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性的唯幻論について。

最近、岸田秀さんの著作を読んでおります。 主に性的なものの解釈についての記述を追い掛けておりますので、文化論等は飛ばすと言うやんちゃな読みです。 岸田さんの性についての解釈。 これに、私としては今の所「論理の穴は皆無」と感じておりますけれど、 どうなのでしょうか? この彼の論理で、私はこれ迄自分が抱えて来た問題に解釈がつきましたし、 現状世の中にある様々な性の形も、説明がつく、と思えます。 岸田さんの唯幻論の論理に穴はあるのでしょうか? また、 読み進める際の注意点等ありましたら、ご教示頂けませんか? よろしくお願います!

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  • kadowaki
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回答No.17

yukkinn66さん、こんばんは。 >ホント、、、何故でしょうね。。。 そうなんですよ。 射精には理屈抜きに生理的快感が保証されていますし、しかも女性のヴァギナ以上にペニスに快感を与える器官もありませんから、たとえ大金を払ってでも、罪を犯してでもセックスしたがるわけです。 でも、女性は排卵や破瓜で快感を覚えるわけでもないし......。 >思春期特有の「人恋しさ」や「孤独感」も実は身体から来ているのでは?と私は考えておりました。 はい、確かに「身体」の奥からせせり上がってくるような、何とも名状しがたい感覚、衝動のような鬱勃とした力を認めないと、性的幻想を具象化する性的エネルギーの源泉は説明ができなくなってしまいますから。 >だから、自分の物だと思っていた自分の身体に迄「他人っぽさ」を感じます。 >まさに「ひとりぼっち/孤独感」。。。 思春期の少年の場合、ペニスという付属物に対しては、yukkinn66さんとは違った意味で「他人っぽさ」に近い感情を抱くかもしれません。 特に、こいつが性的幻想と結託しようものなら、とても純朴な少年には制御不能となりかねないところがあります。 でも、このことが少年の性自認を妨害したり、それ故に「ひとりぼっち/孤独感」に襲われたりすることはないと思います。 >人間って、とにかく「孤独に弱い」気がします。 >孤独を癒す為ならば何でもします!!と言うような。。。 はい、「孤独に弱い」点では男女の違いはないでしょうが、男性の場合、思春期にせよ、青年期にせよ、女性ほどには異性によって「孤独」を癒そうとはしたがらないかもしれませんね。 むしろ、同性からの、男としての評価の方により拘泥したがるような気がします。 その意味でも、男性は女性に較べて、性欲を外在的な欲求として意識する傾向があるかもしれません。 >私の解釈の根本は「したいのに出来ない」のは何故?から来ています。 う~ん、「したいのに出来ない」というケースは、臨床的な原因の場合と加齢による場合とに大別されるかと思いますが、いずれにせよ、深刻さという点では「何故だか分からないけど、とにかくする気になれない」というケースの方が上回るような気がします。 実際に、本サイトに寄せられる夫(男性)側レスに関する質問の多くも後者のケースに当てはまりそうですし。 しかも、妻(彼女)以外の女性相手だと「すぐに勃起する」ケースも少なくないだけに、女性の悲憤たるやいかばかりかと思わざるを得ません。 >それと私有財産の発祥と、男性の我が子所有欲を先のご回答で拝見しました。 >その「私有財産」と言う考え方の始まりがイマイチ掴めません。 >狩猟採集の時代から、農耕が始まった異によって、人間の所有欲と言う物が発生したのでしょうか。 >つまり「手間暇掛けて苦労して作り出した食糧は、人に上げるには惜しい」と言う感情かしら? これについては、とても詳述できるだけの余裕はありませんが、人類の脳裏にはじめて死の観念が宿ったとき、同時にこれに如何に対処すべきかという課題も突き付けられ、男性は《わが子》を欲しがるようになったのではないか、と今のところは考えております。 古来、われわれの先人たちは人の死を如何に受け入れるかをめぐって試行錯誤を繰り返し、神話や宗教もこの難題に答えるべく要請されたと考えられなくはないですよね。 で、「私有財産」といったところで、私としては、別にエンゲルスが説いているような意味においてではなく、われわれ自身が生きる過程で自らのアイデンティティを掛けて生み出してきたもの、という抽象的な定義しかできないと思っています。 思うに、自給自足生活時代には外界(たとえば土地)に働き掛け、そこから生活の糧(まずは食料)を得るという必要がなかっただけに、「私有財産」という観念も存在しなかったのではないでしょうか。 やはり、男性が外界に働き掛けることで作り上げた、生活の糧を得るための土地、道具、手段、権利等が「私有財産」の原型だったのではないでしょうか。 男性がこうした「私有財産」に「価値」という幻想を認め、これに執着するようになったのは、これは自分が産出した作品であり、かつ他人からも高く評価されたからでしょうね。 そして、自分が死んでも、この作品は死なない価値を持っていることを知ったとき、男性はこの「私有財産」の継承者を欲したのではないでしょうか。 要するに、わが子を産めない男は、死によって中断させられる自己の存在の連続性を求めて、自らが産出した《私有財産》を託すべき《わが子》を欲するようになったのではないかということです。 もちろん、継承すべき《私有財産》の《価値》といったところで、所詮男性の妄想(観念)の産物でしかないのですが、わが子にこの《私有財産》を世襲させることで、自らの連続性が確保されるかのように思い込んだのではないでしょうか。 で、《私有財産》を持った男性は、これをエサに女性集団(置屋)から次々とお気に入りの若い女性を落籍したとすれば、徐々に女性血族集団は崩壊せざるを得なかったでしょうから、こうして婚姻制度の原型(一夫一妻又は多妻)が誕生したのではないでしょうか。 さらに、自分でわが子を孕むことも生むこともできない男性としては、本物の《わが子》を確保したければ、女性に身勝手な性的戒律なり、道徳なりを押し付けざるを得なかったはずで、こうして女性差別の歴史がスタートしたのではないでしょうか。 >勝手に赤く実れる力を付けて欲しいし、その邪魔をしないでいきたいものです。 心配ご無用! yukkinn66さんのお子さんたち、母親のちょっとやそっとの「邪魔」ぐらいで歪められるほどヤワだとはとても考えられませんから。

noname#122427
質問者

お礼

年末に回答頂いておりましたのに、申し訳ありません! >「身体」の奥からせせり上がってくるような、何とも名状しがたい感覚、 >衝動のような鬱勃とした力 これは何でしょう? これこそが「本能」? うーーーん、、、、違うような気がします。。。。 欲望と本能も違うのですよね。。。うーーーん。。。 >でも、このことが少年の性自認を妨害したり、 >それ故に「ひとりぼっち/孤独感」に襲われたりすることはない そうなのですね。。。 身体の構造、と言う物は、思った以上に「心の構造」に関与するのかも? 凸の構造の身体を持つ者は、全ての刺激に対してまず凸(相対的に優越部分?)を見出し、 凹の構造の身体を持つ者は、まずは凹(相対的に不足部分?)を見出すのかも? なんて、、、思春期に考えていましたっけ。今もそんな気がしています。 そのくらい、私には私の心の感受反応が違和感ありあり、だったのです。 続けてご指摘下さった、 >男性の場合、思春期にせよ、青年期にせよ、 >女性ほどには異性によって「孤独」を癒そうとはしたがらないかも この特性?も身体と構造から来る心の構造の違い?かも知れません。 バッハオーフェンとモーガンの著作が手元に届きましたので、 少しずつ読んで行きたいと思います。 最後の一行励ましのお言葉、ありがとうございます^^ 子どもたちと一緒に育って行きたいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (26)

