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勉強する意義

勉強する意義ってなんだと思いますか?

みんなの回答

  • chiyokunn
  • ベストアンサー率34% (32/93)
回答No.4

勉強すると、あなたみたいに自分で何も考えられない人にいろいろなことを考えさせることができます。 何も考えずに「意義は?」などと小難しいことを言い出す人は、自分で考えながら勉強できずに、教えてもらうことを覚えるだけの暗記で何も本当の勉強はできません。 よって、あなたにとっては意味はなく、多くの人にとっては自分の視野が広くなり、自分の環境を向上するためにどうすればいいかなどを考えられたりします。 そして、真剣に勉強すれば分かるのですが、単純に勉強は楽しいです。意義などはどうでもよく、楽しいからして、さらに役にも立ちます。あなたには分かるかな???

doala_
質問者

お礼

そうですよね。 本来、勉強って意味はなくて楽しいから、知りたいことがあるからするものなんですよね。 けど僕はどうも勉強を好きになれず、 けど将来の幸せには学力が要求される。 それがつらくてこんな質問をしました。 けどなんか目が覚めた気がします。 いつになるかわかりませんが、 物事に興味を持って勉強に勤しめるように成長できたらと思います。

回答No.3

勉強とは、心への知識の蓄積でしょう。 勉強するのが無意味、めんどうくさいと思う人がいるのは世の中事実です。 が、それも自由です。 カラダを動かすのが好きな人は、それでいいし、勉強したい人はすればいい。 べつに勉強しても無駄で、それでもいいじゃないですか。 勉強を娯楽ととらえる人もいますし。

  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.2

本当の意味での「勉強」をする意義は、豊かになれるということです。知識、教養、応用力がつきますし、そうなれば表情まで変わってきますし、案外と体力も消耗するのでダイエットにもなります。もちろん脳も活性化されますし、自分が豊かになれば、自ずと人間関係も豊かになりがちです。 一方で、仕方なく言われて学校へ行き、仕方なく授業を受け、仕方なく宿題などの課題をこなす意義は、その場ではわかりません。もちろん、明日のテストで結果が出て「ああ、勉強しておいてよかった」と思える時もあるでしょうが、たいていは、何十年も経ってから、その意義に気づいたりします。そしてその意義は個々に違ったりします。 私の場合は(1)勉強ができない人の気持ちがわかる大人になれた、(2)授業全体や科目全般が理解できなくても、わかるところや好きなところだけでも熱心にやっていれば、やがて人生の目標や自分の存在意義という大きな結果に結びつくのだと悟った、などです。

noname#100196
noname#100196
回答No.1

勉強する意義には、現実的な(短絡的な)意義と、より長期的で、普遍的な意義と、両方あります。ちなみに前提として、ここでいう勉強とは、高校までの教育のことと考えてください。 まず、現実的な意義とは、例えば「就職のため」「生活のため」に勉強をする、というものです。時間の長さにして、自分の人生に収まる何かのため、範囲にして自分の手の届く範囲にある何かのために勉強をする、ということですね。 こういった「生活のために勉強をする必要」については、勉強をしないこと、つまり<フリー>であることとは現代社会においてどのようなことなのか、から考える必要があります。勉強をしない自由、つまりやりたいことだけをして生きていく自由とは、突き詰めていけばフリーターや派遣社員などの、不安定な被雇用者へとつながっていきます。 つながっていく原因の一つは、学歴による正規雇用への見えない壁によるもの。 「貧困の経験にせよ、ホームレスにせよ、そのリスクは義務教育程度の学歴と強く結び付いている」(岩田正美 「現代の貧困」 P144) 勉強をしない自由が、非正規雇用へとつながっていく原因のもう一つは、「自由」であることそのものが持つ、不安定な雇用を求めざるを得ない(そうすることでしか<○○しない自由>は実現しない)性質から。 「派遣社員が、工場で働く社員(ここで言う”社員”は正社員など、派遣社員ではない人を指します)などから、一番印象悪く思われているのは、すぐに辞めてしまうことです」(渡辺雅紀 「派遣のウラの真実」 P14) つまり、現代日本社会における何かを「しない」自由とは、結局のところ、嫌なことからの自由=幸せ、では決してありません。実際には、将来の希望と生存からのフリー=絶望、でしかないのです。 「「働き方を自由に選べます。」「楽しい仲間があなたを待っています。」甘い言葉と引き換えに、何の保障もないのに安い時給で文句も言わずに働き、ときにはタダ働きを喜んでこなすことへと誘惑される。(略)フリーター歓迎の求人雑誌は街にあふれかえっているが、詰まるところ使いたいときに使い、切りたいときに切れる、あとくされのない商品として人を使い潰したいだけではないか。」 (自由と生存のメーデー2006、http://www.geocities.jp/precari5/main.htmlより) 逆を言ってしまうと、「勉強をする」こと=まともに社会経験を積んでいくこととは、それだけで当事者が将来においてよりよい自由とよりよい生存とを享受できる確率を大幅に増すことなのだ、と表現することができます。今、自由でないことによって、後の自由と安心を確保することができる、ということです。これが、現実的な意味での勉強する意義なのです。 「現在では、まともに社会経験をしていない20代後半の青年が安定した職を得る道は、ほぼ閉ざされている。結果、こうした人々は非正規雇用で食いつなぐしかなく、契約社員や日雇い派遣で糊口をしのぎながら、長期にわたって厳しい生活を送ることになる。(略)そんな彼らを待っているのは劣悪な労働環境である」(門倉貴史「貧困大国ニッポン」P189) 次に、より長期的な意義について考えてみましょう。とはいっても、少々長くなりすぎたので、手短に。 人間は、自分ひとり、自分の世代だけに責任を持つ存在ではありません。人間は、切り離され、見放された存在では決してなく、互いに時と場所を超えてつながりあっているものなのです。ある意味では、永遠といってもいい時間、無限といってもいい空間、その全てに対する責任を一人ひとりが担っているともいえます。私たちは全員が歴史の一部分なのです。 その果たすべき責任の一つとして、「残す」ことが挙げられます。それは、限られた資源を残すというような、分かりやすいものから、より抽象的な、知識を残すこと、であったり、人間性という希望を死という終わりの後に残すこと、といったような、分かりにくいものもあります。 知識を次の世代へと受け継いでいく、そのためにも勉強をする必要があると、私は思います。

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