悟りに至るのは、一切皆苦という世界を通過して来ます。人間はどうして悩んだり苦しんだりするのだろうか?という事を実際に心に刻んで生きてきています。
例えば死に対する恐怖感等が一番判り易いと思います。その時の心は「永遠の命が欲しい」という自分と「人間は生まれたからには必ず死が待っている」という二つの考えが頭にはあります。
有限の命を永遠の命にする事は出来ない事は解りきっています。この心のジレンマが「人間を悩まし続けてきました」その事が根底にあって、自分自身の存在自体に疑問を抱くようになります。「人間は何処から来て、何処へ行くのか?」という事です。
処が「通過」して時間がたった場合には色々な事が分かってきます。人間の「心」についてです。人間が感じている脳は左脳の意識です。機能から言うならば分別する脳の事です。経験してきた事を記憶していてそれに分析を加えて判断してゆく機能の事です。
人間には分かりにくい事ですが、もう一人の人格が脳の中には存在しています。それは「自我意識」に環境が危険か或いは安心できるのか?という情報を常に流して呉れています。高い処に上がった時には「高くて怖い」を教えています。スピードを出してカーブを曲がる時には、ハラハラさせています。危険が差し迫った時には心臓まで早くしたりできます。納期や期限が迫った時には、差し迫った事をハラハラドキドキしながら教えています。恋人とのデートにはそれらしい気持を沸かせています。
名ばかりの恋人の時には、名ばかりの感激しか与えてはくれません。自分の心をしっかりと見守ってくれている存在の事です。全てを見通している「自分自身の中にある存在」の事です。
その存在は分かりにくい形で人間の中に存在しています。無意識の意識として、或いは潜在意識として存在しています。自我意識と絶えず交代しながら、」毎日が平和に過ぎてゆきます。
処が人間の中には「自分自身に敏感な人」がいます。例えばお釈迦さまや、白隠禅師のような人達です。自分自身の心の矛盾に気がついてその心に矛盾や不安を覚えたり、深い疑問を抱くという事になります。この疑問なが先に書いた疑問という事になります。そして不安も同時に抱くという事になります。
自分が分からなくなる不安という事になります。その答えを探し回るという事になります。ですが自分以外の処を探しても納得のいく答えは見つかりません。何故ならばその問題を提起している者は自分自身であった事が分かります。
自我意識の疑問や悩み、苦しみを作り出していた者が自分自身であった事が分かるからです。自我意識の他のもう一人の自分自身の魂の根源から投げかけられた疑問や、教えが「心に感じていた、疑問や矛盾」という事になります。
言い方を変えたなら「自分自身の命の源の意思」と出会うという事になります。その疑問の中に答えがもう用意されていたという事になります。それは望んでも手に出来ないはずの「永遠の命」からの救いの手であった事を知る事になります。
心の矛盾に苦しんでいました。死ぬ事で全て自分の欲しいものが自分から消えてゆくと思っていました。自分自身を知った事で、もうすでに自分は永遠の存在という事を知ります。体に存在する命よりも「大事なものがあった」という事を知ります。
他の言葉で言うならば、神に在って全ての罪が許された、といっても良いかも知れません。その後は「神の思し召しのままに」という事になります。
救いのない人生に「救いを求めている事が」迷いであった事が分かります。救いのない人生に本当は救いのなかった事が分かります。この事が悟ったという事になります。
つまり自我意識が「本当の自分の命そのものの源の意思」と出会うという事です。自分勝手な脳科学で説明するならば、悩みや苦しみや、心の矛盾とは、左脳の自我意識と、右脳の命の働きの意思との確執が「人間を悩まし続けてきた」という事になります。
自我意識が優位に立って、もう一つの働きを従えようとしてきた事が人間の苦しみのもとになってきたという事です。計らいで生きてきたという事になります。その計らいを捨てて生きてゆくという事になります。
自我意識だけで計らって生きてゆこうとしたけれども、刀が折れて矢が尽きたという事になります。そこに教えられなくとも全てを知っている者が救いの手を差し伸べるという段取りとなります。
その後は、分別脳が出しゃばらなくなるという事になります。分別では生きてゆけない事が分かったからです。左脳の人格と右脳の人格の間にホットラインが通じたという事になります。心が二度と争わなくなるという意味です。心には矛盾をそのままにして矛盾が解消されたという事になります。分別脳は右脳の人格「神、仏」の下で安心して生きてゆくという事になります。
能力が増すという事はありませんが、心は利害得失には関係なく、良いと悪いが解ります。お金が集まるという事が分かります。お金が出てゆくということも分かります。世の中の原理原則が少しは解るようになります。自分がしたい事が分かります、ただしたい事を本当にした時にはどういう結果が待っているかもわかります。
結果をわきまえてなら、人は何をしても良いと分かります。従ってしたい事をセーブしなくとも、出来ないようになります。欲しいものは手から離したときに手に出来るという事が分かります。
補足
最清浄法界ではありませんか。 摂大乗論ではどう記述されているのでしょう?