  • kadowaki
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回答No.16

yukkinn66さん、こんばんは。 >性行為/生殖行為の結果が、出産と子育て、ですね。 はい、人間だけが「交尾⇒妊娠」の因果関係を知りつつ「性行為」をする動物ですからね。 しかも、昔に遡れば遡るほど、妊娠・出産は女性にとって命がけの難事業だったでしょうから、男性と性交渉を持つからには、それなりの覚悟を求められたのではないでしょうか。 それだけに、一方的に命がけの「出産と子育て」を課される女性が、どう考えても割に合わない「性行為」を何故したがるのか、思春期の私には不思議で不思議でなりませんでした。 学生時代、江戸時代に「難産色に懲りず」という落首があったと教わりましたが、周囲の女子学生の顔を見回してみる限り、とても信じられませんでした。 >超未熟児で生まれねばならないから、その後の重労働(育児)が生じる。 はい、だからこそ、後世「子は鎹」という名言が生み出されたのでしょうね。 また、人間以外の動物のメスが交尾時以外にオスを必要としない所以だと思います。 >本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。 >この段階で、本来拮抗する筈の無い「本能の対立」が、内側から?本能を破壊したのではないでしょうか? ここは「凄い!」と申しますか、一種の迫力さえ感じさせられました。 女性は、ある意味、わが身及びわが子のサバイバルを最優先した結果、本能による「性行為/生殖行為」を退けたということですよね。 >本来は「不能」等無かった本能の人間の男性を、不能にしてしまったのは、女性の妊娠対策を目的とする「性行為の選択」ではなかっただろうか、と考えます。 この点については今一理解できないでいるのですが、私が考える男性の「不能」というのは、乳幼児期段階の性欲がまだ抽象的、かつ全方位的な快感欲(多形倒錯)の段階に留まっていること、つまり勃起したペニスを女性のヴァギナに挿入し、射精するという明確なセックス欲の形を取るに至っていないという意味においてです。 この、もともと抽象的で多形倒錯的な性欲が、成人女性のヴァギナを指向(嗜好)すべく収斂されていくためには、男児が成人するまでに過ごす性的環境(家庭・学校・社会等)から適度な性的禁止と性的刺激を交互に受けることが必要不可欠ではないのか、と私は勝手に考えています。 たとえば、思春期の女子生徒が「エッチな男子なんか大嫌~い!」と言いながら、同時に胸を寄せてアップしたり、胸の谷閒をちらつかせたり、ミニスカートを履いたりすることが、たとえそうと意識しないにせよ、結果的に男性の性欲を育て、かつその嗜好傾向を規定しているはずです。 >人間の共同体は、最初はやはり「女性集団」だったのでしょうか。。。 >それとも男性を含む「血族集団」だったのでしょうか。。。 人類の初期段階では、女性が苛酷な自然環境下で生き残るためには、やはり血族中心の集団生活以外には考えられないと思います。 なぜなら、一夫一妻制では夫の留守中の妻子の安全は保証されないし、一夫多妻制では夫が多くの妻子を扶養・養育しなければならない必然的理由が見出せないからです。 >ペンギン等は、雄と雌が交代で卵を抱きますね。 鳥類でも、カモ(アヒル)、ニワトリ、キジの仲間ですと、ヒナは孵化と同時に元気に走り(泳ぎ)回り、すぐに親と同じ摂餌行動を示しますから、メスしか育児はしませんが、その他の多くの鳥類ですと、目も見えなければ、羽毛も生えていない状態で孵化しますから、ペンギン同様、オス・メスが協力し合って子育てせざるを得ません。 なお、オシドリ夫婦は交尾が終わった時点でカップルを解消し、翌年別のオス・メス同士でカップルを形成しますので、人間のカップルのような《マンネリ》の心配はありません。 >部族に数人の男性は、毎夜代わる代わる女性に種付けをする仕事のみ。 私としては、集団中の若い女たちが男性の性的相手を勤め、花代となったのは女性には入手困難だった動物性蛋白質(食料)ではなかったかと妄想しております。 また、年増の女性たちは、もっぱら若い女たちが産んだ子供の育児、食料の採集、その他の家事等に従事していたのではないでしょうか。 中でも最も指導力に富んだ年増の遣り手が、後世の置屋の女将さながら、族長として集団を統率していたのでしょうね。 ギリシャ神話のアマゾネス伝説にしても、案外こういう元ネタがあったかもしれません。 >こんな説の本はご存知ありませんか?無いのでしょうか。。。 バッハオーフェン『母権制』、モーガン『古代社会』(未読)、江守五夫『母権と父権』などが有名どころかと思いますが、いずれも神話時代を話題にしているだけに、確たる根拠に基づいているとは言い難く、せいぜいどの説がより整合性を備えているかということで評価も分かれるのでしょうね。 >二人の息子を育てる現在、「異性の親に育てられる男の子が直面する最初の状況は、まったく無知無能な自分が圧倒的に強い全知全能の(と幼児には見える)女に全面的に依存し支配されているという屈辱的状況」この「異性の親に育てられる」事の難しさ、が強い緊張感を持ってこびりついて来ます。 いや、「屈辱的状況」どころか、母子一体感は男児にとって至高の快感だと思います。 この母子一体感を「オイ、こいつはオレの女だぞ!」と父親が無理矢理介入してきたとき、男児はいわゆるエディプス・コンプレックスを覚え、同時に父親をモデルにして性自認をスタートさせるようです。 >どちらにしても難しいです、子育て。。。 はい、同僚たちと子育てが話題になると、いつも「親はいても子は育つ」という自嘲で意見の一致を見ます。

noname#122427
質問者

お礼

補足欄にて失礼します。 纏まり無く、無駄に長くなりました。。。 ご回答、ありがとうございました!

