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性的唯幻論について。
最近、岸田秀さんの著作を読んでおります。 主に性的なものの解釈についての記述を追い掛けておりますので、文化論等は飛ばすと言うやんちゃな読みです。 岸田さんの性についての解釈。 これに、私としては今の所「論理の穴は皆無」と感じておりますけれど、 どうなのでしょうか? この彼の論理で、私はこれ迄自分が抱えて来た問題に解釈がつきましたし、 現状世の中にある様々な性の形も、説明がつく、と思えます。 岸田さんの唯幻論の論理に穴はあるのでしょうか? また、 読み進める際の注意点等ありましたら、ご教示頂けませんか? よろしくお願います!
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yukkinn66さん、こんばんは。 >ホント、、、何故でしょうね。。。 そうなんですよ。 射精には理屈抜きに生理的快感が保証されていますし、しかも女性のヴァギナ以上にペニスに快感を与える器官もありませんから、たとえ大金を払ってでも、罪を犯してでもセックスしたがるわけです。 でも、女性は排卵や破瓜で快感を覚えるわけでもないし......。 >思春期特有の「人恋しさ」や「孤独感」も実は身体から来ているのでは?と私は考えておりました。 はい、確かに「身体」の奥からせせり上がってくるような、何とも名状しがたい感覚、衝動のような鬱勃とした力を認めないと、性的幻想を具象化する性的エネルギーの源泉は説明ができなくなってしまいますから。 >だから、自分の物だと思っていた自分の身体に迄「他人っぽさ」を感じます。 >まさに「ひとりぼっち/孤独感」。。。 思春期の少年の場合、ペニスという付属物に対しては、yukkinn66さんとは違った意味で「他人っぽさ」に近い感情を抱くかもしれません。 特に、こいつが性的幻想と結託しようものなら、とても純朴な少年には制御不能となりかねないところがあります。 でも、このことが少年の性自認を妨害したり、それ故に「ひとりぼっち/孤独感」に襲われたりすることはないと思います。 >人間って、とにかく「孤独に弱い」気がします。 >孤独を癒す為ならば何でもします!!と言うような。。。 はい、「孤独に弱い」点では男女の違いはないでしょうが、男性の場合、思春期にせよ、青年期にせよ、女性ほどには異性によって「孤独」を癒そうとはしたがらないかもしれませんね。 むしろ、同性からの、男としての評価の方により拘泥したがるような気がします。 その意味でも、男性は女性に較べて、性欲を外在的な欲求として意識する傾向があるかもしれません。 >私の解釈の根本は「したいのに出来ない」のは何故?から来ています。 う~ん、「したいのに出来ない」というケースは、臨床的な原因の場合と加齢による場合とに大別されるかと思いますが、いずれにせよ、深刻さという点では「何故だか分からないけど、とにかくする気になれない」というケースの方が上回るような気がします。 実際に、本サイトに寄せられる夫(男性)側レスに関する質問の多くも後者のケースに当てはまりそうですし。 しかも、妻(彼女)以外の女性相手だと「すぐに勃起する」ケースも少なくないだけに、女性の悲憤たるやいかばかりかと思わざるを得ません。 >それと私有財産の発祥と、男性の我が子所有欲を先のご回答で拝見しました。 >その「私有財産」と言う考え方の始まりがイマイチ掴めません。 >狩猟採集の時代から、農耕が始まった異によって、人間の所有欲と言う物が発生したのでしょうか。 >つまり「手間暇掛けて苦労して作り出した食糧は、人に上げるには惜しい」と言う感情かしら? これについては、とても詳述できるだけの余裕はありませんが、人類の脳裏にはじめて死の観念が宿ったとき、同時にこれに如何に対処すべきかという課題も突き付けられ、男性は《わが子》を欲しがるようになったのではないか、と今のところは考えております。 古来、われわれの先人たちは人の死を如何に受け入れるかをめぐって試行錯誤を繰り返し、神話や宗教もこの難題に答えるべく要請されたと考えられなくはないですよね。 で、「私有財産」といったところで、私としては、別にエンゲルスが説いているような意味においてではなく、われわれ自身が生きる過程で自らのアイデンティティを掛けて生み出してきたもの、という抽象的な定義しかできないと思っています。 思うに、自給自足生活時代には外界(たとえば土地)に働き掛け、そこから生活の糧(まずは食料)を得るという必要がなかっただけに、「私有財産」という観念も存在しなかったのではないでしょうか。 やはり、男性が外界に働き掛けることで作り上げた、生活の糧を得るための土地、道具、手段、権利等が「私有財産」の原型だったのではないでしょうか。 男性がこうした「私有財産」に「価値」という幻想を認め、これに執着するようになったのは、これは自分が産出した作品であり、かつ他人からも高く評価されたからでしょうね。 そして、自分が死んでも、この作品は死なない価値を持っていることを知ったとき、男性はこの「私有財産」の継承者を欲したのではないでしょうか。 要するに、わが子を産めない男は、死によって中断させられる自己の存在の連続性を求めて、自らが産出した《私有財産》を託すべき《わが子》を欲するようになったのではないかということです。 もちろん、継承すべき《私有財産》の《価値》といったところで、所詮男性の妄想(観念)の産物でしかないのですが、わが子にこの《私有財産》を世襲させることで、自らの連続性が確保されるかのように思い込んだのではないでしょうか。 で、《私有財産》を持った男性は、これをエサに女性集団(置屋)から次々とお気に入りの若い女性を落籍したとすれば、徐々に女性血族集団は崩壊せざるを得なかったでしょうから、こうして婚姻制度の原型(一夫一妻又は多妻)が誕生したのではないでしょうか。 さらに、自分でわが子を孕むことも生むこともできない男性としては、本物の《わが子》を確保したければ、女性に身勝手な性的戒律なり、道徳なりを押し付けざるを得なかったはずで、こうして女性差別の歴史がスタートしたのではないでしょうか。 >勝手に赤く実れる力を付けて欲しいし、その邪魔をしないでいきたいものです。 心配ご無用! yukkinn66さんのお子さんたち、母親のちょっとやそっとの「邪魔」ぐらいで歪められるほどヤワだとはとても考えられませんから。
