- ベストアンサー
アスペルガーとアマテラス語方言
アスペルガーの特徴のひとつと言われることとして 《言葉を額面どおりに受け取る》を取り上げたい。 ▲ (ヰキぺ:アスペルガー症候群) ~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。 つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。 先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こんなばかな話はない。いくらでも言葉を尽くせばよいだけではないか。 ただ これが大人どうしの交通であったなら むしろそのままの事態が繰り広げられるかも知れないと思う。 そのような意思疎通の障害やそれにともなう交通事故を無くすためには どうしたらよいか。 これを もしこの特徴に限るなら アスペルガーが症候群であるなどとは ちゃんちゃらおかしいと思うという立ち場から 考えてみたい。 なぜなら 二枚舌――社会的な知恵や方便である場合もあろうかと思うが 一般に後味がわるく 社会的に弊害があると思われるような種類の二枚舌――を使うのは あくまでもっぱらの公民であるアマテラス族であって そのアマテラス語方言においてこそ 悪質なものがはびこっている。つまり アマテラス語方言の利用者にこそ 症候群があると診(み)られなければならない。 これは まなざしをやおら上から向けて来てひとを見降ろすようにして見るアマテラスお二階さんが 虫の居所がわるいのか 怒ったり喚き散らしたりあるいはいぢの悪い要求をつきつけたりとおのれの意識の排泄をおこなって それをアース役として受けとめるものとの間に繰り広げる二枚舌合戦であって このとき弱い者の側だけが 病いに落ち入ったと診断するなどとは 《ゆるせない》。つまり――ゆえに―― 赦す・赦さないを超えて 事態の精確な把握と分析をなしておきたい。 つまり問いたいことは アスペルガー症候群という一種の疾病のレッテルを貼りつけようとするのは みづからのその症状を隠すための社会的戦術であるのではないか。 あたかも敵は本能寺というごとく二枚舌をあやつるこのアマアガリ症候群に根ざすと思われるアマテラス語方言現象 これじたいが 或る種のアスペルガー症状なのではないか?
- みんなの回答 (46)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
少しアスペルガーについて、いろいろ情報が錯綜していますので、私の体験からですが、特徴をあげてみます。 空気を読めない。 言葉の裏を読めない。 平等主義を理想にする。 何事も理想的な考えに偏りすぎる。 議題のきまっていない世間話が苦手。 並列的な作業が苦手。 幼児の頃の記憶が断片ではあるが、いちいち鮮明に覚えている。 幼児の頃の絵をみると、端っこに小さく書いていた。 幼児の頃、一時期おしになったことがある。 こんな様な特徴があります。医者に判定されるまでは、人間関係が苦手で本当にダメ人間だと全く自身を無くしていたのですが、そういう特徴の定義付けの言葉にあてはめられて、なんだそうかだからなのかと少し安心したような気持ちになったのも事実なのです。 それで私が現在、本当に問題だなと感じていることは、レッテルを貼ることで、よけいにそういう言葉でくくって排除に働いたり、また言い訳しているにすぎないと見たり、そういう特徴を逆側から見ての改善を強いるような動きに働きすぎて余計に追い詰めたりと本当にまだまだ、いろいろ混乱しているということです。ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 支援団体というものがありながら、なぜか被支援者を蚊帳の外において支援者の支援にしか働いていないのかとか、なかなかまだまだこの問題は深いものがあるわけです。
その他の回答 (45)
- aeromakki
- ベストアンサー率36% (870/2378)
回答というより素朴な疑問ですが、 今までASと診断を受けている、あるいは疑いがあるとされている人々に 実際に面前で、何人に会われたことがありますか? 会うということは、症状について客観的に語るのであるならば、 直接対話をしたことがなければ会ったと判断することはできませんが...。 私は実際に30人以上、会ったことがありますが...。 イメージと実像は全く別物であり、 存在は観念ではないんです...。 ストレス障害は、そんなに楽なものではありませんよ?
お礼
あぁ そうなのですか。 aeromakki さん ご回答をありがとうございます。 そうですね。まづ 先だってここでアスペルガーの質問があって それを読んだ程度です。まるで《観念》から入ったものです。 ★ ストレス障害は、そんなに楽なものではありませんよ? ☆ この一文には ふたつの側面があると思います。《観念》から入って観念でその障害について考えようとしていることは それじたいについていったいどう考えた結果であるのか? という普通に解釈して得られる側面がひとつ。 もつひとつは 知らない第三者はだまっていなさい それがいちばん思いやりのある態度ですよという含みの側面です。 さてこの質問は 上の二つ目の側面について もしその障害の原因が 社会――つまりその成員としての人びと一人ひとり――にあると仮定するなら どういうことが考えられるか? ここから出発しています。 もっぱらの公民としてのアマテラスとその独特の方言とも言うべきアマテラス語法――すなわち みづからの無謬性を前提として 市民スサノヲに対して 最終的には《飲め。われわれの言うところを飲め》とホンネでは言っている語法――に原因がある。こういう仮説を提示して 見解をうかがっています。 この質問の仕方あるいは仮説の中味 これらについて批判されているのかどうか これがまだ はっきりしません。批判は大いに歓迎ですが どっちつかずですと 対処のしようがありません。 そのあたりを明らかにして再度投稿を寄せていただけますか? どうでしょう。 あるいは もっとざっくばらんに おまえに何がわかるんだ? ということでしたら ここで言って来ている《アース役》は もううん十年も引き受けて来ていますから ちょっとやそっとで 障害にまでなるんぢゃねえよ! とお返ししたいですね。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
おはようございます。ブロジェンヌさんが神道にこだわるのは学問的に興味があるからだとは思いますが。私の見解では、日本人は他の国と違って、無宗教的な人がむしろ多いと思います。宗教は祭事に利用しているだけという人がほとんどではないでしょうか。 しかし、戦前の教育に国学は、影響を及ぼしていたと思います。それがいまの教育にまで及んでいるかというと、ちょっと疑問符ですが。 哲学科の学生なら本居宣長などそっちの哲学思想がどういうものかは知っているのかもしれません。私は日本人でありながら、勉強不足です。 しかし、他の国では多民族国家という理由から、宗教は中央集権的な役割や治安維持の為の道徳的にも働いているのだと思います。 それで、現在の日本ではどうかというと、閉鎖的で和を重んじるアイデンティティーは江戸時代の「5人組制度」にあるのではという考えに昨晩至りました。つまり連帯責任という考え方です。どうも司馬遼太郎さんがそう分析しているようです。それが道徳的役割を果たしていると思います。 また縦社会についてですが、これは突き詰めると動物本能的なものではという結論になります。お猿さんとか見ると分かりますよね。 これは、本能的なものですから心理学になると思います。