のとに分けています。後者は 何事をも何者をも束ねて用いるというヨセ(寄せ)知性だと捉えます。 heartmind さんは なじみが薄いかと思いますので たとえばつぎの見方を掲げます。 日本人の思想(生活態度)は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると思います。(紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近)。 §1 シントウの原形またその確立 ――《ネコ‐ヒコ》連関 あるいは《イリなる歴史知性》の誕生―― 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。ある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めたそうです。祟りという認識でしたから 祀れば 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシの記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。これは 一人の人における身体(=ネコ)と精神(=ヒコ)とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般(=ネコ)と市長および公務員(=ヒコ)とに やはり当てはめて捉えてもよいと思います。つまり 社会形態としても そのように確立し始めたと考えられます。 つまり この《ネコ‐ヒコ》連関は 基本的に一人の人間において 《身体‐精神》の総合なる存在を表わし また かれ(かのじょ)が 社会的にも 《市民(わたくし)‐公民(おほやけ)》の両要素の連関から成る存在であると主張します。 そしてそのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。 崇神(いわゆる天皇としては 第十代ですが)ミマキイリヒコイニヱのミコトの名にある《イリ》であり《ヒコ》のことです。そういう歴史知性であり これは 人の自然本性(=《ネコ(S)‐ヒコ(A)》連関)にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。市民のほうは その代表として あたかも概念として 《オホタタネコ》(⇒スサノヲ)が当たります。 §2 歴史知性の以前――《ヨリ》なる歴史知性=原始心性―― 《オホタタネコ‐ミマキイリヒコ》連関の社会の以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。アニミスムないしシャーマニスム(たとえば 卑弥呼を想え。つまり崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀のことである)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(――つまり 農耕のように 種蒔きから実のりまで時間の経過を人も共に生きるそのような時間的な・相対的な――)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活は そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていくと言えます。(そこでは 潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。 §3 《イリ》歴史知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていました。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル(寄せる)》ということを行なう人間が出ました。
オコリザルです。 bragelonneさんの論理では人間たる私自身もスサノオ市民でしょうよ。 そしてアマテラスさんのお色気攻撃に負けて恭順した私は人類の裏切り者でしょうよ。 でもアマテラスさんは愛と名のついた光で、まさにあまねく照らそうと頑張っています。
お礼
国家公務員・地方公務員すべてのアマテラス職業に就いている人たちも 生活者としては市民スサノヲですよ。天皇家は 苗字を持たないので 市民であると言いきれるかどうかあやふやですが。 ★ でもアマテラスさんは愛と名のついた光で、まさにあまねく照らそうと頑張っています。 ☆ そういうふうにお触れ書きには書いてありましたね。 そういう建て前で 千五百年やって来ました。スサノヲ市民も 結構協力してやったのですよ。巨大古墳をつくるのを助けてやったのをはじめ 高度経済成長期にも奮闘努力をして来ました。先の戦争時にも いのちをささげて応えました。 だが もうアマテラスの威光はうすれて来たのではないでしょうか? この二枚舌現象が 社会全体にヰルスのように回ってしまうと どうにかしないと行けなくなっているのではないでしょうか?
オコリザルです。 弁護パート2です > これはむしろスサノオ市民の願いです。 意思として表そうとする限りアマテラスさんは責任を買って出る事となります。 したがってアマテラスさんの責任とするのは本望なのですが、スサノオさんに注文を付けるなら、アマテラスさんの責任の行使を(権利)受け入れるだけの理解力と自助努力がほしいところです。 喧嘩にならない範囲でそのように話し合ってほしいところです。
お礼
そうですね。 その昔 スサノヲ(実際にはその子孫であるオホクニヌシが営んでいたイヅモのくに)が 〔スサノヲにとっては実の姉である〕アマテラスの帝国からの服属要求に屈服したところから 社会の国家としての二階建て構造は始まります。 じっさいには 人びとからの視線をふんだんにいつも受けていないと生きて行けないという種族 お山の大将でいないと生きて行けないという種族 これが それはそれは奮闘努力の結果 人間的な人間となりきわめて優秀な識見を持つようになり アマテラスなる光の種族として立ち ただしそれほど徳のある人間が スサノヲのイヅモを武力によって侵すわけには行かないというので 長年のあいだ われわれを国の王として立ててくれと頼み込みお願いをしからかして やっと それではというので スサノヲらによって 社会に第二階を設けそこに神だなに祀るというかたちで棲息所を与えてもらったのです。 ただしむろん そのあとの経過は ふんぞり返っています。えらそうにしっからかしています。したい放題やりたい放題です。 あぁ 何たることか。スサノヲらは《くにゆづり》をして へまをやらかしたかどうかといった問題です。 ★ 意思として表そうとする限りアマテラスさんは責任を買って出る事となります。 ☆ そうでしょうか? 自分たちからすすんで責任を取ったという事例はあったでしょうか? マッカーサーに対しては 責任を感じると言いながら 国民に対しては われは人間なりのほかは何も言わないで済ましました。あとのアマテラス公民は 右へならえです。 ★ 喧嘩にならない範囲でそのように話し合ってほしいところです。 ☆ けんかにならないどころか 話にもなっていません。話にならないのです。だから ミラー・ニューロン現象で 一億無責任体制が出来上がりました。 ひとは 無責任体制としての生活態度をとると おかしくなるのです。それがふつうなのです。わたしのように図々しい者でないと 《寅さん反応》で《アース役はつらいよ》現象が起きてもおかしくないのです。無責任で平気の平左でいられる人たちの代わりに 自閉症なり鬱なりの現象を引き受けてやっているのです。むしろアマテラスの人びとは その人たちに感謝すべきです。 それからです。話は。 どぢゃ?