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- arayata333
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回答番号1のリーロンさんへのレスを読ませていただきました。 図書館という手がありましたね^^。 文芸の棚あたりに こちらの地域の図書館でもありそうです。 ただ、 私の町の図書館ですと 学校の図書館よりも小さいので、 かなり遠出する形となります。 それと、 じつは 最近 フリーエムエル(自由なメール・リスト)というメール・コミュニティーを 自分でも作れ、他の人の作ったコミュ二ティにも入ることができる場に いろいろ参加を始めているのですが、 (また こうした活動を始めるために こちらにこれなくなったといういきさつも、 前回の騒動の中の 演技の部分には絡んでいたのですが、その過去には 大きな失敗とか過失までをも含んでいますし、 今また、新たに前に進むことが赦されるならば、 そのあたりは、すべて忘れたく思います。) そのコミュ二ティで、 いろいろな人に紹介された本が、6つほどもあり、じつは図書館には、何十年ぶりに行ってみたところだったのです。 でも 係りの方に聞いても 見つかったのはたった一冊、 そこは地域では一番大きい図書館なのですが、 これで すこしがっかりしてました。 》一般文芸の棚《 たしかに、 その図書館なら そういう本ならありそうです。 次の13日の日曜日に 是非行ってみたいと思います。 》一年前にこちらのカテで「ポルノという存在」と言う質問を立てました。 その質疑で、私は私の個人的な体験による思考の偏りを多少解すことが出来ました。《 まだ 一年しか経っていなかったのですね。 はるか昔のことのように感じてしまっていますが、内容は憶えてはいます。 中途半端なままの回答となってしまいましたが、 人間には時により限界があり 出来ないことは静かに受け入れるしかないわけで、 ここは これから未来に向かって“書いたことへの責任が再びとれる事態に恵まれた”という状況のようですので ここから先に進ませていただくことで私なりのメッセージを 簡潔することを目指してゆきたいと思います。 》多種多様な文化はあれど、結婚制度だけは普遍的に存在すると言う不思議。 ほぼ全ての文化に於いて、男女の性別分担が類似している事。 性犯罪の男女差。 実体が無いとも言える性犯罪が、何故此処迄被害者意識を刷り込んで来るのか? これらの私の疑問を、あまりにもすっきり解き明かしてしまったように思うので、逆に騙されていないか心配になってしまったのです。苦笑《 当然興味ある内容です^^。 来週中に一冊は是非読んでみたいと思います。 私の方からは もしよろしければ、 この質問をまだ閉じないで欲しい気持を書いておきます。 よろしくお願いいたします。
補足
順が逆になってしまいますが、実際にお探しのご様子(ありがとうございます!)ですので先に書き込ませて頂きます。 今日も最寄りの図書館に、他館所蔵の岸田さんの本二冊を取り寄せてもらったので受け取りに行って来ました。 最初に手に入ったのが「続 ものぐさ精神分析」でして、 初巻の「ものぐさ精神分析」を飛ばして続巻を読んだ訳です。 でも充分に理解可能でした。 幾つか性関係の章を読みましたが、一番広く深く本質に切り込んでいる、と感じたのは「性差別は文化の基盤である」と「性的唯幻論を越えて」の二つの章です。 単に私がひっかかっていた疑問に直撃していた、と言うだけかも知れませんが。 これは「二番煎じ ものぐさ精神分析」にも収められています。 >> 多種多様な文化はあれど、結婚制度だけは普遍的に存在すると言う不思議。 ほぼ全ての文化に於いて、男女の性別分担が類似している事。 性犯罪の男女差。 実体が無いとも言える性犯罪が、何故此処迄被害者意識を刷り込んで来るのか? >> 私があげた疑問点を網羅して解析している、と思いました。 本捜索の一助になれるかしら(と言うか、単なる誘導?汗)と補足してみます。
- ri_rong
- ベストアンサー率56% (30/53)
お礼をありがとう、補足を投稿いたします。 >もしご記憶ありましたら、教えて頂けませんか? 対談形式になっている『物語論批判』ですよ。 ずいぶん古い本ですけど、竹田青嗣さんとの対談です。この本のなかで、岸田さんは自分のお説がどのように読者に読まれるか――要するにこの点に、物語論という標題の持つ意味がありますが――、これをテーマにして、読みの背後にある二項対立の危険性について、ご本人自ら明かしてしまっているので、批判というよりはむしろ、読者への解説に近い内容になってます。 ============================== 私の理解が間違っているかも知れませんし、この考えが岸田さんの論に沿っているか?は別なのですが、私自身は、もしかしたらもしかしたら。全ての社会構造の根幹(根源?)には性が無いかしら?と迄考えています。性、と言う異なる二者間のバランスを取る為に、社会制度は構築された。 勿論、その制度構築の過程で「より力の強い者」が、現実と言う名の幻想を決めて行ったのだろうとは思います。この考えは岸田さんの論とは異なって来るのかしら。。。 ============================== 素直にご本を読めば、そのようにご理解されると思います。つまり、記述には論理の整合性がある。そして、そこから「社会というのは概ねそのようなものではないか」というふうに、読者のなかで意識されることでしょう。それは質問者様の意識が、(読むことによって)整合性を手に入れたからです。 不整合な「こと」を意識し続けるのは、整合した「こと」を意識するよりも難しい――先の批判本は、その点に焦点を当てているんです。