これも、いろいろ実験されているようですが、社会が閉鎖的になるほど、この本能はエスカレートする様です。それで日本は「5人組制度」の「和」が閉鎖的にマイナスに働きいじめなどの問題がエスカレートしてしまうという結論です。 教育という観点から、現在どういう問題があるのかと考えると、まず、モンスターペアレントについては、「師に教えを請う」という感覚の欠如だと考えています。これは、先の回答でも答えましたが、まず思考するということはどういうことかに立ち返ると、やはりこの部分は大事な部分だと思います。 しかし、その反対側の局面にも問題があると一方では考えます。これが主体的に考えるとか、主体的に問うて学ぶという感覚の欠如です。これも、いったん思考するとか分かるとは何かと考えると、結局は自分が主体的に分からなければ分からないのだから、という風に導けると思います。 この両極は教育にはバランス良く必要だと思います。 社会においても、上司に教えを請うという面と、いいアイデアを下から積極的に挙げることにより会社に貢献するというバランスが必要ということと同じだと思います。 で現在はどっちにゆがんでいるのかなと考えると、前者ではないかなと考えています。格差社会と景気停滞についていっても間違いなく前者だと思います。 また現在の教育の問題に戻りますが、私の住んでいる自治体でいうと、内申点の重視が問題だと考えています。依怙贔屓という問題ですね。これはやはり「5人組制度」に通じるものがあると思います。この解決策としては、テストの結果を重要視することにより解決できると思います。内申点という思惑をいれずに中学のテスト結果そのままの状況を受験する高校に渡して、高校受験も共通一次のように実力にこだわれば解決できるわけです。そうすれば、波動方程式がやりたくてもやれなかったなという悔いが残らない訳です。中学や高校では、無理やり足踏みさせられている人が結構多い訳です。それで隠居状態に陥ってやる気が無くなってしまうわけです。だから大学受験でのどんでん返しも結構多いわけですね。ちなみに私のとても身近な人は理系の国立大学ですが、あまり大したことない気がします。 私自身は中卒にしてあとは家で本でも読んでるのが性にあってたのかなと今は思っています。 ちょっとまた本題からずれてしまいましたが、要するに何事も両極を睨んで中道を行くことが大切かなと最近考えています。
お礼
☆ 宗教は過去の遺物です。個人にとっての信仰は 一般に人びとの社会的な交通においては 背面にしりぞく。正当にも自由に顔を 一般には 出さない。それでこそ ふつうのまともな信仰である。 (ま 世界のほかの事例と比べたり あるいは過去の歴史を分析し解釈するなど そしてまた学問としてなどにおいては 前面に出てくるでしょう。いまわたしは しかるべき事柄については 信仰をうんぬんしていますね)。 オホタタネコが オホモノヌシという神の聖霊が生んだ人間であるというのは 古事記が記しているところです。ですが 実際は 三輪山に祀られているのは 蛇であるかも分かりません。蛇のことを長ものとも言いますから。ですが これは仮りの姿 偶像だというわけです。ヒトコトヌシという別の顔もあります。 《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離(ことさか または 言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》 と名乗ったと出て来ます。その神の子が 人間になったオホタタネコだというものです。おもしろいでしょ? ただしこれは ここまでの愛嬌の話です。 むろんキツネ憑きも――稲荷神社をつくったわけですから――あったかも知れません。ですが このスサノヲらのムラムラのまつりの基礎にある《無宗教》の信仰は どこまで行っても 極論には走らないことが出来る中道のものではないですか? 誇ってもいいのではないですか? ムラの神社を復興させたからと言って やれ八紘一宇だのやれシントウ十字軍だのとはもうならないでしょう。 個人が主体であり ムラ(市町村)が第一次かつ第一位の主体である。したがって国はこれらに従属する。という社会を――もちろん 世界史的に――確立している方向が望まれます。ムラムラは みづからの次元で互いに力を合わせて 共同自治としても経済的・文化的にも あゆむという舞台があたらしく用意されていると考えます。 Inter-mura-ism
補足
ハートマインドさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 互いにゆづりませんね。 このくらいやり取りを重ねてくると わたしもそろそろ本性(ほんしょう)を出しましょうか。というよりも わたしはいつも感情丸出しなのですが 初めての方とはおとなしく話すようにしているのかも知れません。ま 議論の筋や主題そのものによっても違ってくるでしょうが。 はてさて まづ ★ 要するに何事も両極を睨んで中道を行くことが大切かなと最近考えています。 ☆ ここでは この中道を見失うほどに アース役を引き受けたことの後遺症が残る場合を問題にするべきです。えっへん。そうでしょ? 中庸・中道などという無難な結論を出してくるようぢゃ 隣り組のスパイがこわいのだと言われても 返す言葉がないでしょう。――あぁ そろそろエンジンがかかってきた。いぢわる大好き 口の悪さは 日本で二番目。 ★ 「5人組制度」 ☆ はその成員どうしは ヨコの関係ですが それがなぜ何のためにつくられたか? とうぜん タテの関係を保守するためです。もちろん いくら《 A‐S 逆立連関》というように社会のタテの人間関係がゆがんだものであっても その場の秩序というものも それとして大切です。ですから われわれは反体制を掲げるものではありません。 ヨコの関係として潮の満ちるように むしろアース役の役者が満ち溢れいよいようまくそのゴミ処理をこなして行けることを図り その力で アマテラスお二階さんたちには みづからこころも人格も癒やされて スサノヲ魂をも取り戻すようにと願っています。 そのあたりで 社会のどんでん返しが起きることでしょう。 これは 自然史に逆らっていないという確信がありますが 自然にそのようになるというものではないでしょう。人間の意志のはたらきをつうじて 成るというものだと思います。 ★ ブロジェンヌさんが神道にこだわるのは学問的に興味があるからだとは思いますが。 ☆ 上に述べたようなことを考えるために日本の特に古代史をやろうと思い立っただけです。学者・研究者のタイプではありません。 その思い立つまでは うちのおやぢが 飛鳥から山の辺の道まで 箸墓古墳から高松塚古墳まで それはそれは きょうはここへ行って来た あすはどこだと吹聴していました。ですから 日本人とその社会を知ろうとして どうも古代日本人の歴史がよさそうだと思ってから勉強しただけです。 ★ 私の見解では、日本人は他の国と違って、無宗教的な人がむしろ多いと思います。宗教は祭事に利用しているだけという人がほとんどではないでしょうか。 ☆ 信仰は非思考であり 有神論を立てようが無神論と言おうが どちらも同じこと。集団としての宗教は 個人の信仰の自殺行為であり 犯罪行為であるということ。いわゆる無宗教というのは 非思考としての信仰をまともに考えたことがないだけ。というふうに これまで問うて来ております。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、戦前の教育に国学は、影響を及ぼしていたと思います。それがいまの教育にまで及んでいるかというと、ちょっと疑問符ですが。 哲学科の学生なら本居宣長などそっちの哲学思想がどういうものかは知っているのかもしれません。