noname#122427
質問者

補足

kadowaki様、こんばんは。 すっかり遅くなりまして、申し訳ありません。 視点論点満載の回答にたじたじ、、、と言うのもありますが。。。^^ >一方的に命がけの「出産と子育て」を課される女性が、 >どう考えても割に合わない「性行為」を何故したがるのか、 ホント、、、何故でしょうね。。。 恋、と言う「性/生殖の為の幻想」の効果覿面!と言う事でしょうか。 女性は恋に憧れる事で性をどうにか許容して行く、と言う感じがあるようです。(私はよくわかりませんが。苦笑) 只、、、何て言うか、こんな事を書くのも気が引けますが、 「身体が呼び」ます。(汗 思春期特有の「人恋しさ」や「孤独感」も実は身体から来ているのでは?と私は考えておりました。 夕方、えろカテにて、つい投稿してしまったのがこちら。 女性の方、この感覚は何でしょう? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5549819.html  #1 >> 何かが足りない感じ。 何かを身体が呼んでいる感じ。 声にならない衝動のような叫び。 具体的には、男性器を受け入れたい欲求。 受け入れると身体の不足分が満たされる感じでホッとします、ね(苦笑 >> あーーあ、、、何だか、、、(恥 思春期は成長期でもあり、性徴期でもあります。 自分の身体でありながら、自分の意志に関係無く、認識も追い付かない早さで身体が変化します。 だから、自分の物だと思っていた自分の身体に迄「他人っぽさ」を感じます。 まさに「ひとりぼっち/孤独感」。。。 だから、 >何かが足りない感じ。 です。 あ!もしかして、この時期男性は「足りない」ではない感情を抱えるのでしょうか? 勿論、身体の変化だけでなく、人生に対する意気込みや自己改革の必要性を実感する、とかも其処に要因として加わりそうです。 人間って、とにかく「孤独に弱い」気がします。 孤独を癒す為ならば何でもします!!と言うような。。。 そんな状態の所に、何らかの性情報が降り掛かる。 「おおーーーこんな方法もあるのか!」試してみる価値はある?とつい思ってしまう。 昔は(青年期と言う物が設定されていなかった時代は)、その時期が結婚適齢期だったり、しましたよね。 そもそも、「生殖能力がある」にも拘らず、「それを使わせない」と言う方が生物としてオカシイです。 猛る冒険心/好奇心、或は孤独感の前に、妊娠の不安等吹っ飛ぶ。 が実情かも??(乱暴な展開です。。。 これぞ「経験不足」。 知識に経験の力等、遠く及びません。 、、というところかしら、と思います。 >女性は、わが身及びわが子のサバイバルを最優先した結果、 >本能による「性行為/生殖行為」を退けた おそらく、生殖か?生存か?の二択を始めたのは女性。 これはそれ以外考えられないように思います。 >私が考える男性の「不能」というのは、 あはーー、、、私は其処迄考えていないのです。(大汗 これまた卑近な日常?の話で、 私はOKを示し、相手もよっしゃ!となり、 それなのに何らかの要因で相手のペニスが勃起しない。。。 またはその逆の事態にも。 そこそこ長く性的に付き合っていれば、必ず遭遇する事態かと。 「やる気に本能が追い付かない?」と言う、その事態を意識して「不能」を解釈しておりました。 (あーーー何だかどんどん「えろえろ女質問者」になって行く。。。) その卑近な現象から、思考範囲を広めて行って、kadowaki様のおっしゃる「幼児期の他形多錯的性欲」に辿り着いております。 私の解釈の根本は「したいのに出来ない」のは何故?から来ています。 それと私有財産の発祥と、男性の我が子所有欲を先のご回答で拝見しました。 その「私有財産」と言う考え方の始まりがイマイチ掴めません。 狩猟採集の時代から、農耕が始まった異によって、人間の所有欲と言う物が発生したのでしょうか。 つまり「手間暇掛けて苦労して作り出した食糧は、人に上げるには惜しい」と言う感情かしら? それ迄は、要る物を要る分だけ集める。 集めて来た食糧が手元にある「保存期間」と言うものが無かった/短かったから、 「自分の物」と言う意識が生まれなかった、と言う事でしょうか。 >バッハオーフェン『母権制』、モーガン『古代社会』(未読)、江守五夫『母権と父権』 今、先の二つを図書館に予約してみました。 江守さんの本は所蔵が無いようで残念。 >「親はいても子は育つ」 俵万智さんが「勝手に赤い畑のトマト」と歌っていました。 勝手に赤く実れる力を付けて欲しいし、その邪魔をしないでいきたいものです。

  • entahu2
  • ベストアンサー率23% (4/17)
回答No.15

セックスの問題は、東洋医学が大昔に発見した気脈の世界をイメージすれば解決します。 おそらく もともとその医学(ツボの世界)を発見した人たちは、その事を知っていたと思います。 最初は 無心に人の肌上の痛いところをさすってあげたりしていたのが、やがてその箇所を押すと痛みが一気に消えたり、自然治癒力がたかまったり、体のバランスが取れてくること徐々に発見していったのでしょうが、  それは やがて、芸術やセックスの世界にも通じる気脈の世界の発見につながっていったはずです。 中国のセックスの書物は、 別にその点について書いてません。 せいぜい体位ぐらいのことをもっともらしい理屈をつけていたりする程度です。 現代のお医者さんのいう性技の世界のほうが 少しましかもしれないという程度です。 ですけど、 気脈の世界は、  自然なフィーリングの世界とピッタシ通じています。 例えば、 気脈の最後の最後は、胸の下脇のあたりから体の中を通過して(針治療とかでないのでピンポイントではないです) 両眉の付け根のあたり(眉間の両脇あたり)に、抜けて表に出てゆきますが、 この胸の下脇あたりは情愛が通う場所ともいえます。 気脈は そのほかのすべてのの流れが体の表面を通っていますが、 そこから内部に入って眉間の方向に向かう気脈は 喉の奥の『全体的性感帯』とでもよぶべき地点を通過します。 これはまた、 頭の真上のの百会(ひゃくえ)のツボと、 ありの門渡りとも言われてるおしりのほうツボの間を流れる これは気脈というよりもヨガのクンダリーニに近いものと思われるのですが、 その線とつながって、これが喉の『全体的性感帯』のところで、 セックスの時に重なります。  感覚的に重なるのであって、機械的なものとは違います。 イメージとかで捕まえてみてください。 それだけでも役に立つかと思います。 いろいろ論理とかあるのでしょうが、 まず実践が先だと思います。 男も女も、まずこの喉の奥の『全体的性感帯』を掴むべきです。 男が男根という部分だけにとらわれるのはこの 全身的に波及する性感帯を知らないからです。 不能は、文明病の一種だと思いますが、 これで治ります。 また、 男が男根と膣にとらわれなくなれば、 資本主義が作り出した幻想として揶揄されている女性所有欲(裏返しで女性にとっては男性所有欲)も消えます。 岸田氏の言われる「幻想」に頼る必要はなくなります。 本能自体が快復するとかではないです。 そんなポチョッと出ておしまいであるような生殖本能があったって意味無いし、人間の発達した性の世界に、そんな後戻りは必要なしです。 全身でいかに 深い快楽を享受できるかとか、その後がぽしゃるとかではなくて、静かな安らかな気持になれ、芸術を高める根源の1つ(ご議論の自然性と言ってもいいのかな)にすることができれば すべて解決するとおもいますよ。 もちろん欲望だって そんなふうに深く感じている時にはいやらしくないですしね。 ひねくれた覆い隠しによって、資本主義の醜い部分を使わなければ、不能が快復しないといったこともなくなりますし 、  そこから自信を取り戻して、 人間はこれからの新しい資本主義を模索してゆけばいいのですよ。 そう思いませんか? 過去は過去です。  そして間違いはどうせ誰にでもあるんじゃないですか?(資本主義についてもです) 未来に向かって進んでゆきましょう。 ごめんなさい。 Okウェブ、リニューアルに伴い、じつはパスワードを忘れていたので、最初から登録し直したのですが その時エンタフ2とハンドルネームを変えました。 (arayata333です) リニューアル後の紙数が短いことを知り、 気にしながら書いています。 体の不調は、疲れと風邪の重なりから来たもののようです。 睡眠を多くとったらかなり快復しましたから。 今回 一気に 気の問題に少し触れましたが、 いつでも そちらのペースにあわせて質問なりしてください^^。 寒くなりました。 お互い まず健康に気をつけていきましょう。

noname#122427
質問者

お礼

あらやた様改め、えんたふ様、ご回答ありがとうございます。 先に頂いておりますご回答に返信しましたので、もしお気付きでなかったらよろしく御願いします。 突然実践的な回答を頂き、ほほう!と喜ぶ質問者です。苦笑 >男が男根という部分だけにとらわれるのは >この 全身的に波及する性感帯を知らないからです。 どうして男性が男根の性感にのみ、囚われてしまいがちか?も書かれていましたね。。。 互いに互いの幻想を見つめる事さえ出来たら、問題は解決に向かうのでしょう。 そうは言っても、 >もちろん欲望だって そんなふうに深く感じている時にはいやらしくないですしね。 深く感じてしまう為には、女性側としては妊娠の心配が最大の障壁なのです。 整然と巡るように見える生理周期も、確実では無し。 避妊技術は確実性を増しているとは言え、不確実要素は確実にありますし。 そもそも、生殖行為に生殖以外の意味を見出してしまったのが様々な歪みの根源とは思います。 そうは言っても、、、うーーん。。。 >そして間違いはどうせ誰にでもあるんじゃないですか? >(資本主義についてもです) 以前の質疑でも「明るく大らかに」と指し示して頂きました。 それを忘れずに生きたいと思います。^^ 御大事になさってくださいね。