さらに、整合・不整合の二項対立から「どちらかを知ることは決してできない(現在の自分)」という公理を保ち続けるのは、実は至難の業です。なぜなら、未来を決定するのは「こと」ではなく、本当は「ひと」なんですが、「こと」の整合性を重んじるあまり、僕たちはついつい、うっかりと推論規則を忘れるようなんですね。 >他の性の現象にその説明を試した所、結構一般化出来るなあと思うのです。 「ひと」の話をしていたつもりが、知らないうちに「こと」の話に変わっていた――なんて事は、ざらにあります。意識というのは「こと」です。もっと正確に言えば、言葉です。 例を挙げると、「私」という言葉には、「ひと」としての「私」と、魂とか自我とか(よくは知りませんが)ともかく自分を形成する意識としての「私」があります。 どちらも「私」という同じ記号ですが、前者の「私」は「ひと」に当たります(つまり、理解不能)、後者の「私」は「こと」に当たります(こっちはたぶん、まともな僕)。 このように、言葉というのは常に、何かの例として割り当てられる。 そして「例」には二通りあって、ひとつが「本当かどうかはわからないけど、ともかくそう表現する以外、他には妥当な言い方が見つからない場合の例」と、もうひとつは「誰もが知っている概念としての例」がある。前者は「人としての私」であり、後者は「意識としての私」と言っても良いでしょう。 このような言葉(=例)は、本当は受け取られるまで、どちらとして用いられたか(=読まれるか)が特定できない「こと」なんですね。たぶん先に書いた批判本で岸田さんがおっしゃりたかった事は、こんな感じのことかなと僕は思います。 意識という「論理の整合性(これを二項対立と呼びます)」が現実社会を形作るという、バーガーの社会論は、かなり的を射た見解だと思いますし、岸田さんのお説もまた、その通りだと思います。けれども、「ひと」というのは、どんなに生真面目な方でも「こと」だけでは生きていないものですから、――まあ、大丈夫です。ちゃんと現在でも、男女の性差はありますよ。 ちなみに、 (1)多種多様な文化はあれど、結婚制度だけは普遍的に存在する おっしゃる「結婚」は、現代の我々が知っている意味での「結婚」なのか、それとも未だ知らない意味を持つ、ともかく結婚とでも表現する以外、どうにも表現しようがない「何か」を含んでのことなのか? (2)男女の性別分担が類似している おっしゃる「分担」は、現代の我々が知っている意味での「分担」なのか、それとも未だ知らない意味を持つ、ともかく分担という概念で表明する以外、どうにも表現しようがない「何か」を含んでのことなのか? このように、他の問題にも同様の問いを立ててゆくと、後者は常に「語られなかったこと」として除外されているのではないかと思います。言い換えれば、前者は常に「知っていること」から整合的に導かれる、その演算結果のことでしかない。確かに、よりすっきりした言い方にはなっていますが、これって例えば小数点以下数桁までの精度を高めた内容ではなくて、むしろ、数字を丸めて省いた結果の言い方ではないかとも思える。あるいは、小説で言えば、単に誰でも読めるように、用いる語彙を少なくしただけの事ではないかと――こういう批判もあるだろうとは思います。 前提、云々というNo.4の回答を噛み砕いて書くと、概ねこんな感じではないのかな。ちがうかな。
お礼
りーろん様、返信とお礼が遅くなりまして申し訳ありません。 補足欄にもありますので、よろしく御願いします。 >整合・不整合の二項対立 >不整合な「こと」を意識し続けるのは、整合した「こと」を意識するよりも難しい これ、とても分かり易く私の読後の「すっきり感』と「詐欺に遭った気分」を説明してくださいました。 ありがとうございました。
補足
再びの丁寧な回答に感謝申し上げます。 返信を抜かした状態になっておりましたので、無礼を御詫びします。 りーろん様が「物語論批判」と教えてくださったので、これまた図書館に駆け込み借り出して読んでおりました。 私が住んでいる市内の岸田本は、大半は私の手元かも知れません。苦笑 >読みの背後にある二項対立の危険性 これは >整合・不整合の二項対立 を越えて、 「唯幻論を世界認識の方法としたとして、 では個人としての自分はどう生きて行くのか?」と言う問いかけ、のことでしょうか? 物語論批判、、、読みながらふむふむ、とは思いつつも、丁寧に読むのが実は面倒になりまして(大汗)、ひとまず「あとがき」を読んだのです。 りーろん様がおっしゃる「二項対立」も、どれとどれの対立なのか?が私には力不足故辿り着けなかったのです。 だからと言って「あとがき」にまとめがあるとも限らないのですが。。。 岸田さんの唯幻論は決して「世界に対する解答(世界の説明)」ではない。 一つの見方/世界を読み解く鍵としての「回答」にすぎない。 。。。そう言う大きな意味での二項対立、であっていますでしょうか? 岸田さんの唯幻論をそのまま「解答」としてしまうと、その後の生き方は「ひねくれる(私としては)」以外に無い気が私にはします。(笑 あいにくと「ひねくれる=諦めて生きる」のは私の趣味に反します。 それに、やはり「論」と言う物は「途中経過報告」みたいなもので、 その「論」が一人の人の生き方と言う実体を持つには、その人の「自己解釈(物語を与える)」が必須です。 女体が商品化されていて、私もその商品陳列の棚に並べられている品物のひとつ。 それは確か。 でもそれと、「商品の私」が、商品価値や付加価値、或は商品にならない逸脱した価値を自分に付与するのか?は自由です。 結婚と言う制度は、制度として社会に有形無形に定められています。 でもそれと、個人として夫婦として其処に新たな価値を付け加える事は可能。 寧ろ、そうやって社会制度は誕生していったのでしょうし。 社会を眺め、解釈する事と、 その解釈に自分をどう載せるか?或は載せないのか? りーろん様のおっしゃる「二項対立」を私はこう受け止めてしまいました。 間違っているかなーーー汗 岸田論の穴、と言うか不足点は「妊娠」かな、と考えております。 この問題を付け加えて解釈し直すと、唯幻論もガタを増やすかも知れません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