私は日本人でありながら、勉強不足です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ムラの神社の神殿には 何の偶像神もありませんよ。奥の森や山が言ってみれば神です。――ただし 伊勢神宮にその典型が見られるように もともとのムラのまつりとしての神社は そこでは外宮となっています。内宮が 国家のまつりごとの神社です。つまりヨコとタテのそれぞれの関係がおさめられています。 明治の国家神道は 宗教です。はじめのムラムラの個人の信仰を土台にしてはいるでしょうが 明らかに集団としての――それもお二階さんがつくった――宗教です。 《あはっ》――これが シントウの信仰の核です。わ(我)→われ おの(己)→おのれというように あはれ(哀れ・憐れ) そして あっぱれ(天晴れ)が出来ています。はじめの《あはっ》は 言ってみればさとったその瞬間でしょう。これを称して 《もののあはれ》あるいは《随神(かんながら)の道》と言います。それだけの哲学であり信仰なのだと考えます。 《わび・さび》はすでに出て来ましたね。ということは 《だけ》ではなく 発展があるようです。 ★ しかし、他の国では多民族国家という理由から、宗教は中央集権的な役割や治安維持の為の道徳的にも働いているのだと思います。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 医療が社会との関係抜きには語れないことを明確にした もちろん、仰るとおりかと存じます。 > 《生体放射》という用語も知りました。ただヱブではなかなかいい情報が得られません。 愚生の方でも、検索してみましたが、余り情報は得られませんでした。以下のサイトに学会、シンポジウム、および書籍(山本幹男等著「潜在脳力の科学」)の紹介がございましたが、やはり、行き詰まっているようにも見受けられました(下記アドレスをご参照くださいませ)。 http://www.soc.nii.ac.jp/islis/sjis/islis.htm > 人間のあいだでこのような作用は起こりませんか? たとえば以心伝心というときにでも 電気信号は放射しあっていませんか? 確かに、かような”放射”は目に見えるものではないかと思われますが、それとなく感じられるものかも知れません。 > 問題は もしスサノヲにえこひいきするならば アマテラスがかれに対してまるで取り合わなかったこと――人間扱いしなかったこと――にあるのではないか。 刑法39条におきまして、むしろ”人権派”といわれる人達が、この39条に反対しているという話を聞きました。つまり、障害者といえども、健常人と同じように、”裁かれる権利”があって然るべきだ。 つまり、「人間としてきちっと取り扱え」 というものでございます。 上記内容を想起した次第でございます。 刑法第39条;心神喪失者の行為は、罰しない。 2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する > ドーパミン仮説にしても もしなおそういう事実があるとするなら そのドーパミンの過剰という事態は あくまで電気信号の放射を受けまたあたかも相手の人格を引き受けたその結果として起こると見るのであって 初めにドーパミンが現象して症状が現われるという順序ではないだろうと踏んでのわたしの仮説です。 興味深い説、どうもありがとうございました。「病気の発症は”周りの環境”によって、引き起こされる」という通説からも、頷けるところがございます。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 生体電気信号――まだまだ残念ながら 道遠しというところですね。 ありがとうございました。 念のために 確認したいと思うのですが ★ 「病気の発症は”周りの環境”によって、引き起こされる」 ☆ このとき その周りにいる相手のことをこちらが引き受けるということ――何かことが起こっても 自分の能力の及ぶ限りで 引き受け続けるということ(つまり 関係の絶対性ですね)―― これによって 互いに同じような生体電気信号の動きになる。仮説としてこう見る点は 強調しておきたいとは思います。 あるいはもう一点。でしたら 空気を読むというその空気とは どういう科学的な事態なのでしょう? まだ直接にことばによって表現されていないときに その空気の内容を読むというのは どうなのでしょう? 変なことを言ってはいけないであるとか 話の方向が違うであるとかなら まだ分かりやすいのですが これこれのことを誰だれが思っているということを――やはり以心伝心ですが――分かるのは どうしてか。 つまりミラー・ニューロン活性化中というのは 現実だと見ようとしています。保留としておきたいと思います。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
縄文土器の意匠性についてですが、確かに古代人作ったものなので、形而上学的なデザインと見るのが正しい見かただと思いますが、ただそのデザインの連続性なり、生活の対応としての合理的なデザインとしてみたらそこには何らかの計算があるわけです。前衛的な芸術にも何らかの知的な計算があるというのが私の見解です。 ですので歴史が自分の思考に関係しているということは、否定できません。なので、社会ができて、交信の為の言語なりができ、思考が生まれたというのが自然な考えかと思います。 ただ、ここで忘れていけないのは、それと現代の問題とは関連させながらも切り離してもう少し慎重に議論する必要があるということです。
補足
そうですね。もう少しわたしの考えが及ぶところまで大胆に厚かましくも進めてみましょうか。 ご回答をありがとうございます。 古事記はむろん弥生時代も過ぎ古墳時代も終えて 中央集権制が成ってから出来た(712年)ものですが その中には 歌が日本語に対応した文字(いわゆる万葉仮名)で書かれているので それらはかなり古い時代の《会話ないし文》であると考えられます。 早速にたとえば ▲ (古事記:イザナキとイザナミの結婚) ~~~~~~~~~~~~ 伊邪那美の命 先づ言ふ 阿那迩夜志 愛(上)袁登古袁【此十字以音 下效此】 あなにやし え をとこ を。 後 伊邪那岐の命 言ふ 阿那迩夜志 愛(上)袁登賣袁。 あなにやし え をとめ を。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《え をとこ /え をとめ》:《よき男 /よき少女》が知的な認識としては骨子だと思います。互いに相手を褒めあっています。 あとは いわゆる感動詞ではないでしょうか。 ・あな:ああ ・に:その一点として捉えたものを受ける二格。一般に場所格の二。したがって 《あな‐に》というのは 《ああ ほんとうに》の意。 ・やし:ヤは ヨとともに 呼びかけ。シは 肯定を表わす感動詞。状態用言(形容詞)の形成に用いられる。如何が→如何が‐は→如何がは‐し=如何わしい。 ☆ 問題は 末尾のヲです。 ▲ (古事記:スサノヲのイヅモでの結婚) ~~~~~~~~~~ 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここにも出てくるヲです。たとえば ○ 道ヲ行く / 空ヲ飛ぶ ☆ と言います。論理的な文法に従うならば いわゆる対格(目的格)の用法を持つ格活用(助詞)です。道ヲつくる / 空ヲ見る。 ですが たぶん こうではないでしょうか? すなわち話し手がいま目の前に向き合っているヒトないしモノあるいはその場の全体を指し示す言葉であると。