回答No.14

たびたびすみません。 ちょっと体調を崩したようですので、ネット活動をすこし休みます。 たぶん、風邪だと思いますが。 もちろん 治りしだいもどってきます。 あと こちらから今現在できれば書いておきたかったことは、 私自身の恋の体験のいくつかです。 それ自体には、 永遠の恋?とかいう観念は無かったですし^^、岸田さんは実際に恋した体験があるのかな?とも思えたりしたところなのですが、 恋によって たしかに私は あるとても狭い心の世界に陥り、 あとでよくかんがえてみれば まさに醜い心の姿をそこに露呈していました。 そのへんの告白をしておきたかったのが1つです。 あ、 あと5分しか時間がありません。 えと、 あと、 ともかく、私の最初の回答はルックマンのあたりと関っているようですし、 二回目、つまり昨日の回答は》自然本性《の論議と関ることだと思います。 ご議論の進展をお祈りしています。 しばらく休みますが また戻ってきます。 今回は、Okウェブからの退散ではないので、つづきの内容は また別な場でも憶えてさへいれば続けられるかと思います。 arayata arayataをどうか憶えておいてください^^。

noname#122427
質問者

お礼

体調崩されたとの事で心配しております。 良くなられてもこの寒さではあまり楽にはなりませんね。。。 あ、、、寒さの苦手な私です。熱いのは平気。^^ >岸田さんは実際に恋した体験があるのかな? ふふっ。。。 無さそうですねえ、、、とは限りませんが。苦笑 性的に関わらず、文化その他の唯幻論も、岸田さん自身の抱えて来た「家族の問題」を解き明かす為、と言うのが始まりだとか、どこかで読んだ気がします。 >恋によって  >あるとても狭い心の世界に陥り、 >まさに醜い心の姿をそこに露呈していました。 物心ついて以来、私は「一貫性」が好きです。 好き、と言うと変な感じですが、何て言うか、、、 「相手に依って態度を変える」とか「本人にはにこやかにしておいて、陰口を言う」とかがダメなのです。 その辺りから派生して、「一貫性好き^^;」なのですが、 その感覚から感じると、恋と言う物の偏狭さは堪らなく我ながら嫌いでした。 それなのに「落ちる」、、、 なんちゅーー理不尽!と自分に自分で腹を立てていた事が数知れず(いえ、数回だけです。。。見栄張りました。汗) この理不尽と言う一貫性の無さ、その理由と原因。 それを解き明かすには、性はよけて通れません。 で、性の問題に正面切って挑むと、これまた意識の表層に上がって来ない様々な疑問と問題が見えて来ます。 岸田さんの説で、ひとまずの解釈がつきましたので、 論の穴の有無は、今後私自身が生きて行きながら検証し、穴があればそれを埋める解釈を見つけて行くのが良いのかな。。。 何だか、独り言になっております、御赦し下さい。 ありがとうございました^^