お邪魔します。しかも読んでいない状態での投稿です。 具体的な議論が出れば分かりやすくなるのではないかと思って質疑応答に従っていましたが ヱブで一冊の著書の簡単な紹介記事を読んで反応したいと考えました。すでに反応できるのではないかと考えました。 ▲ (『性的唯幻論序説』の紹介) ~~~~~~~~~~~~~~ http://astore.amazon.co.jp/nashilog-22/detail/4166600494 内容(「BOOK」データベースより) 「人間は本能の壊れた動物である」と著者はいう。したがって性交も本能ではできない。人類は基本的に不能なのである。しかし不能のままでは人類は絶滅する。不能を克服するため、人類は本能ではなく幻想に頼らざるをえなかった。 人類において性にまつわる一切は幻想であり、文化の産物なのである――との視点から、性差別の起源、売買春、恋愛と性欲、資本主義と性、などの諸問題に根本的メスをいれる。目からウロコが落ちること、うけあい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これでしたら 社会を《構造》として捉える議論(――つまり いっさいの社会行為とその関係錯綜は 無主体の過程であると見る――)と同じではないかとむしろ勇み足をして判定すべきではないかと感じました。丸山圭三郎の《ひとは文化人である――つまり 自然人ではなくなっている――》と同じ趣旨なのではないでしょうか? これは この前提において・つまりこの前提に対して 異議が出されて当然だと考えます。 言いかえると その研究成果としての分析と思索のすべては 前提が狂えば判定が変わってくる。こう考えます。ご質問者のお考えに異議を唱える結果になるかと思います。 ひとは本能が壊れているから しかもその知性によって非自然という意味での《文化》の世界を打ち立てた。あとは この文化の世界において 知性によって 狂いからかして生きるのだと。 知性によってというのは そのことが無意識においてでもあると捉えられ その作業は 片や《秩序とその規範》 片や《破壊と混乱ないし混沌》 これら両者の均衡のもとにひとは身を置き そのおのれの位置づけを保ちつつ《文化知性》を展開して生きるのだと。 もしくは 大いなる知性は この《コスモスとカオス》との――単なる均衡というよりは――統一したかのごとき全体をみづからの身に帯びて生きるのだと。 だが やがてこの《唯文化論》の世界は 非文化としての自然世界――つまりたとえば単純に言って 本能に生きる動物たちの世界――に対して もともとのことだが うらやましさを持っているのであるからには そのやっかみが昂じることによって 身持ちが耐えられなくなり やがて自死に至るとかどうだとか。 こういうふうに解釈していたのですが たぶん当たらずと言えども遠からずで そのような方向を この種の論者は展望していると考えます。 わたしの考えは そうではなく 《本能は壊れているが 自然の形跡がある》という別の前提を立てるものです。あたかも残留放射能のごとく《本能などの自然の形跡》は なおヒトにはたらいている。これで対抗したい。となります。 そうすると たぶん 現象としてあらゆる行為事実が岸田の言説において納得の内に認識されるとしても その向かう方向は 別の見方もありうる。こう帰結したいという向きも現われるのではないでしょうか? 具体的な議論です。 ▲ 性交も本能ではできない。 ☆ 性欲は ヒトの意志行為を超えてはたらく力にかかわるのではないでしょうか? 本能かどうなのか。非文化として 自然なのではないでしょうか? 性欲ゆえにどのように行動するかは おおむねヒトの意志行為であり 文化行為です。 おおむねというのは 衝動をヒトはつねに意志行為によって自分の思うようにはたらかせるというわけには行かないからです。 性行為は それに到る口説きも 互いの意志行為であり(――しかも両性の合意という別の次元の意志行為関係としてもかかわっており――) 性行為じたいも意志行為です。ですが どうなんでしょう? そこにいわゆる《本能》も――つまり動物と共有すると言えるような自然の力も―― 絡んでいるとは思うのですが どうなんでしょう? つまり本能の痕跡があり それは実際にはたらく力であると捉えますが そのあたりは どのように説明がなされているのでしょう? 少々押し売りのごとく押しつけるような投稿ですが 問い求めの進展を願いつつお寄せします。
お礼
ぶらじゅろんぬ様、回答御寄せ下さいましてありがとうございます。 岸田さんの論の紹介、感謝申し上げます。 >これは この前提において・つまりこの前提に対して 異議が出されて当然だと考えます。 そうですよねえ。 この前提、疑いの目も持ちつつ読みました。 只、、、前提に直接切り込んで可否をと言うには私の学が浅過ぎて、 どうしても、末端から逆方向に論の整合を問いかけて行く事になります。 思い付く事例を岸田さんの論理で解き明かせるか?を検証するのですが、 今の所、納得出来ない部分は無いです。 でもこれだって、私の検証能力が不足していれば間違った結果が出る訳ですし、難しいです。 >ひとは本能が壊れているから >しかもその知性によって非自然という意味での《文化》の世界を打ち立てた。 あ、これ、「知性」じゃなくって単なる「必要に迫られて」とか「なるようになった」とか「利害関係のバランスがとれた」とかであって、何か意志的な力ではないような気がします。 強いて言えば「生きる智慧」かな。 ぶらじゅろんぬ様も既読でしたら、もっと具体的に「論理の穴」を付いてくださって、面白い質疑が出来るのに。 >《本能は壊れているが 自然の形跡がある》 こっちに近いと思います。 自然と非自然のバランスを取る為に、四苦八苦してひねり出した生きる智慧が文化、と言う事だと。 ちょっと格好付けている現代の人類も、実は間の抜けている所があるんだな、と言う気分になりますよーーー^^ 読んでみませんか♪ >問い求めの進展を願いつつ はい。 お心遣い無にせぬよう、質疑の充実をはかります。 ありがとうございました!