全体というのは 話し手もその人格の全体で相い向かい合っている。 ちなみにそのヲが示す対象の中で どこか一点を取り出すなら 二格となる。 ○ 道の先二何かがある / 空の下二何かが見える ☆ 八重垣をのヲは その結果 それを希求しているという話し手の意図をも表わすのではないかと考えます。だったら 《えをとこヲ /えをとめヲ》のそれも 同じように捉えることができると考えます。ま こちらは 呼びかけまでの意味あいでしょうが。 ★ ただそのデザインの連続性なり、生活の対応としての合理的なデザインとしてみたらそこには何らかの計算があるわけです。 ☆ と見られるほどに おそらく《はからい》はあると考えます。いわゆる人間の自由意志とそのはたらきとしてです。でもその現われ方は まだ素朴であった。と言えるかも知れない。つまりは ★ なので、社会ができて、交信の為の言語なりができ、思考が生まれたというのが自然な考えかと思います。 ☆ という歴史の初めからの連続性を見るか それともその中に段階を捉えて分けて見るかの違いだと思いますが どうでしょう? ヨリという原始心性から そのあたかも呪縛が解けて歴史にめざめ そのイリ歴史知性として顕在的に立ち現われたというふたつの段階を見るかどうかだというふうにです。 * わたしの嫌いなM.ヱ―バーは 《呪術の園 Zaubergarten 》とかそして次の段階としての《呪術からの解放 Entzauberung 》という捉え方をいていたと思います。 * ここで減らず口をたたきたくなりました。仏教をめぐっていまだに 無我・空・悟り・無私うんぬんなる概念のもとにこの《魔法の園》に遊んでいる投稿がここで如何に多いことか。ブッダの魔術にその限りでみながイカレテいます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 統合失調症について (1)遺伝性 遺伝する“素因”はある とうのが定説のようでございます。片親が統合失調症の場合、子供の発病率は約10%。因みに、一般人では、約1%だそうです。また、養子研究からも(環境の因子を除去できます)、片親が統合失調症の場合、子供の発病率は約10%だそうです。 一方、一卵生双生児の場合では、片方が発病すると、もう片方が発病する率は40から60%だそうです。しかし、逆に言いますと、遺伝子が全く同じにも関わらず、発病しない人も40から60%いることから、必ずしも、遺伝のみで解決できるものではないことも明らかです。おそらく、“素因(かかりやすくなる要因)”は遺伝するかもしれませんが、必ずしも発病するとは限らないため、“環境”の要因もあろうかと考えられています。 http://www.cmh.ne.jp/mdisease/schizo.html からです。Wikipediaよりも詳細に述べられていました (2)原因 ドーパミン仮説等の仮説は多く出ているようでございますが、決定的なものは判明していないようです。 (3)一般的な予後 「データとしては、統合失調症の方が服薬を中断すると2年間で8割ぐらいの方が再発しますというデータだけはきちっとあるんです。 ~中略~ 再発するとその度に階段状に社会的な予後が悪くなることも目の当たりにしていますので、そういうふうにお勧めするわけですね。」 http://jpop-voice.jp/schizophrenia/i/0907/05.html からでございます。 (4)他国の例(イタリア) イタリアでは、20世紀末、精神病棟が廃絶されました。 大熊一夫著「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」からでございます。 また、イタリアでの改革後、精神病院のあり方を問うたことは、日本にもございました。 著者:阿部 あかね「1970年代日本の精神医療改革運動に与えた「反精神医学」の影響」と題した論文では、以下の記述が見られました。 「6、むすび 結果として、その後世界的にも、また大きな関心を集めた日本でも“反精神医学”は衰退していった。「精神分裂病は存在しない、だから精神病院は要らない」とする“反精神医学”の主張のとおりにはならなかった。日本の多くの精神科医たちが問題にした、精神病院に患者を拘束しているという現実への改善策には結びつかなかったからである。そして、結果とすれば、反対派の秋元が述べたように「精神医療と精神病院の中身の改善」の方向に向かったといえるだろう。しかし、一方で精神障害者を取り巻く社会的要因の存在への着眼点を得たこと、すなわち医学側から社会をまなざし、「精神病」というレッテルを貼られること名づけられることで病者がこうむる「害悪」への視点、そして医療が社会との関係抜きには語れないことを明確にした点では、“反精神医学”の成果ともいえるであろう。」 (tp://www.arsvi.com/2000/0909aa.htmからです。最初に、”ht”を追加してくださいませ) しかし、時が経ちますと、上記“反精神医学”も大きな壁にぶつかることになります。一部の特異な人格障害や妄想絡みの殺人事件、およびそれを取り上げたメディアの影響から(つい最近”劇場型政治“という言葉がはやりましたが、さも深刻そうな顔して、事件を解説している”劇場型犯罪“なるものが生まれてきたのかもしれません)、つまり、「自分は絶対発病しないという根拠のない確信」をも手伝って、「キチガイは危険」→「殺人予備軍」→「精神障害者をきっちり管理しないといけない」そして、という脈略の中で…… ですが、統計上は上記固定概念を否定しています。つまり、必ずしも精神障害者の犯罪率が高いという証拠はないようなのです。 (tp://plaza.rakuten.co.jp/basala/diary/200901240000/ 最初に、”ht”を追加してくださいませ) 現在の日本国は、かような「精神障害者は犯罪予備軍である」という捉え方の下、不可解な法をつくり始めているのかもしれない(例えば、“心神喪失者医療観察法”の改正;以下をご参照ください)と そう考えさせられた次第でございます。 http://www.news.janjan.jp/living/0503/0503295090/1.php 次回は、“自閉症”、“アスペルがー“について、ご報告したいと思っております。 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 新しいことを思いつきました。 ▲ 医療が社会との関係抜きには語れないことを明確にした ☆ この社会関係の線でわたしたちも考えているのだと思いますが その仮称アマテラス風邪は 意識の排泄というほどに 《生体電気信号》とかかわりがあるのではないか? これです。 《生体放射》という用語も知りました。ただヱブではなかなかいい情報が得られません。 人間のあいだでこのような作用は起こりませんか? たとえば以心伝心というときにでも 電気信号は放射しあっていませんか? なぜアマテラス風邪というかを 説明します。 スサノヲは 父イザナキノミコトから命じられた海原の統治(たぶん 死者の祀り)を嫌って ひげが胸先に伸びるまでに泣いていたと言います。 くわしいいきさつを端折って スサノヲは 姉のアマテラスの統治するこの世で 大暴れします。反逆児です。さすがのスサノヲも もう この国には住むまい 今は亡き母の国にいこうと言い出し その暇乞いに アマテラスに挨拶に行こうとしたとき 姉は 弟を疑いました。きっとかれは わたしの統治するこの国を奪いにやってくるに違いないというわけです。 要するにこのあと スサノヲは アマテラスの疑いを晴らし切れなかった。人知と人力では どうにもならなかった。アリバイの実証は むつかしい。