オコリザルです。 今回は弁護の姿勢です。 私は「アマテラスさんとデートした事がある」と言う契りがありますので弁護です。 > スサノヲ市民にとっては 生活日常が 常世です。何の仕組みもからくりもありません。そこに住む者は 常民とも言うはずです。(これは むしろ朝鮮語での《サンミン》という読み方をするかとも思います)。 常世とは死を克服した世界観です。 アマテラスの論証、 死は想定されうるが準備されてはいない。 このようにアマテラスさんは精神世界の本質たる常世を具体化しようとなさっているんです。 これはむしろスサノオ市民の願いです。 何とかしようとしているのが、神を司り、意思を表すアマテラスさんです。
補足
★ 常世とは死を克服した世界観です。 ▲ (大野晋:常世) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【最も古くは トコ(常)ヨ(世)の意。 土中・地下の世界の意で 異郷・死の国。 アマ(天上の国)に対立する観念であったが 蓬莱神仙思想に影響されて 異郷の観念が地下から海の彼方へと移り 不老不死の国と意識されるようになった。】 1. 地下の世界。死の国。2.永遠の不老不死の国。海の彼方の異郷。3.不変であること。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ スサノヲ常民にとっては 《生活日常》であると言ったのは わたしの意訳でした。地下の世界から ふつうにその地上の世界に現われ出て来る。あるいは 海の彼方の世界から いま・ここに戻ってくる。のだと思います。 (スサノヲのミコトは 海原を司りなさいとイザナキから命令を受けても それを嫌いつづけました)。 その意味では《死》の克服だと思いますが それは 日常生活の中から得た状態であり境地であって それに対して アマテラスの側は 《鏡》の象徴する不老不死にしても この常世にしても 観念としての光を求めているかたちがついて回っているように思います。 卑弥呼のもらった三角縁神獣鏡にしても あるいは《蓬莱神仙思想》にしても 中国(道教でしょうか)の影響が見られ それは観念としての光であるように感じます。 つぎの中の《精神世界の本質たる常世》というのは 《観念》とつながっているように思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アマテラスの論証、 死は想定されうるが準備されてはいない。 このようにアマテラスさんは精神世界の本質たる常世を具体化しようとなさっているんです。 これはむしろスサノオ市民の願いです。 何とかしようとしているのが、神を司り、意思を表すアマテラスさんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから スサノヲ市民は 別だと考えます。その観念の内容としては 《永世》なら永世であるなら 同じであり重なっているとは思います。スサノヲ市民にとっての永世は いま・ここの日常としての常世の延長というほどの意味だと思います。 そしてたしかにスサノヲ市民は それでよいとしていますから ★ 何とかしようとして ☆ は いません。 ★ 神を司る ☆ ことをしません。すべて胸にしまってあります。《地下から地上へ / 海原の彼方からいま・ここへ / 死から生へ》という転換を見ることができたゆえだと思います。
オコリザルです。 A17の補足です。 実のところ精神世界においては、自我がある限り精神世界または観念世界を(心の内側)この世と見なし現実をあの世と見なすのが古典的しきたりのようです。 写真芸術に現れる銀塩に像を結ぶ化学反応が証明したのは、心象に投影された景色が現実である事の証明です。 それをもって、この世とはありもままの世界であり真実を映し出している事が証明されたとするのが写真が登場した19世紀後半です。 そのように「あの世」と「この世」はごく最近になって、重なってこそ常世であると証拠が出ているのですが無自覚のまま20世紀を過ごしたわけです。 科学の証明でいろんな闘争が生まれた荒々しき20世紀です。 ヒトラーの登場もそんな文明病です。 ヒトラーさんは個人攻撃をするのには当たらづ、単なる世の流れとして戦争が勃発したのみです。 よって私は個人的にはヒトラーさんを赦せます。
お礼
primeape さん こちらのほうは よく分かりません。 ★ 現実をあの世と見なす ☆ そのようにはわたしは 飲み込めません。