回答No.13

yukkinn66さん、今晩は。 たびたびすみません。 やはり私は 私らしい回答を書きますね^^。 “子どもの頃のこの体験談”はすでに、以前のそちらへの回答の中でも書いたかもしれないのですが、  ここにも当てはまる体験談ですので、もしかしたら重複になるかもしれませんが、 書いてみます。 私はとある大人によるいじめで 病弱となり 心身を相当痛めてしまったのですが、 廃人になりかかった時に、 両親も気がついてくれたし(それまでは訴えても信じてもらえなかった) 転校することができ、 その転校先から とある海辺の近くの虚弱児施設に入ることが出来たという地獄のような体験もあるのですが、  その虚弱児施設での体験は 真逆に天国のようでした。 その両方とも、詳しく書けば長編の物語になりそうなほどで、ここにはもちろん略しますが、 この対比があったからこそ、 よけいにその頃の素朴な虚弱児施設が、私の心身の記憶により深く刻まれたのだとも思っています。 おおらかで優しい先生方に囲まれ、また素朴な子ども達の友達たちにも恵まれ、 書けば山のように楽しい想い出がある場所だったのですが、 先生方のおおらかさのあたりで おもしろかったのが、  子ども達が砂まみれとなって 夕方大きな湯船の風呂に入る時間となると、 先生方までなんと、男女の区別無くお風呂に入ってきて、 湯船の中では子ども達とお湯をかけあったりしておはしゃぎし、、湯船の外では 体を流し合ったり 背中を洗い合ったり、 体の洗い方を教えてくれたりしていました。 もちろん、子どもの私たちも男女の区別無く入るのですが、 じつは他の場では私たちはけっこう男女を意識もし、 まだ小学生のくせにかわいい恋はかわしあったりもしていました^^。 ですが、 このみんなが裸になりくったくなくはしゃぐこの風呂場の中ではだれもが男女であることを忘れていたと思います。 ほんとうは、 当時流行った紙石鹸の香りのことなど、その場面だけでももっと詳しく書きたくなってしまうところですが、 ここは先をいそぎましょう。 こんな共同生活の中での 男女意識の芽生えの世界とかについても、 まずは、 これとあまりにも対比的なとてもおもしろい体験事例を書いた後に分析してみましょう。 ほんとうに楽しいこと(大人のウサ晴らし的な楽しみとかストレス解消のための大騒ぎとかは、その逆なのですが)があると、 時間はとても豊かで長い時間として感じられます。  この時間心理についても詳しくは略しますが、  何と言ったらいいのか、 私の記憶ではすくなくとも4年間はそこにいた記憶になっているのですが? 実際には4ヶ月でわたしはすっかり丈夫になり、 次の入施設者と交代する時期に そこを卒業しています。 ですが そのたった4ヶ月がどれだけ私の心身の中に深く刻み込まれた体験だったかは ここになんとなくでも感情移入しておいてください。 その後私は、 私に虚弱児施設を紹介してくれた転校先の学校に戻ることになったわけですが、 そこは東京都内の かなり大きな普通の小学校でした。 しばらくして、その小学校で身体検査があったのですが、 もちろん それは男女別々で検査する形でした。 が その身体検査のとき 先に検査した男子組みが終わって 女子の身体検査が始まったばかりの時、 わたしは 身体検査の場所に書類を忘れてしまったことに気がつき、  あわててパンツ一枚になっている女子たちをかきわけ、「すみません、すみません」と その真ん中まで突き進んでいったのです。 その場は 大混乱が起こっていました。  きゃああああああ、 アアアアアア、 ワワワワ、 の大合唱です。 でも  でも 当の私には、いったい何を騒いでいるのか 全く解からなかったのです。 後から 担任の先生から呼ばれ どれだけ怒られたことか! しかし、ふだんかなり優しいあまり怒らない先生が それでもなお、何で怒っているのか?  私には 全く 全面的に理解が出来なかったのです。 その後 一年経って、始めて、 「「そうか そういうことだったのか」」、と事のしだいを 子どもながらあの虚弱児施設での風呂場の体験と比較して納得していました。 つまり 私にも 後者の騒ぎの気持が 時間の経過とともに 手に取るように^^わかってきたというしだいでした。 では、さっそく、 この極端な二つの体験から考えられる比較分析を書いていってみます。 「性的唯幻論序説」の中で紹介されているフロイトの理論については、あまりにも荒削りかつ概念的に思えて何が言いたいのかどんな価値があるのか見えてこないのですが、 これは私自身がフロイトについても精神分析についても学習したことがないので そのへんの脈絡がわからないだけかもしれませんし、 今の今はなんとも言えませんので略します。 でも おそらくyukkinn66さんは、「性器期」に入る手まえで、まさに女性を認めた女性の典型でもあったのではないでしょうか?   それがまず、 この本にyukkinn66さんをのめりこませた要因として大きかったのかもしれません。 ですが、 でありつつ、 文化性の違いは このリビドーの理論?を越えて子ども達にまで大きく影響している点は 視点として忘れてはならない視点だと思うのです。 虚弱児施設での くったくない男女の体意識の体験は、 この「性的唯幻論序説」から考えると、 《江戸時代にも 見られた、日本人のもともとのおおらかさや、くったくのなさ》について書かれている分析があたるところかと思います。 が明治の時代がやってくると いきなりそのへんの意識が変わり始めたとのこと。 そこで明治の時代になっての富国強兵策とか文明開化の流れで 急速に近代西洋の意識が流れ込んでくると、 そこに不能対策としての家族政策が行われたという分析は、 人間は不能な動物という仮設をたてて物を書いている岸田秀さんの表現パワーがもっとも発揮されているところかと思います。(家族政策が事実あったかどうかを問うているのではないと断り書きをしている点も、岸田秀氏らしい表現なのでしょう) 身体検査の場での あの騒ぎは、 その「文化意識」が子どもたちにも まさに「家族」を通して伝わっていたことによるものなのでしょう。 一方、家族から離れた社会の中では その意識が消えていた。   これは そういう現象の体験でもあったのだと、ここに改めて思わされました。 わたしのその体験からも解かるように、 文化による「性意識」への巨大な影響、 このへんはあまりにも明白な事実性を物語っているかと思います。 にもかかわらず、おそらくアカデミックな学問の歴史の中でこれだけはっきりしたその影響の因果を語ったものは 少なかったのではと思われてもいます。 岸田秀氏のそのへん分析の功績は確かに大きいのでは、 というふうにです。 とくに、資本主義の作り出した家族幻想が、いかにレイプや 逆に恋の意識の中に強く影響しているか? そのへんが 鮮やかに見えてくるところだと思えたのです。 それを「人類が生き抜く意志」ととらえるとなると 私は否定的になってしまいますが、 これとて、マックスウェーバーを知らない私には、今のところはなんとも言いがたい気もします。 ただ、ここで、  》唯幻論の理論に穴はあるでしょうか?《 という質問内容にもどれば、 ここには、もっと大きな人類史的視野が必要なのでは?というあたりの注意点は必要かと思います。 そして そのあたりが けっこう他のみなさんの回答内容と重なるところとなるかと思うのですが、 同じ言葉を使うのは避けておきますが、やはり、もともと猿から進化したばかりの(その過程についての推論考察は略します)人間は けして本能も動物と較べて(それ以前の猿の状態から較べてということですが)劣っていたわけではなかったはずだというのが私の考えで、 そういう自然の中森の中に暮らしていたまだ言葉を獲得していない段での人間たちは、 本能は本能として持ちつつそれを「みつめる脳」をもった人間として、《不能とは関り無く生きていた》と思えるのです。 ほんとうは そのあたりこそ詳しく書きたい気持になりますが、ここは略しておきます。 簡単に書きますが、 言葉という記号の世界からも 物事を比較検討しそれを「みつめ」る力を獲得して そこで始めて「文化」を獲得していったというあたりの文明史こそが、 その反省能力をも高め私たちの文化を進展させてきたわけですが、 そこに生まれた左脳こそが、 もともとの右脳(自然な感性の故郷を感じる脳)を覆うようになり、 不能はそのあとに生まれたというのが 私の考えです。 が、いったん文明が発達したからには、文明と不能の分析も当然そこには必要だったところ、 それを誰もしてこなかったから 岸田秀の表現の世界が生まれたというふうに考えられないでしょうか? 岸田秀氏ご自身は 本気で「人間は本能の退化した動物である」という点を論理として信じきって書いているのではないような気がします。 そこをたんたんとひょうひょうと そのように表現して文章を「見つめて」作り出している人という印象を受けました。 だとしたら、わざわざそこまで理論をひねる必要は無いのではないかとも思われますが、 おそらく 「性的唯幻論序説」の最後にも明らかなように、 いままでの資本主義の醜さへの 彼流の批判というふうに読むのが正しいと思えたのです。(やんはりと、しかし鋭く、 しかしてまたオブラートに薬を包み込むかのような…) 幅広く かつ重用な指摘でありつつ、 が 哲学というよりは やはりエッセイなのだろうということにもなるのでしょうか? 体内(子宮)回帰の希求のこととか、母親の支配欲のあたりの怖さ(家族病理の臨床例としてそのあたりのとても怖い例を読んだことがあります)のこととかを絡めていますが、そのへんは、フロイトのあたりが曖昧なのとおなじように私には曖昧な記述に思えました。 また、    ライヒという 性解放の立役者として浮かび上がらせている心理学者のあたりについても、ほんの数行しか書かれていなくて気になってしまったところなのですが、 その心理学者の言う《健康な性》が 本物ならばまさに 資本主義社会の問題ももちろん不能の問題も解決しただろうと思えるところ おそらく その主体的観点は、 まさに資本主義の作り出した“欲望の醜さ”のあたりを見抜けなかったのだからたいしたことは無い、というふうに言っているようにも読めてしまいますね。 それも一表現とはいえ、そのへんは、かなり 気にかかります。 全体として 「穴」と思われる点は それでもやはり、(イ)自我の殻を突き破る世界こそ性解放の世界と関ると思えるのに、そのへんが論点として抜けている点と、 (ロ)言葉以前の人間の感性の世界(自然な人間の姿)のあたりも、 わざとであれ抜かしすぎ^^というふうに思える点です。 (ロ)のあたりを、みなさんがそれぞれの言葉で指摘しているように思えてなりません。 そのあたりを注意して読んでいけば これはかなりの幅の広い豊かなエッセーとして読めるのではないでしょうか? また まさに「序説」とあるように、 この長い文の全体が これからさらにひっくり返るようなどんでん返しが待ってもいるようにも思えて、 そのへんが巧妙というか 軽妙というか 岸田秀の面白さなのかなとも思いました。 これを機に、 岸田氏の他の著作物も読んで行ってみたいとも思いました。 yukkinn66さんのおかげです^^。  ありがとうございます。 私の方からは以上を回答とし、 (1)自然なもともとの、言葉以前の人間についての人類史についてや、(2)これからのそのあたりの文明の方向について、 (3)またこれからの資本主義社会についてとか、 (4)これからの性文化についてとか、 については、 たくさん書きたくなることはありますが、 そのへんはご質問があれば 私なりの回答をここでもさらに書いていってみることにします。  (質問してくだされば ありがたいです) 以上です。 楽しい時間を過ごさせていただきました。 これからも 宜しくお願いします^^。