罰金を課され 爪をはがされ そのまま国を追いやられました。 このあとこのとき――かれは イヅモの国にたどりつくのですが そこで ひとの心に触れたとき―― すがすがしき心になって 我れに還ったという話です。 ところで まつりごとの主宰者アマテラスの前に 《国盗り》の疑いを晴らせずにいたとき――つまり アマテラスが容赦なく 吾(あ)がなせ(弟)のミコトの上り来ますゆゑは 必ず善き心には あらじ。わが国を奪はむとおもほすにこそ。 と言って疑い続けたとき―― かれはしたい放題の悪事をはたらきました。 しかもその暴れる前には アマテラスと《うけひ(誓い)》によって勝負をすることになります。おのおの子を産むという話で中味はよく分からないのですが これにスサノヲは勝ったのです。アマテラスもこれを認めました。 ところが どういうわけか スサノヲは勝ちに乗じて悪事をはたらきます。田の畔を壊す・溝を埋める・宮殿に糞をして散らすことをした。 それに対してアマテラスは それぞれわけがあってやったことだろうと周囲にも言ってとがめなかった。 そこで《なほその悪しき態(わざ)止まず》でした。 アマテラスの着物を織る服屋(はたや)の天井を破ってそこから 皮を剥いだ馬を投げ込んだと言います。《服織り女が見驚きて 梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき》だそうです。 ここで例の天の岩屋戸にアマテラスが身を隠すという事態になります。アメノウズメのストリップ・ショーになります。 問題は もしスサノヲにえこひいきするならば アマテラスがかれに対してまるで取り合わなかったこと――人間扱いしなかったこと――にあるのではないか。勝負をするとかして途中までは話に乗るのですが 最終的には よきに計らえであって 自分のこころを示さない。もしくはこころを示したとするならば 疑うの一点張りである。 このやり取りのいきさつにおいて 互いに生体電気信号を活発にしたであろうし もしかしたらこれを相手に放射したのではなかろうか? どちらが毒気が多いか。――いづれにしても スサノヲは こんな能面みたいな人間はいない しかも我が姉である いったいこれはどうしたことかと最大限にいぶかったし怒っただろうと思います。 その狂いきちがい沙汰は もしかしたら感染したゆえかも知れません。アース役を引き受けたという解釈です。 さいわいこのように悪事をはたらくという反応は このスサノヲ一代で済みました。あとはおとなしくなりました。それでかどうか 子孫のオホクニヌシは アマテラス国からの服属要求があったときには――はじめのあいだ のらりくらりとあしらっていましたが―― くにゆづりをすることにしました。 * ドーパミン仮説にしても もしなおそういう事実があるとするなら そのドーパミンの過剰という事態は あくまで電気信号の放射を受けまたあたかも相手の人格を引き受けたその結果として起こると見るのであって 初めにドーパミンが現象して症状が現われるという順序ではないだろうと踏んでのわたしの仮説です。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
まず、われとわれわれについての認識の仕方ですが、私の認識においては、まず「われ」が先かなと、つまりそっちが原始的な認識かなと考えています。その後に「われわれ」つまり社会の認識と考えています。先の回答にも答えたかもしれませんが。まず言語の習得や論理的思考はなぜできるのかと考えると、結局は先人の知恵を自分のものにしている、つまり「分かった」という行為に過ぎないわけです。社会でものを考えているわけです。日本人の主体性のなさというのはひっくり返して考えると、主体性のない行動は主体的に導く気づきになるとも言えると思います。’礼に始まり礼に終わる’の様にまず、先人の知恵をかりて形にこだわってやってみようという主体性を借りているわけです。人間が考えるという原点も結局これなわけです。’郷に入れば郷に従え’もそんな風に考えてみると主体性のなさは主体性を促しているわけです。 日本の縦社会をプラスに働くと考えるといいわけです。 また、こうなっちゃいました。裏があれば面があるということです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ まず、われとわれわれについての認識の仕方ですが、私の認識においては、まず「われ」が先かなと、つまりそっちが原始的な認識かなと考えています。その後に「われわれ」つまり社会の認識と考えています。・・・裏(* マイナス)があれば面(* 表=プラス)があるということです。 ☆ これは おおむねそうであったろうとわたしも考えます。ただし ★ まず言語の習得や論理的思考はなぜできるのかと考えると、結局は先人の知恵を自分のものにしている、つまり「分かった」という行為に過ぎないわけです。 ☆ をはじめの大前提に持ってくることには消極的です。なぜなら たとえば縄文土器を見てください。火炎のような意匠のものですが あれは 《分かった》という悟性だか理性だか知りませんがの側面での精神によって成ったとは思えません。 まぁ その土器を作り上げた感性やら美学やらと並んで知性があってもよいとは思いますが この歴史的な・つまり時間経過を知るところの・つまりヒトは――長い眠りに就くのではなく――死ぬのだ・だから時間的存在であると知ったあとの知性では まだ無いように思うのです。 じっさい記紀にも 墓(古墳ですね)を火をともして見に行ったところ 蛆が湧いて身体をどうすることも出来なかったとあります。これは 甕棺に入れて埋葬するころのことではなく 竪穴式か横穴式かの古墳(そういう部屋をつくったもの)での話だと考えられます。 卑弥呼の時代(三世紀)は もはや縄文時代でないどころか弥生時代も終わろうとする頃ですが 歴史知性の《イリ》は その少しあとの三百年ころの崇神ミマキイリヒコのときに確立したと考えるのです。 そのときから名前に《イリ》が多く用いられ その前では《ヨリ》が多いのです。 つまり 卑弥呼の時代にもなれば このイリ歴史知性は 芽生えていたと言うべきかとたしかに思います。芽生えていたからこそ 崇神イリヒコのときに これをやがてはっきりと自覚するようになったと言えるだろうからです。 ま でもわたしは専門ではないので さらに明らかになることを望みます。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
おはようございます。奥田会長はメディア革命に賛成した人です。革命は結局おこりませんでしたが。 まず現在のメディアの問題についてですが、日本のメディアの始まりは江戸時代の’かわら版’です。世の中の不条理をあきらかにする役割です。日本のテレビメディアも少し前は情報番組で左側のジャーナリストの意見が世の中を切ってきました。当然と言えば当然なのです。なぜなら、社会におかしいんじゃない?っていうのがメディアであるとするならば結局はそれが健全なのです。ですが、現在の状況では、かなりのジャーナリストが右側の意見を言っています。この状況はいかに企業とメディアが結託してしまったかを表しています。この辺、結構面白いと思いませんか。 今度は縦社会についての見解ですが、日本人は縦社会が結構得意だったという歴史があります。魏志倭人伝からですが、弥生時代の様子は日本人の特質として権力者に従順で治安も安定していたとあります。 また時代は変わりますが、タウンゼント・ハリスが日本にキリスト教を布教して文明国にし幸福にしたいという宗教的使命感からおとづれたわけですが、富者も貧者もなく、生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足が、日本の顕著な姿であったとあります。そしてはからずともこの極東の蛮国と思っていた為にキリスト教価値観が大きく揺さぶられてしまったという事実があります。 この辺から縦社会が得意だったのかなと推測します。 また島国で単一民族という切り口から見てみると、外から来る異文化を異文化としてポジティブに取り入れて自分のものに改良して利用するという面と、内なる異文化を極端に嫌い「和」を乱すものとして、村八分にするという面があると思います。ここに日本人の閉鎖性、主体性のなさがあり、逆にプラスに見ると、きめ細やかさ、従順性、気配りにつながっているのではと考えています。 ここの部分のマイナス面をどう打破するかが鍵となると思います。そうしないと、内部から斬新性や革新性のあるいいアイデアが浮かんでも、採用されず、結局、青色発光ダイオードみたいになってしまうわけです。日本て逆輸入って結構多いんですね。 神話はあまり詳しくないので日本人のアイデンティティーと歴史からですが、参考になりましたでしょうか。