オコリザルです。 また作文の添削をお願いします。 世界とはいかなる投影であるかとでも言った、最新版の個人的世界観です。 芸術論に仕立ててあるので霊験だの第六感だのを迂回していますが、心とはいかなるものかのとっかかりとしてしたためました。 > 私は写真が趣味なんですが芸術論として写真を撮影する場合には「自然界と対話しつつシャッターを切る」と言う撮影スタイルをとります。 見ると言う行いを通してこの自然界との対話を哲学してみます。 眼球から脳に伝わる神経線維は約150万本だそうです。多いようですが、これは要するに150万画素の超古いデジカメと同じ情報量であるという意味です。さらに人間は色を識別できるのが生物としての自慢なのですが、視神経で色を識別する細胞は、実は僅かでして、視神経から脳に伝わっている生の情報は多数が白黒で像を結ぶだけの情報です。 これらの視覚情報は脳で情報処理されフルカラーの見ている光景になります。 さらには脳機能には空間を掌握して感覚的に理解する能力もあります。 このように見たままの景色、世界とは心の中に投影された世界でもあります。 脳機能で投影された世界、または世界観は現代語では精神世界と言います。 これを古い言葉にすると「あの世」です。 あの世または霊界は死の世界とする印象がありますが、迷信または錯覚です。 正しくはあの世とこの世は心象を反映しただけの本質的に一致する世界であり両者が一致してこそ常世です。 「死」については宗教的にも論じられ哲学において克服すべき課題ですが、ここでは多くを取り上げません。 精神世界から反映される心象を、見たままの視界の広がりと重ね合わせて、心に中で自然界と対話をするがのごとくシャッターを切るのが私のカメラマンスタイルです。 私は油絵をかける技能もありますが、ただシャッターを切るだけの写真の方がむしろ高等技術です。 油絵なら心象世界をただキャンバスになぞるだけですが、写真の場合はシャッターを切る瞬間には心象と世界を一致させる常世の境地にいなければなりません。
お礼
primeape さん ご回答をありがとうございます。 写真については聞いていましたが わたしがまるで興味がないと来ています。つまり まったく分かりません。 ★ 「自然界と対話しつつシャッターを切る」=心の中で自然界と対話をするがのごとくシャッターを切る ★ シャッターを切る瞬間には心象と世界を一致させる常世の境地にいなければなりません。=あの世とこの世は心象を反映しただけの本質的に一致する世界であり両者が一致してこそ常世です。 ☆ まづ《あの世》という表現は わたしにはしっくり来ない憾みがあります。《心象》の中に《世界》をおさめるといった感覚でしょうか? たぶんその瞬間に一つの枠の中に切り取られた《世界》が 心象を映し出し得たといったところでしょうか? 心象をむしろその世界に重ね合わせることが出来たということでしょうか? たぶんその芸術作品と 《常世》とは別だと思います。 それこそ《あの世》もしくは《そとの世界》に永遠性を見ようとする場合を言うとも考えられます。これはややもすると アマテラス世界の住人が――たとえば 鏡が長寿・永世のしるしとして受けとめられていたように―― ひとつの象徴を思い描いているのではないかと思います。 スサノヲ市民にとっては 生活日常が 常世です。何の仕組みもからくりもありません。そこに住む者は 常民とも言うはずです。(これは むしろ朝鮮語での《サンミン》という読み方をするかとも思います)。 そう言えば 常世ということばを出しましたね。
お礼
ふううむ。わたしは No.36の aeromakki さんに指摘されましたが 何も実地に分かっているものではありません。ましてや何も実際に言えるものでもないのです。――あっ ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですが 勘でしょうか 明らかに《でっちあげ》だと確信しています。量がいわゆる質に変わるときには かなりそれとしての専門の分野という扱いにもなるのだと思います。これに抵抗や批判をするのは たしかにその専門家に自分もなったときです。 ですが わたしには 体験があるのです。明らかにたとえば生体電気信号が 外へ出てひとに向けて発信されたということがです。すでに言ってきたアース役の問題ですが これは相手に確かめていますから 自信があります。 日本人は ちょうど欧米の人たちが挨拶に握手をするのと同じように――ま この握手を同じくするかしないかとは別に―― この電磁波でのやり取りをおこなっているということです。これ自体は 推測ですが 馴染みどうしの場合や初対面の場合などなどで どうも――まなざしをそそぐ・そそがれるという表現をも使いましたが それとも別に と言いますか このまなざしに伴なうかたちでと言ったほうがよいと思いますが―― 電波のやり取りを 時にはライワ゛ルどうしなら火花を散らして たのしんでいるようなのです。 ジャブの応酬といったところでしょうか。―― 一般には 相手と自分とでは 社会的な身分はどちらが上か これを値踏みしているのだと思われます。 ★ 特徴 ☆ これらは このような電波合戦のあと――アース役が決まったあと―― 時とともに(親から子へ)つくられつつ感染もすることがある。こういう認識です。つまり でっちあげです。 《デンパによる握手行為はやめましょう》 これを標語にしたい。こう思います。 ★ ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 ☆ これはわたしも肝に銘じます。