noname#122427
質問者

お礼

既に幾つも丁寧な回答を頂いており、すっかり焦っております。 ありがとうございます。 虚弱児施設でのお風呂のお話と健康診断の時の大騒ぎ。 一年前の質疑でのやりとりの中でも、強い印象で記憶しております。 >つまり 私にも 後者の騒ぎの気持が 時間の経過とともに 手に取るように^^わかってきたというしだいでした。 これもまた、不思議な様で、実は日常に溢れて気付いていないだけ、な事なのだ、と言う事が色々と考えてしまいます。 私は性的唯幻論を、とにかく自分自身がこれ迄得て来た「性に関わる大小の体験」を、その謎を解く為に照らし合わせて読んでいます。 それこそ、18歳の私に「キスするよ?」と言いながら、私は何もしなかったのに、結局キスしなかった男の子。 彼が何を考えていたのかな?考えさせられていたのかな? とか、そう言うくだらない程「当たり前の風景」の謎解きです。 >それを「人類が生き抜く意志」ととらえるとなると 私は否定的になってしまいますが、 これは、資本主義から生まれたひずみやそれ以外にも色々とある「辛さ苦しさ」とか「歪み』について、でしょうか。 私はそもそも「生きる」と言う事に「意志」を持ってしまった事が、動物と人間の大きな違い、と感じるのです。 「只生きている、だから生きている」と言う状態と比べて、「生きたい/生きねば」と言う「意志」は、それだけで世界の認識を歪めるように思います。 その歪みが、現状の様々な苦しみや辛さや歪み、なのだと思っています。 >岸田秀氏ご自身は 本気で「人間は本能の退化した動物である」という点を論理として信じきって書いているのではないような気がします。 >そこをたんたんとひょうひょうと そのように表現して文章を「見つめて」作り出している人という印象を受けました 同感です。 「本能が壊れている」は、其処迄広々とした意味を含んだ表現ではない気がします。 只「こう表現するのがしっくりくる」とか「範囲を限定してこう表現してみた」と言う感じ。 でも、何であれ「深い思考」と言うものは、何故か「普遍性」を帯びます。 限定範囲で考察しただけなのに、ちょっと発想をかえてみたら他の事にも応用出来る事って、多々あります。 そういう風に岸田さん自身も、思い付いた論理を当てはめる範囲を広げて行った、それだけかな、って。 いつもありがとうございます。^^

回答No.12

ごめんなさい。 今 No:11に書いた私自身の回答を読み返してみたら とても解かりにくい文となっていました。 自分自身は書いている意味を解かっていても これでは他の人への表現としては失格だろうと思います。 おそらくですが、 アカデミックな哲学の世界を知らない者の劣等感の裏返しによる焦りのようなものがあったのでしょう。 こんな場で、「負けてたまるか」みたいにやっきになったってしょうがないのにね。 わたしにも、変なプライドが残っているのでしょう^^。 (yukkinnさんのダーリンがうらやましい^^) で、 書き直します。 でも きょうは書き始めるのが遅くなってしまったので、 明日にさせていただきたいと思います。 なお そのNo:11の文の中ほどの部分に あまりにも言葉足らずと思える点がありますので、 その辺だけ付け加えておきます。 《ふつうの質問は こんな長文の文章に対する質問ではないわけです。》の部分なのですが、 これは 本を読んでいる人が前提の質問ですので、 そういう形になっているのですから それをなんら批判したものでは無いわけです。 でも この文からはそんな批判の印象を受けてしまいかねないですね。 ま、そのような文となってしまったということは、 よほど苦労して読んだ^^ということなのでしょう。 (隠してる愚痴が表に滲んで出てしまった^^のか?) じつは2日ほど風邪も引いていて頭も痛かったですから。 もう 大丈夫です^^。