お礼
中根千枝の著書から対談また反論などけっこう――大昔ですが――読んでいるのに さだかなかたちを いまわたしの中に残していません。どうしたことか。 分かっていることは ○ ひとの持つ広い意味での資格によるのではなく ただその居合わせる場を共有するということによって まとまりを持ち たとえばそのウチとソト(またヨソ)という分け方を何ごとにつけても おこなう。 ☆ であり 問題はこれが 上下関係 しかも特に公民アマテラスと市民スサノヲとの《まなざし関係》にどうかかわっているのか? です。 ただちに答えの用意がありません。つまり heartmind さんがおっしゃる日本社会の特徴と そしてこの《A(アマテラス)‐S(スサノヲ)の逆立連関関係》としての情況とが 重なるところもあるでしょうし 視座が別であるようにも思うのです。 たとえばこういう印象を述べてみます。 同じ大学の出身であることによって《同じ場を共有する仲間》であると互いに思っている二人の人間が 片や政治家もしくは官僚であり 片や民間の会社員であった場合。焦点は 一方のアマテラスが 社会をタテ割りした同じひとつの言わば円筒の中にいる他方のスサノヲに対して その《A‐S》の逆立ち連関の力を緩めるかどうかにあるでしょう。 その言葉使いは 非常にやさしい言いまわしになるでしょうが その権限の行使に関しては まったくゆづることはない。のではないでしょうか? さもなければ ふたりは互いにくるんで互いの私益の追求に走るでしょう。 国家という社会形態は 世界において《 A‐S 逆立連関制》を採るのは 一般的だと言っていいと思います。つまり民主主義は スサノヲ市民とその社会が 身体であり頭であり基礎であるとうたっていますが それはただ アマテラス公民が選挙による代表であるというタテマエによってのみ保障されています。つまり実態としては 逆立ちしていると考えます。なんで上からそのまなざしをそそがなければならないか? このひとつのことを取りあげても 逆立ちをしています。公僕が聞いてあきれます。 でも考えてみると いまだに印籠を差し出せば ははぁと言ってかしこまる事態を人びとは迎えています。《逆立ち》の世の中が長かったゆえでしょうか? それとタテ社会と どういうふうに絡むか? まだ定見を持てません。どうでしょうか?
補足
heartmind さん お早うございます。また週が明けました。張り切って ただし一歩一歩あゆんでまいりたいと思います。 ご回答をありがとうございます。 今回は 《タテ社会》の主題についてですが これは さらにくわしい研究成果を得たいと――失礼になるかも知れませんが―― 思いました。 まづ メディアのほうですが ★ ですが、現在の状況では、かなりのジャーナリストが右側の意見を言っています。この状況はいかに企業とメディアが結託してしまったかを表しています。この辺、結構面白いと思いませんか。 ☆ 面白いと思いますが これは成るように成るのでしょうね。NHKなどはけっこう真相に迫るドキュメンタリをつくるのではないですか? まぁ民放は どうですかねぇ。――いや それにしても企業も 社会的責任を言うように成っていますから そろそろ変わるのではないでしょうか? それにしても日本人は おとなしいようです。 ▲ (魏志倭人伝) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・その大官を卑狗(ひく⇒日子=彦?)と曰(い)い 副を卑奴母離(ひなもり⇒鄙守?)と曰う。 ・・・ 末盧国・・・伊都国・・・皆女王国に統属す。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とあるかぎりでは (1) いわばアマテラス官職があったということ (2) 都市国家の連合制がすでに成っていたかも知れないということ が考えられますが おそらく王や女王を 人びとは 隣りの家の人間というほどに思うところがまだあったのではないでしょうか? タテマエとしての儀礼はすでに進んでいたのかも知れません。 ▲ (同上) 狗奴国有り。男子を王と為す。その官に狗古智狗(未詳)有り。女王に属せず。 ☆ という事情もあります。 ▲ (同上) 尊卑おのおの差序有り 相い臣服するに足る。 ☆ これにしても わたしは 王や女王にしても 隣りの太郎や花子という感覚を失ってはいないと採っております。 その根拠は ヨリという知性つまり原始心性であったと考えるゆえです。原始心性を突き抜ける者はいなかったという見立てです。シャーマンは 一般にアニミズムの心性をもった人びとのために 我れを離れてトランスと呼ばれる状態に入り神意をうかがうというわけですが これは 人びとにしてみれば そのご託宣にしても あぁそうかという程度のものだったのではないか。そもそも我れを離れるというときの《われ》がまだなかったのではないか? 《われわれ》としての我れだったのではないか。(個としての意識は芽生えていたとは 反面で 思うのですが)。 ★ タウンゼント・ハリス ☆ のお話は面白かったです。じつは知らなかったですし。現代では シャネル日本の社長のフランス人が そういうことを言っていました。(新聞で読みました)。 ★ ・・・内なる異文化を極端に嫌い「和」を乱すものとして、村八分にするという面があると思います。ここに日本人の閉鎖性、主体性のなさがあり、逆にプラスに見ると、きめ細やかさ、従順性、気配りにつながっているのではと考えています。 ☆ このうちの《排除の論理》は そうとう身に刷り込まれているようです。 ★ 外から来る異文化を異文化としてポジティブに取り入れて自分のものに改良して利用するという面 ☆ この特徴の宣揚も 大事でしょうね。 【Q:あなたの抱く《これぞ 日本人》をおしえてください】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3385985.html いくつかの課題を先へ送りつつ。(それぞれの課題について 紙面がなく わたしにたしかな持論があるわけでもありません。おしえていただいた内容をたしかなものにするために 資料や全体としての視点から固めていくことが 望まれると思います)。 (タテ社会について お礼欄で考えます)。