- kadowaki
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こんばんは。 唯幻論にしろ、唯識論にしろ、唯言論にしろ、いずれも実在論、実体論の虚妄性を暴こうとする点では大同小異といったところかもしれませんね。 >岸田さんの唯幻論の論理に穴はあるのでしょうか? たとえば、彼が日本人の分裂した精神を論じる際、フロイト理論を強引に援用し、黒船来航によって受けた心的外傷で説明するところなどは、いささか恣意的すぎるのではという憾みを覚えますが、ことセックス論となると、特に男性の性欲の基本性格、性行動のメカニズム、その成因等について小気味良いほど明快に語ってくれていると思います。 その点、特に男性側セックスレスに直面している女性たちには是非お読みいただきたいところです。 ただ、彼のセックス観のみならず、彼の世界観、人間観にも彼のペシミストとしての一面がうっすらと投影しているような気がしてなりません。 たとえば、『続 ものぐさ精神分析』には、文学好きな岸田さんらしく、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫の性格に関する見事な、しかも辛辣な作家論が収録されておりますが、私としては、あたかも岸田さんの告白小説を読んでいるかのような印象を抱かざるを得ませんでした。
お礼
kadowaki様、回答ありがとうございます。 >ことセックス論となると、 性以外の文化論等は、その主題も読まずに飛ばしております。汗 本当に「小気味良いほど明快」で、あまりの言葉の端切れの良さに「詐欺?騙し?」との不安が過ります。苦笑 一年前の質疑でkadowaki様から教えて頂いた本です。^^ 本当に良い本を推薦頂き、感謝申し上げます。 それと、もうひとつ副産物がありまして、、、 岸田さんの説を読み進めながら、私自身の幻想への囚われが良く理解出来ました。 そして、反対に夫が見事に幻想から自由だ、と言う事が判りました。 出会った時から「変なヤツ」とは思っていましたが、此処迄逸脱?しているとは。。。笑 勿論全ての幻想から、では無いでしょうけれど、私が長年囚われて来た部分等は「ちょろい」ようです。 夫について、新たな発見が出来ました事、重ねてお礼申し上げます。 ありがとうございました^^
補足
最近夜に寝付けなくなってしまい、今朝も明るくなる迄「性的唯幻論序説」を読んでおりました。 女の性自認について、「よく判らないけれども」と認めつつ、その経過を丁寧に説明しており、改めて私自身のその過程を振り返る事が出来ました。 まあ、、、性犯罪の被害と言うのは、この性自認進行過程の何処とぶつかるか?によってその大きさ/深刻さが決まって来るのかも知れません。 また、その「被害」を克服する為には、やはり何らかの「更なる理解」が必要なのでしょう。 つまり、積極的に切り込まない限り、被害の解消はあり得ないのかな、と。 たかが軽微な性犯罪で、かくも派手に動揺した私を、今ならある程度理解/分析が出来るようになって来ました。 >彼の世界観、人間観にも彼のペシミストとしての一面がうっすらと投影しているような ペシミスト、、、厭世家/悲観主義。 確かに一旦ひたすらに「どぎつい方向へ」切り込みますね。。 その「どん底」を確認した上で、何だか変な?解決策か対応策か?を述べて来る辺り、世界を「斜に見ている」ような「真っ正面からの正攻法」のような、よく分からない気分にさせられます。苦笑 只、、、全ての論理の根本には人間の生きる意志、それこそ「生物としての力」が垣間見える、と私は思えまして、それ故、どぎつい?悲観的な展開も事例の紹介として冷静に読む事が出来るのかな、と考えております。 「生物として生きる」と言う事は、例え本能が壊れていたって手放せないものかも知れません。。。
- arayata333
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yukkinn66さん、こんにちは。 久しぶりの回答となります。 岸田秀さんについても全く知らない無学なものなのですが、 この「性的唯幻論」という言葉には、 あまりにもいろいろ気にかかることが生じてしまう人間ですので、 ここに 補足質問要求回答を書いてみたくなりました。 最近 ふとふと思うことがあるのですが、 アカデミックな哲学の世界は一方では厳密な理論を求めつつ、いっぽうではかなり 1つ1つが順序良く整理されていないカタチのまま、重複的な論議がややこしく交わされている世界なのでは(一言で言えば、 むしろ混乱状態となってしまっているのでは)とも思えてきています。 まず、タイトルの「性的唯幻論」という言葉が、非常に気になる言葉でありつつ、 それ自体どういう意味合いなのか? 何か変にややこしい言葉に思えます。 仏教では 唯識論というのがあります。 ある意味 世の中のすべて、あるいは存在のすべては、 識で出来ているという論ともなっていて、 その識とは何かが詳しく書かれていたりします。 でも 詳しく追いかけてゆくとそれもまたかなり“シンプル・イズ・ベスト”とはとても思えない^^論法となっているように 私には思えてしまいます。 