回答No.11

yukkinn66さん、これは私にとってはですが、いろんな意味で読んでよかった本だと思いました。 kadowakiさん、yukkinnさんありがとうございます。 以前「速聴」の訓練をしたことがあり、 そのせいもあり本を読むのは早い方だと思っていたのですが、今回はいろいろありけっこう苦労しました。 興味がなかったらとてもまだまだ読み終えていなかったでしょう。 つい先ほど、 仕事が終わった暗い作業所の明かりの中で最終のあたりを読み終えたばかりです。 私の考えは このような肉体労働者からのものなので、 ルックマンとか丸山圭三郎とかいう人の本とかもまったく読んだことがないのですが、 《たぶん》本質的考えは似ているかと思います。 《たぶん》を強調しておきますけどね^^。 ともかく、私の方からの回答も 個人の主体の成長の世界とか自我の殻を越えた世界とかについて、著者は文をはしょっていると感じたことを主軸としては書きたくなっています。 でも著者 岸田秀(きしだしゅう)の文は 理論そのものではなく理論を巧妙な文で操っているところがあり、 ややこしいというよりも すべてがかなり高度な起承転結のどんでん返しをめざした文となっていて、 面白くかつ深く読めるようになっているようです。 最初に私が回答番号No:2で書きました、「性的唯幻論」というタイトルから受けた印象からの疑問は撤回します。 なぜなら 一番最後の方に彼が書いていた その《幻》というのは、 [性の歪みが “作られた幻想”によるところが多いことをほのめかす文]となって結ばれていたりするからです。(よほど醒めて 書いていないと書けない文だと思うのです) そのための 表現として ひとつには人間は不能となってしまった動物という一見無理な論理と思えてしまいそうな仮設を置いて出発したのだということも、 ここでわかってくるという仕組みとなっていると思いました。 つまり 岸田さんご自身はけっこう 人間が不能になったいう説をある学者(今手元の本が無いので)の 猿が退化したのが人間という説から影響を受けているように書いていますが、 これとて、もしかしたら、そうは思っていないのではないか?と思えてきてしまっています。 ですので、私の意見は岸田さんへの反論として読むのではなく、 “それと関わりつつもそれとは別な”性に関するまた性を考える《観点や視点》というふうに読んでくださるといいかと思います。 》人が人類が「生き物として」、己の生存を掛けて生み出した「生きる術」だったのだ、と思えたところで恨みがましさは消えました。《 このyukkinnさんの希求に、 しかしながら 岸田秀の「性的唯幻論序説」だけでは すべてを答える《観点や視点》がまだ足りないという気がしているということでもあるのです。 赦すということならば さらにもっと大きな視点が必要かと思うのです。 さらに人類史的な観点、 そこを私なら問いたいです。 例えば 私はウェーバー(だったと思いますが)の資本主義論の世界を知りません。 でも そういった学者達の本を読めばたしかに、 悪のそのへんの因が解かり、因が解かればそれを赦す知性も働く ということとかはあると思いますし、すっきりもし、心も明るくなるところでしょうが、 少なくとも「性的唯言論序説」の中でのそのへんの解説では、《人類の生存を賭けた意志》として始まったことではなくて、 そんな理念よりも お金に盲目となっていった因果をそこに見てしまいます。 女性の中のけっこう多くの人が そこからの女性差別の世界の因果でいろいろな苦しみを実際に受けているわけです。 ビクトリア朝時代でしたっけ、 その前後の時代の、ともかくあのようなキリスト教会の時代にて、 どんな酷い仕打ちを夫から受けてやっと命からがら逃げ出した女性が 神の権威?で(神が愛なら権威なんて必要ないのに??)捜索され見つけ出され引きずり戻されたこと、 結婚の相手とは「恋愛」?しなくちゃいけないという絶対法則、 それが つまり 資本主義の、しかも少数の人の金儲けのために、さらに強化された形を どうして 人類の意志と言えるのでしょう? 資本主義が 結果として人類の安定の大きな力の一助となっていることと その動機の世界とをここでは分けて考える必要があるのではないでしょうか? これからの私たちの社会、 これからの資本主義の世界のあり方を問うためにも、 ここはゆっくりと ひとつひとつ、 ことの真実を追いかけていってみたいと思います。 ふつうの質問は こんな長文の文章に対する質問ではないわけです。 もちろん その長文を読んだ人の感想を求めてのものであれ、 これはじっくりと回答してゆく形の回答とならざるをえない またそうしてこそ価値のある回答となることができるような質問の部類の1つと 私の方からはかっての捕らえさせていただき、  今日はこの問題、 次は別の問題とうふうに すべてをからめつつも、できるだけ順を追いつつ 分けて書いていきたいと思います。 きょうは、 まず、 では たとえば それほどの教会権力のあった時代にも 庶民はどうだったのか?という点について、岸田さんも触れてはおられるところですが、もう少しつっこんだ私の考えを 追いかけ始めてみたいと思います。 たとえばyukkinnさんの旦那さんのような(この議論の中では旦那なんていう言葉自体なんか資本主義的な感じがしてしまいますが^^) すでにこの議論の結論を体得しているかのような 自我にそまらない人は それは今だからであって 過去の資本主義社会には一人もいなかった、 あるいはキリスト教社会ではありえなかったと思いますか? 実際にそういう人がそばにいれば かなり解かりやすい事と思いますが、それこそありえない話でもあるわけです。 歴史とは、言葉による資料から事実をかいつまんでいじくった史料の世界にすぎないとも言えます。 その史料からだけで 実際の過去の時間の流れを読み取れると思ったら、間違いです。時間違いかな^^。 セックスレスという言葉をマスコミで使う時には、 十羽一からげに論じる必要があったりするでしょうが、 これにしても、 だからといってお互いの視点を どこまでの他人と認め合う尊敬と愛があれば、 その家族はなんとも穏やかな社会単位として その子ども達とともにそこに存在しているかもしれません。 が、同時に けっこう多くの人が その時代の文化の流れ、性に関しては資本主義→キリスト教→その他の宗教の成立というふうにくくれたりもする文化の流れに 無意識的にも性が影響を受けているということも確かで、そのへんをするどくえぐって見せた文章が 岸田氏の文章だったのでしょう。 例えば その強烈な流れが、 西洋の売買春と 江戸時代の売買春の 隔絶とも言えるような差を生んでいて  そのへんこそ、彼の文の流れがその認識を誘っているところかと思うのですが、 言葉では語れない感性の世界、 あるいは自我を越えた人と人とのつながりの世界(そういう意味での愛の世界)は、 歴史という言葉の史料の世界も越えているという点が  そういう視点が 岸田氏の論文の中からは抜けている気がするのです。 きょうは、ここまでとします。 yukkinnさんは、 この巨大な人間存在の大きな流れの実在の世界をどう思われますか? (アカデミックな哲学ではそのへんをどのように扱ってきたのか 知らないので 言い方とか逆に 物足りない言い方となっているのかもしれませんが、  私自身の哲学からは真剣な質問となっています)  言葉ではとても語れないような事ごとも含む、 この全実在の 悠久の流れについてです。 文化だけの視点から これだけの主体性というものを持った人間の実在史はとても語りつくせるものではないと思います。

noname#122427
質問者

お礼

順が逆になっておりますが、、、汗 >女性の中のけっこう多くの人が そこからの女性差別の世界の因果でいろいろな苦しみを実際に受けているわけです。 そうですね、、、そうなのですが、、、 でも、不思議だ!と私が思い始めたのは、 「同一の行為」でもって、「全く違う感情」が生まれる、その事。 或は、 差別に依る被害を受ける要因となる「女らしさ」、 でもその「女らしさ」でもって、享受出来る利益、と迄ぶっちゃけなくても「良い事」がある、と言う事。 痴漢に撫でられるお尻の感覚と、恋人に撫でられる感覚。 同じなのに、どうして此処迄差がある? このとんでもなく「一貫性に欠けた社会構造」を疑問に思わず、何が不思議?って。 だから、一方的な >女性差別の世界の因果 って事も無いのです。 これを差別と言うならば、男性も差別する事で愛したい女性を愛したい方法で愛せなかったり、する訳ですし。 >西洋の売買春と 江戸時代の売買春の 隔絶とも言えるような差 隆慶一郎の「吉原御免状」はタイトルどおり、江戸の遊郭吉原の物語ですが、 同時に、非差別層/最下層であるエタ・非人の物語でもあるようです。 社会から隔絶された場所と人たち。 其処は隔絶する事で、世のしがらみで苦しむ人を「解放」し、「生まれ代わらせる」場所でもあったのだと。 最下層と言う位置づけも怪しいな、と思わされた小説でした。 岸田さんの本の中で、売春について様々な角度と条件から考察がなされていますが、 この「生まれ変わり」に通じるプラスの位置づけも感じ取りました。 >自我を越えた人と人とのつながりの世界(そういう意味での愛の世界) こちらには、私は未だ未だ考えが及びません。 でもこうして自分(と言う偏見?)への囚われを解して行く事で、人との繋がりの本質?にも迫って行けるかしら、と希望的です。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.10