オコリザルです。 > わたしの見るスサノヲの生きる基礎は こうです。《いま・ここなるわたしが すでにわたしであって そのまま過去と未来との時空間に通じている。そのわたしが わたしして生きる》。 将来予測はしてもよいのですが この境地そのものとしては 要らないということです。 そのような見解であれば健全であり文句はありません。 懲りずに弁護です。 あまねく照らすとはひとしく照らすことでもあります。 そうすると俺は得をした、俺は損をしたなどといがみ合うのは平民です。 その点は自由にしないでおせっかいを焼いてくれています。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ あまねく照らすとはひとしく照らすことでもあります。 ☆ これは ふたつの見方があります。 相対的な存在としての人間にとって《絶対》としてあるそのなぞのことを言うのが ひとつです。 もうひとつは 決してその絶対のことではないが 人間も或る程度は 理念としてこの平等という存在のあり方を思うことが出来ます。 つまり 人間の能力として思い描くことができる普遍性と そしてそれを超える普遍性とのふたつです。 ★ そうすると俺は得をした、俺は損をしたなどといがみ合うのは平民です。 / その点は自由にしないでおせっかいを焼いてくれています。 ☆ 同じ人間であるのに 損得の差がある。つまり平等ではない。この状態に対して 1. 人間の能力としての普遍性は この不平等が不当であると認識するならば 出来るだけその差を埋めようとします。 2. 絶対としての普遍性は 何もしません。 ぎゃくに言うなら それつまり簡単に神と言いますが 神は何でもするというふうに おのれの主観において 捉える場合があり得ます。 この主観は 人間の考えとして普遍性があるというかたちにして 説明することが望まれます。認められれば――そのときには 神は背景にしりぞきますが(なぜなら その主観が神との直結を思ったとしても それは 仮りの表象においてそうしただけなのですから)―― 人間の経験的な考えとして成り立ちます。 ですから ★ その点は自由にしないでおせっかいを焼いてくれています。 ☆ これは 主観の問題であり どうとでも言えると思います。言いかえれば 人間の経験合理性において普遍性があると認められないならば その《おせっかい》は 単なる独り善がりだということになります。 こういうところでしょうか?
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
こんにちは、上下関係についての日本の歴史についてですが、 まず縄文時代にはこの関係はあまりなかったと考えられています。集落はありましたが横の関係でした。木の実や狩猟、漁業などを食していました。その平和な時代は1万年も続いています。しかし原始的な農業の導入により、貧富の差ができて縦の関係ができたと考えられます。そして弥生時代へと移行します。日本では支配側と被支配側のはじまりはどうもこのあたりにあると考えられます。神話とはこの辺は少し異なります。しかし神話がつくられた目的も天皇家の神聖性を示すことにより国民支配の正当性を主張する為には変わりはありませんが。 社会が構造的になれば上下の関係は必然だと考えています。 ですのでアスペルガーも確かに社会構造が無ければ、そういう定義も無かったのだと思いますが。私的見解では、だからと言って、人間の文明や文化の発達を否定はしていません。原始的な生活に戻ることがいいとは言えないと考えています。ただ、そういう歪みによる問題は、人間が永遠に解決する問題としてあるのだという認識は必要だと思います。 日本人に限って言えば、近年においてさまざまな問題は、テレビメディア(民放)の発達により企業側の問題が軽視されつづけたことが一番の問題だと思います。企業側の論理や視点だけでさまざまな、モラルの崩壊や犯罪、世界平和の問題がテレビメディアで報道されているに過ぎません。それが企業の弱体化につながり、景気を低迷させている原因であり、もっと根本的には教育、偏見の問題につながっているのです。 だから本当の問題がどこにあるのか一向に見えてこない。現在の保守と呼ばれているのは本当の保守ではありません。企業論理の欺瞞保守なのです。もしアスペルガーが他国に比べて日本人の割合に多いとすれば、この欺瞞保守の国民への洗脳に問題があるわけです。 この問題の解決策はテレビメディアが小さく分割化して、光媒体に有線化して、インターネットと合体し双方化され、媒体の地方や、立場、思想、文化の分散化がされ、企業利益と切り離されなければ解決できないと考えています。そうすることで、本当の民意がメディアに反映され企業の力が取り戻されると思います。 奥田会長はこれを睨んでいたのかなと最近では考えています。
補足
heartmind さん ご回答をありがとうございます。 ★ 奥田会長はこれを睨んでいたのかなと最近では考えています。 ☆ 日本郵政の内外での発言でしょうか? ★ 本当の民意がメディアに反映され企業の力が取り戻されると思います。 ☆ そのための施策ということですね。この目標は分かるのですが それに到る過程について もうひとつまだわたしが飲み込めていません。すでにこの課題については触れておられましたが メディアないし民放の情況 企業の位置づけ・役割 人びとの考えと振る舞い これらについて まだほんとうにはピンと来ていません。自由 ということでは分かるのですが。 ★ 上下関係についての日本の歴史についてですが ☆ 基本的に言って このタテの人間関係にしても ふたつの種類があると思います。 平屋建ての枠内でアマテラス市長とスサノヲ市民との関係ができるのが ひとつ。もうひとつは すでに二階建てに成ったあと 国家のアマテラス政府と 市民スサノヲ一般との――明らかな――上下関係です。 ムラ(市町村)の長 これを市長と呼ぶことにしますが 市長および市の公務員――それとしてのアマテラス種族ですが―― これらと市民一般との上下関係は まだ《まなざしの そそぐ・そそがれ》が薄いのだと考えます。言いかえると 市長は 市民一般が住む平屋建ての家の中におさまるのではないかと考えるのです。 ★ そして弥生時代へと移行します。日本では支配側と被支配側のはじまりはどうもこのあたりにあると考えられます。 ☆ すでに卑弥呼は あたかも王として立てられ 衆を惑わすと言われるように 支配・被支配としての上下関係が出来ていたかも知れません。シャーマンとして 原始心性なる人びとの上に君臨していたのかも知れません。ただ 次の女王の台与は 衆議によって共立されたとも言います。 ですから まだ経済的ならびに政治的な格差は 決定的な段階には到っていないというように考えます。 この原始心性が 一たん解けました。《わたしがわたしである》という自己到来つまり《イリ》の歴史知性を そのあと獲得します。 そうして 市長や市の職員が それとしての《アマテラス公民》というかたちで選ばれました。しかも これはまだ 社会が平屋建てだったのではないかとも捉えたいと思います。 ムラムラの《まつり》が あくまで主体でありつづけたのではないかと考えられるからです。 ですからこの各地の《まつり》を上から――つまりあるいは 人びと一般から突出して 徳と識見においてアマアガリしたと言うべき超歴史知性となって 上から――たばねるという事態が現われて初めて 二階建てになったのだと捉えたいと思うのです。 イリなる歴史知性の中から 公民として市長としてたしかに《アマテラス》が出た。けれどもそれは 市民スサノヲと いわば一体であった。 ところが イリ歴史知性じたいを ヨセなる超歴史知性に変身させて 各地の《市長および市民》の市民政府を さらに上から――ニ階から――国家としての政府において寄せて束ねるというあらたな事態が現われた。 こうなると かれらスーパーアマテラスからのまなざしは つねに絶対的に上からそそがれる。これが固定する。 こういう歴史であり情況であるのではないかと思います。どうでしょう?