五感の考察から出発して、その奥に気がつくこともある無意識の世界の構造を語りつつ、 そこから仏界の説明にいたるのですが、仏界がふたたび五感の世界に(新鮮な感性のゆるぎない地点として)戻ってくる世界であることは、後の法華経に少し触れられていたりするだけだったりします。 一方で 空の思想というのがあって、 これは、すべては過ぎ去ってゆくのだから物事は幻に等しいと説くもの、過ぎ去らないものはでは何か?という論法だと思います。 これだと現代人にはかえって疑問を持たせてしまう方便のようになってしまうだろうと思います。 五感の大地にしっかり あるいはただ単純にもどってくるシンプルさがそこには見られません。 五感や感情の世界がしっかりと「見つめられて」いれば、 またそのために深い感情や感動の世界がしっかり座っていさへすれば、 そこからみれば 多くの世の中で言われている常識的な欲望や 家族形態(所有形態)などは、またそれをあやつるビジネスや国家とかも 「相対的に幻にすぎない」という表現も 説得力を持つところでしょう。 家族とは その形態が最大限に人間にとって必要な社会の基本単位なのでは無い、 ということの主張として、 おそらくそのへんの“幻(まぼろし)性”を 物語っているのが 岸田秀さんの言わんとしている「性的唯幻論」なのかな とか想像したりはしますが、 『性的唯幻論』という言葉では、あまりにもいろいろなふうに解釈できてしまう ややこしいというか、 言葉での人と人との通じ合いに混乱を起こしてしまうような言い回しのタイトルに思えてならないのです。 なぜ そんなにこの言葉に わたしがひっかかるのかというのは、 あくまで私は 肉感的愛情自体は、それこそ社会や歴史の根本の単位として最大限に大切であり、そのしっかりした追求抜きには、 どんな未来論とかもそれこそ夢まぼろし、あるいはちゃんちゃらおかしいよ、と言えてしまうような大切なところと思ってるからです。 そして、その肉感的愛情というのは、 まさに単に生殖としてのセックスとかだけで得られたりするわけではなくて、 たとえば恋(この場合は 偶然の要素が多いので 客観的な論理としては、あるいはその経験の少ない人とか薄い人とかには通用しない論理として理解しておかなければならないでしょうが)とか、気の世界とかを やはり本能を「見つめる」人間として追求する必要があると思っているからです。 そうすると そこには イマジネーションの世界もけっこう大事だったりします。 と、 「性的唯幻論」というタイトルの中の「幻」について、それを その意味での、私たちにとって大切な性的イマジネーションの追求こそが、 明日の社会にとっても大切ということが言いたいのか? そうであれば、どこまでそのへんが追求されているのだろう? というふうな興味がそそられたりするからです。 yukkinn66さんが、 そこに「論理の穴は皆無」と感じ、 ご自身の問題に解釈がつき、現状世の中にある様々の性の形も説明がつくと、思えたということは、 そのへんの何かが語られているからではないか、という想像力も働いたりします。 そしてそのへん、「論理の穴は皆無」なのかもしれません。 しかし、タイトルの言い回しのややこしさから、その論理はややこしすぎるカタチとなっていて、もしかしたら、けっこう「男女の幸せって本当は何なのか」ということと「その中の 欠陥とかさまざまな苦しみ苦悩の世界」とかについては 具体的でないまま、 その肝心な現実には対応力を欠いたままの 論理となっているのではないか?という危惧を抱いた者なのです。 私は 肉体労働者であり、かつ現在「ワーキング・プア、状況」に陥っている人間です。 忙しいだけで、本も買えない状態ということです。 でなければ すぐ岸田秀の本は手に入れているでしょう。 これを読んで、それほど気になりましたから。 それで 、こんな補足要求質問となったしだいなのです。 言葉尻をとらえれば、岸田氏のこのタイトル自体に、そうとうに多くの質問が生まれてしまいます。 唯幻論 という言葉自体、 すべては幻(まぼろし)と言いたいのか? 幻(まぼろし)は大切だと言いたいのか?。 それとも その幻(まぼろし)こそ、世の中の本質だ(これも、本質であるから世の中どうしようもないという論と、 その本質こそ これからの希望としてもっと追求しようというのとでは 論旨はまったく違ってきます)と言いたいのか? では そのどれかだと(あるいは別なもの)と仮に規定されていたとして、それと 前段の言葉「性的」とう言葉と どうつながるのか? 『性的 唯幻論』のような感じで 分けられた論なのか? 1つの意味合いなのか? 続けて書かれていたにしても実際には二通りに読めてしまいますし、 … うんぬん という具合です。 人間にとって大切すぎる言葉が並べられていると思うが故の 疑問ですが、 そこからの、この こちらからの質問、 yukkinn66さんが、 いままで抱えてきた、様々な性の形についての問題(それにしぼってでいいのですが)について、 もしおさしつかえなければ教えていただけませんか。 また、それは 岸田理論によって どのような解釈がついたかにもです。 「岸田さんの唯幻論の論理に穴はあるのでしょうか? また、 読み進める際の注意点等ありましたら、ご教示頂けませんか?」 という質問主旨に添ったものでない質問は どんな場合にも受け付けられないと思われる場合も、ご無理なさらなくてもけっこうです^^。 ということなのですが、 よろしくお願いします!