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
こんにちは、私自身は神道や国学に本当に明るくありませんから、何なんですけど。 まずそういうものは、ギリシャ神話みたいなものと結構近いものがあって、そんなに押しつけがましいものではないということは言えるのかと思います。どっちかっていうと神話は日本人の世界観という風に捉えたほうがいいと思います。 ただ、日本人のアイデンティティーを見つめなおすことには有効かとも一方では考えます。 まず風土からいっても、日本は自然を厳しいものとして対峙するよりもそれを恵みとして一体感として捉えていた訳です。建築を見ても西洋との違いはそれは明らかです。(五重塔のやわらかな地震に反応する構造は高層ビルに応用されています。) そこから神の認識もアニミズムつまりあらゆるものに宿るという発想があるわけです。 「高き直き心」とか「もののあはれ」とか、なんか裏と面が、やわらかにうけいれられている感じがしませんか。 もともとは押さえつけるものではなく、やわらかに多様なものを合理的にとりいれる「和」という発想だと思うのですね。 二枚舌ともそれは関連あると思います。慇懃無礼なんて言葉もあるように、確かに、裏と表の存在をそのまま受け入れていると思いますが、案外それが歴史上はしたたかに働いていたと思うのですが。 どうでしょう、浅いでしょうか。
お礼
わたしは 目くじらを立てている感じですか? ま 挑戦者ではありますから 戦闘的であるかも知れません。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「高き直き心」とか「もののあはれ」とか、なんか裏と面が、やわらかにうけいれられている感じがしませんか。 もともとは押さえつけるものではなく、やわらかに多様なものを合理的にとりいれる「和」という発想だと思うのですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おっしゃるとおりだと思いますよ。その意味は まづ前回にも触れようとしたタテとヨコとで人間関係の質が違うと思われることです。 ☆☆ (No.22補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それはおそらく スサノヲ市民として スサノヲどうしの横の関係と アマテラスとの縦の関係とがあるということではないでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですからヨコの関係としては 秋に初穂を祀って あとは――実際にはどんちゃんさわぎなのでしょうが――神々と共食するという《まつり》を持ちました。ところがタテの関係もつくられました。 このムラムラのまつりを 二階から束ねて――実際には 税金でかっさらって行くわけですが――《まつりごと》(宗教=政治)をおこなうというかたちの良くも悪くも共同自治です。 ムラのまつりは 《和》です。素朴にでも和です。けれども――やまとも そのムラのひとつだったのですが―― 二階建てに成ったときからは やまと=大和という表記のかたちを採りました。 大和が和をたばねるのではなく 和が大和を――民主主義として――みちびくのがよい。 こういったところでしょうね。 heartmind さんは ヨコの和の――自然を交えた――人間関係に今回焦点を当てておられる。こういうことではないでしょうか? タテの人間関係というのは そもそも《まなざしをそそぐ / そそがれる》の関係だと考えます。この主題について次は 二件の投稿のやり取りですので 読みやすいと思って 参考にかかげます。 ○ 【Q:フーコーは 人間は権力人だと見たのですか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4877805.html
お礼
ふううむ。わたしは No.36の aeromakki さんに指摘されましたが 何も実地に分かっているものではありません。ましてや何も実際に言えるものでもないのです。――あっ ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですが 勘でしょうか 明らかに《でっちあげ》だと確信しています。量がいわゆる質に変わるときには かなりそれとしての専門の分野という扱いにもなるのだと思います。これに抵抗や批判をするのは たしかにその専門家に自分もなったときです。 ですが わたしには 体験があるのです。明らかにたとえば生体電気信号が 外へ出てひとに向けて発信されたということがです。すでに言ってきたアース役の問題ですが これは相手に確かめていますから 自信があります。 日本人は ちょうど欧米の人たちが挨拶に握手をするのと同じように――ま この握手を同じくするかしないかとは別に―― この電磁波でのやり取りをおこなっているということです。これ自体は 推測ですが 馴染みどうしの場合や初対面の場合などなどで どうも――まなざしをそそぐ・そそがれるという表現をも使いましたが それとも別に と言いますか このまなざしに伴なうかたちでと言ったほうがよいと思いますが―― 電波のやり取りを 時にはライワ゛ルどうしなら火花を散らして たのしんでいるようなのです。 ジャブの応酬といったところでしょうか。―― 一般には 相手と自分とでは 社会的な身分はどちらが上か これを値踏みしているのだと思われます。 ★ 特徴 ☆ これらは このような電波合戦のあと――アース役が決まったあと―― 時とともに(親から子へ)つくられつつ感染もすることがある。こういう認識です。つまり でっちあげです。 《デンパによる握手行為はやめましょう》 これを標語にしたい。こう思います。 ★ ですからいつも感じることですが生きづらさの特徴をもった本人自身が尊厳をもって哲学的な見地において社会を考えて成長することが大切ではないかと考えているわけです。 ☆ これはわたしも肝に銘じます。