お礼
回答ありがとうございます! 長くなっちゃいまして、補足欄にて失礼します。
補足
arayata333様、お久しぶりです。 別の質問で回答なさっているのを見つけて、とても嬉しかったのです。 お帰りなさい!と申し上げても生意気にはならないですよね^^ >タイトルの「性的唯幻論」という言葉が、非常に気になる言葉でありつつ、 >それ自体どういう意味合いなのか? 先に#6に頂いた回答へ補足してみました。 私の言葉で説明したい、とは思うのですが、 上手く説明したいと思った途端に、インターネットと言う衆人環視と言える状況が気になってしまう自意識過剰なおバカさんです。苦笑 頑張ってみますね。。。 性差別も性的役割分担も結局は一つに帰結する→「女の肉体の商品化」 何故女の肉体は商品化されたのか? 何故男の肉体は商品化されなかったのか? 女の肉体の商品化は人類の文化の発生とともに始まった。 人類文化成立の不可欠の一条件が「女の肉体の商品化」。 人類が進化の悪戯によって、自然な状態では生存出来なくなった時、 それ迄は不要だった労働が必要となった。 母親はこの養育に大きく労力を割かねばならなくなったし、自力生存が不可能になった。 種族保存の為には、父親が必要になった。 自力生存可能な他の動物の雄には不要な「余計な労働」を、人間の雄は押し付けられる羽目になった。 本来はやらずに済んだ余計で過重な労働を引き受けさせる為に(出来れば自ら進んで)、男の性欲が利用された。 その方法。。。 男の性欲遮断。対象である女の肉体を商品化。 商品価値のある女の肉体を得る為には、それに見合う労働を!と。 (これを根本に、ここから派生する状況/問題等を書いているのが「性差別は文化の基盤。。」です。) この制度を崩さない為に、様々な「幻想」が作り出された。 (これが「性的唯幻論を越えて」の方かな。。。) 例えば、 性に関して「男=能動的/女=受動的」と言う神話。 それから、性犯罪へ向かう過程。 特定の女を対象としないフェティシズム/窃視症/露出症等の性倒錯がほとんど男にしか存在しない理由。 。。。全て女の肉体を商品とし続けさせる為の幻想。 こうして書いてみると、 何とも厭世的ないやーーな感じが読めてしまうかも知れませんが、 私は結構「希望の書」と思いました。 岸田さんのこの二つの章から、私なりに見付け出した「希望」はこう言う表現になりました。 ライフカテ「また彼と寝てみたい・・・こんな衝動は馬鹿ですよね」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5476548.html >> 避妊を行い、妊娠の確率を下げた性行為は(妊娠しない限り)「仲の良い人間同士のおしゃべり」と同格のコミュニケーション行為に過ぎません。 勿論妊娠しなければ。。。なので、避妊だけは。。。 性行為は「妊娠しない限り」、信頼し合う人間の仲の良さを示し合う行為に過ぎません。 一緒にご飯を食べる、散歩をする、時間を忘れて話し合う。。。それと同じ。 避妊技術の発達は、親愛の情の交歓方法をひとつ増やしてくれました。 大いに利用しちゃって良いのではないでしょうか^^ >> >様々な性の形についての問題 これらも、この「性差別から文化が発生」と言う根本を解釈咀嚼出来た(と感じた)ら、「些細な周辺事項」にランク下げ?されちゃったみたいです。 この「女の肉体の商品化」がポルノグラフィ含む全ての性の現状の根源。 そして、この字面としては屈辱的に思える「商品化」。 これも、 人が人類が「生き物として」、己の生存を掛けて生み出した「生きる術」だったのだ、と思えたところで恨みがましさは消えました。 勿論、岸田さんの論理に決定的な欠陥があってはその清々しさは「ぱー」になっちゃいますので、その欠陥の有無を探す助力をこうして御願いしている所です。 何とも他力本願な質問で、早々に削除しようかと考えたのですが、 運良く?間に合いませんでした。^^ 長くなりました、 回答ありがとうございました!
- ri_rong
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なんだかご質問者様への投稿が続きますが、悪意あってのことではないですから、ご容赦を。 >岸田さんの唯幻論の論理に穴はあるのでしょうか? 岸田秀さんは批判から先に読んだので強い印象を持った人物ではないのですが、お説については『幻想の未来』を読んで、ある程度は知っています。難解(不可解?)な表現が多い本でしたけど、おそらく彼の言う「幻想」は、人間の意識の事だろうなと思い、そう思って読むと、ピーター・バーガーのお説と似ているなと感じました。 ふつう、幻想は「現実には無い事をあるかのように思い込む」というような意味だと思いますが、恐らく本のなかで使われている「幻想」の意味は、「やがて現実に知覚するようになる事」というふうな感じですから、その意味であればむしろ「意識」と表現すべき事だと思いました。 彼のお説の根幹を成す社会構築主義的な言説を、バーガーは「社会的現実は意識の一形態である」というふうに呼びました。哲学の分野では本質主義や実存主義を批判した、俗に構造主義者たちと呼称されるグループ特有の表現ですけど、岸田秀さんも同じカテゴリーに入るのだろうと思います。 でも、彼の場合は哲学じゃなくて、社会現象を取り上げていたように思います。ですから、表現の一つひとつを取り上げてあれこれ言うのは良くないとは思いますが、ただ、少し言表を整理するだけでずいぶんシンプルなものになるんだけどなあと思いました。 お題は「性的なもの」という事でしたね。 ここからは、僕流の解釈になります。 恐らく、岸田秀さんはフーコーの焼き直し(要するに、男が持つ性欲は「高額である」という意識を、売春婦と素人娘の二項対立による社会構造で説明しようとする試み)をされるのだろうと思いますが、90年代に入ってルックマンの『生活世界の構造』を読んだ社会学者たちは、「制度化された権力形態が性の現実を構築している」とした古い言説に対して、ずいぶん懐疑的にはなっています。 と言いますのも、実際の物化のプロセス(個人が現実を把握する=社会構造を生むという構造主義者たちのお手本的なプロセス)は、その主観的現実と客観的現実の間にどうやら溝がありそうで、簡単に書けばこんな感じです。 もしも制度化された性の意識のみが社会構造を決定付けるのであれば、その構造はますます世俗化するはずなのに、どのような理由からかはわからないけれど、実際はどこかで合理的選択理論が働き、世俗化を食い止めているからです。情報化社会だからとか、忘れられた生物としての本能だとか、いろんな理由が付けられましたけど、ある程度の説得力を持つお説は、やはりルックマンのいう個人化する社会(日本ではオタク化と呼ぶそうですが)なんだろうと思います。 社会構造が目に見えてある傾向を示し始めると、まるでその流れから取り残されたかのような小集団ができる(これがオタク)。この集団は、目には見えない小さなコロニーのようなもので、その存在に流れができ、目に見え始めるようになると自然消滅してしまうような特性を持つらしい。 ルックマンのお説は主に宗教についてですが、これを援用して日本では五年くらい前に、ずいぶん哲学本が出ました。おっしゃる岸田秀さんのご本は、この流れの前に当たる作品だと思います。 手短かに表現すれば、違う意見もあるみたいですよ――という感じでしょうか。
お礼
いつもありがとうございます。 長くなってしまいまして、補足欄に書き込みました。 よろしくお願いします。
補足
りーろん様、回答を寄せてくださりありがとうございます。 >悪意あってのことではないですから、 ええーー?あちらこちらでお世話になることを「厚意」と思わない人なんているのでしょうか。。。 お世話になります^^ >岸田秀さんは批判から先に読んだので むむ、その批判文も読んでみたいです。 もしご記憶ありましたら、教えて頂けませんか? >恐らく本のなかで使われている「幻想」の意味は、 >「やがて現実に知覚するようになる事」というふうな感じ ああ、そう言う解釈も在りますね。 私は只、それぞれの立場(性別)の違いから生じる利害関係があって、 それを調整する為の「都合の良い事」を、(実は実体が無かったのに)「社会制度と言う実体」を持たせている、と言う現状を「幻想」と表現している、と単純に考えていました。 おっしゃるように「時間差」の中での目的意識、と言う視点はより深いように思います。 >社会構築主義的な言説を、バーガーは「社会的現実は意識の一形態である」 おおーーー! すっごい眠たくて寒いし、ちょっとお酒なんか飲んじゃった方が私の頭は理解力が上がるのかしら。。。 何だか言葉と文字がすんなり意味を成して行きます、、、ちょっと感激。 (いつもは文章を読むと、気をつけてないと頭の中で文字が列を離れて飛び回ってしまうのです。。。) >彼の場合は哲学じゃなくて、社会現象を取り上げていたように思います。 はい。学術書にはならないなあ、エッセイかなあ、と迄思いました。 とても読み易かったのもあります。 一体どの分野に分類されるのでしょうね。。。 図書館では一般書架の一般文芸の棚にありました。 >「制度化された権力形態が性の現実を構築している」とした古い言説 ううーーん。。。 私の理解が間違っているかも知れませんし、この考えが岸田さんの論に沿っているか?は別なのですが、 私自身は、もしかしたらもしかしたら。全ての社会構造の根幹(根源?)には性が無いかしら?と迄考えています。 性、と言う異なる二者間のバランスを取る為に、社会制度は構築された。 勿論、その制度構築の過程で「より力の強い者」が、現実と言う名の幻想を決めて行ったのだろうとは思います。 この考えは岸田さんの論とは異なって来るのかしら。。。 何しろ、性に関する部分しか読んでいないのです。。。汗 一年前にこちらのカテで「ポルノという存在」と言う質問を立てました。 その質疑で、私は私の個人的な体験による思考の偏りを多少解すことが出来ました。 でも、その「個人的な事」にある程度の説明と解釈が付きましたが、 んじゃ!っと、他の性の現象にその説明を試した所、結構一般化出来るなあと思うのです。 その謎解きの手助けに読んだのが岸田さんの本です。 多種多様な文化はあれど、結婚制度だけは普遍的に存在すると言う不思議。 ほぼ全ての文化に於いて、男女の性別分担が類似している事。 性犯罪の男女差。 実体が無いとも言える性犯罪が、何故此処迄被害者意識を刷り込んで来るのか? これらの私の疑問を、あまりにもすっきり解き明かしてしまったように思うので、逆に騙されていないか心配になってしまったのです。苦笑 >違う意見もあるみたいですよ―― これは >ルックマンの『生活世界の構造』 の事でしょうか。。。 読めるかな。。。探してみます。 ありがとうございました!
お礼
年末に回答頂いておりましたのに、申し訳ありません! >「身体」の奥からせせり上がってくるような、何とも名状しがたい感覚、 >衝動のような鬱勃とした力 これは何でしょう? これこそが「本能」? うーーーん、、、、違うような気がします。。。。 欲望と本能も違うのですよね。。。うーーーん。。。 >でも、このことが少年の性自認を妨害したり、 >それ故に「ひとりぼっち/孤独感」に襲われたりすることはない そうなのですね。。。 身体の構造、と言う物は、思った以上に「心の構造」に関与するのかも? 凸の構造の身体を持つ者は、全ての刺激に対してまず凸(相対的に優越部分?)を見出し、 凹の構造の身体を持つ者は、まずは凹(相対的に不足部分?)を見出すのかも? なんて、、、思春期に考えていましたっけ。今もそんな気がしています。 そのくらい、私には私の心の感受反応が違和感ありあり、だったのです。 続けてご指摘下さった、 >男性の場合、思春期にせよ、青年期にせよ、 >女性ほどには異性によって「孤独」を癒そうとはしたがらないかも この特性?も身体と構造から来る心の構造の違い?かも知れません。 バッハオーフェンとモーガンの著作が手元に届きましたので、 少しずつ読んで行きたいと思います。 最後の一行励ましのお言葉、ありがとうございます^^ 子どもたちと一緒に育って行きたいと思います。 ありがとうございました。