こんばんは。 >これ、毒気は岸田さんではなく、社会の方にあるように思います。 はい、さながら毒は毒を以て制すと言ったところかもしれませんね。 >只、思うのは、私はひたすらに己の女性性を負の面でしか捉えて来なかったから、多少過激な岸田さんの論を読んでも字面で戸惑ったりはしなかった、と言う一因はあるかも知れません。 なるほど、常々女性の顔色を窺いながら生きてきた私としては、「岸田先生、あれじゃずいぶんと女性読者の反感を買うのではないかな?」と勝手に余計な心配をしたりしたのですが。 もっとも、筋金入りの女権論者たちの方こそ、意外にも「言わずと知れたこと!」と反応するのかもしれませんね。 >男性側の「不能恐怖症対策(=女の肉体の商品化)」と言う側面と女性側の「妊娠対策」は、同等に強力に文化形成に影響していた筈、と思うのですが、その扱いが少なかったのが気になります。 はい、「わが意を得たり!」といったところです。 岸田先生の場合、いつも、いかに不能の男性を立て(勃て)るか?が女性の性的課題だったという前提から出発しているのが、僕としてもやや納得しかねるところでした。 むしろ、古来、女性の性にとっての最大の懸念事項は「妊娠対策」ではなかったかと思われてなりませんでしたから。 あと、なぜ人類のオスだけがわが子の養育に興味・関心を抱くようになったのかについても、もう少し詳しく論及して欲しかったところです。 ヒトの子を独り立ちさせるまでには、女手一つではあまりにも時間も労力も掛かりすぎるという理由だけではとても説明し尽くせないような気がしてなりませんから。 たとえば、婚姻制度成立以前、つまり採集・漁撈・狩猟中心の時代には、おそらく女性たちは過酷な自然環境を生き抜く上で血族中心の集団生活を営んでいただろうと推察されますが、当時の男性はわが子の養育に関与するどころか、そもそもわが子という観念さえ抱いたこともなかったでしょうね。 と言うか、当時の男女間で行われていた性交渉となると、もしかして女性血族集団による管理売春の形態を取っていたのではないか、と私などは真面目に妄想しております。 当然ながら、そこでは男性が育児に関与する余地など全くなかったはずです。 男性が《わが子》を欲しがるようになったのは、もしかして私有財産という観念(価値)の誕生と軌を一にしているのではないでしょうか。 >性的唯幻論序説(改訂版)第六章「女」は屈辱的な役割である」は胸が痛くなるような感覚で読みました。 >「女になることへの抵抗」、、、うんうん。。。^^ はい、「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」(『第二の性』)と重なりました。 もっとも、最初に読んだときには、ボーボワール女史が何を言ってるのか、サッパリ理解できませんでしたが。 >でも今は「フロイドの時代」じゃないのに、私って時代の感覚が遅れていないかしら。。。汗 いや、私などは昔に読んだときよりも今の方がフロイトの凄さをよりストレートに実感しますね。 何と言っても、彼の手によって、それまで人間を束縛してきた性をめぐる神話や迷信がはじめて放逐され、代わりに人間の理解を超えた性の力に支配されたわれわれの赤裸々な姿をまざまざと見せつけてくれたのですから。 それを最も簡単に示すと、《性≧生》ということになるのではないでしょうか。 >やりたいからやる、やりたい事/時だけやる、とても原始的?な思考の夫です。 採集・漁撈・狩猟・農耕にかけては多少自負していた私ですが、ご主人の方こそ、より健全な、正真正銘の原始人でいらっしゃるような気がしました。

noname#122427
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 長くなりまして、補足欄に書き込んでおります。

noname#122427
質問者

補足

毎回丁寧に対応してくださり、光栄です。^^ >「わが意を得たり!」 こちらにも投稿頂いているbragelonne様の質問にこんな事を書いています。 「ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5526755.html  #5 >> 性行為/生殖行為の結果が、出産と子育て、ですね。 出産は、人間は進化の過程で直立二足歩行を可能にした、その所為で、 骨の構造が妊娠出産には不適になっています。 出産の際に激痛を伴うのも、人間が生物的には超未熟児で生まれねばならないのも、直立二足歩行を可能足らしめる身体構造の無理が祟っての事。 超未熟児で生まれねばならないから、その後の重労働(育児)が生じる。 それを「知った」時、当然生物として行き延びる為に、 *妊娠の選択 *妊娠を引き起こす性行為/生殖行為の選択 を行ったと考えられます。 本能に依る行動(性行為)を、本能に依って選択を迫られる。 この段階で、本来拮抗する筈の無い「本能の対立」が、内側から?本能を破壊したのではないでしょうか? >> 本来は「不能」等無かった本能の人間の男性を、不能にしてしまったのは、女性の妊娠対策を目的とする「性行為の選択」ではなかっただろうか、と考えます。 >ヒトの子を独り立ちさせるまでには、女手一つではあまりにも時間も労力も掛かりすぎるという理由だけではとても説明し尽くせないような あ、、、こちらも論拠不足とお感じなのですね。 人間の共同体は、最初はやはり「女性集団」だったのでしょうか。。。 それとも男性を含む「血族集団」だったのでしょうか。。。 やはり、他の動物たちもそうであるように「(育児中の)母と子」から始まったのでしょうけれど。 ペンギン等は、雄と雌が交代で卵を抱きますね。 あれは、餌を取れる地点に営巣すると危険だった所為、でしょうか。 それで、餌場から遠く離れた地点に巣を作り、その所為で「温卵交代要員^^」が必須になったのでしょうか。。。 ならば、人間もその手の理由があったかのでしょうか。。。 いやあ、ペンギンの卵期間の親は壮絶らしいですね。 交代して餌を取りに行った片親が帰らなければ、卵を抱いている親も死ぬとか。 とてもじゃないけれど、性行為後のこの流れを知って、性行為に挑んでいるとは思えません。 この事実に気付くか気付かないか?が、人間の生物界での特殊性なのかしら。。。 >もしかして女性血族集団による管理売春の形態 以前読んだファンタジー小説で、そういった描写がありました。 地球環境が過酷になり、人間の生存が危うい時代。 生命力の弱い男性は何かと死に易く、生命力の強い女性に守られている存在で。 採集も狩猟も日々の労働も女性。 部族に数人の男性は、毎夜代わる代わる女性に種付けをする仕事のみ。 部族の子の生物的父親の役目のみ、それだけで大切にされる存在。 子どもたちの父親が誰か?と言う意識は無く、「部族の子」と言う位置づけ。 そうか、こう言う形態も原始にはあったかもしれないな、と考えた事を憶えています。 >男性が《わが子》を欲しがるようになったのは、 >もしかして私有財産という観念(価値)の誕生と軌を一にしている うーーーん、、、ありそうですね。。。 こんな説の本はご存知ありませんか?無いのでしょうか。。。 >ボーボワール女史が何を言ってるのか、サッパリ理解できませんでしたが。 男性は自分が「男になる」と言う意識はあまり濃くはないのですね。。。 女性と男性のその辺は、やはり「男根リビドーから膣リビドー」と言うのが、大きな原因なのかな。。。 ちょっと不公平、、、と以前は思いましたが、二人の息子を育てる現在、 「異性の親に育てられる男の子が直面する最初の状況は、 まったく無知無能な自分が圧倒的に強い全知全能の(と幼児には見える)女に 全面的に依存し支配されているという屈辱的状況」 この「異性の親に育てられる」事の難しさ、が強い緊張感を持ってこびりついて来ます。 我が娘に、女性性を出来る限り歪み無く、助言/助力する事が出来るか?と言う不安から向き合った問題でもありましたが、どちらにしても難しいです、子育て。。。

回答No.9

 No.4です。  ぢゃあ 読まなくっちゃ 読もうと図書館での在庫を確認したあと 待てよとなりました。  おかしい。やっぱしおかしい。ここまでの情報で議論ができると思い返しました。  もしひとの行ないのすべてが――と言いますか いまは 性をめぐるすべての考えと行ないが でしょうが―― 非自然という意味での文化としての行為であるなら あとはうまくやるかどうかだけになる。こう帰結するはずです。  つまり一般によい悪いというときも ひとによってそして小さなものから大きなものまでぞれぞれの集団によって すべてその文化形式が ひとつの時期や時代として決まっているのであって それに基づきうまくやるかどうかが すべてを決めている。ことになります。  早い話が 男にとって 女の商品化をどのようにうまく行なったかが その人生の何もかもをすべて決するということになるのではないでしょうか?   それならそれで そうしているということでしょうが わたしには これは話し合いをする問題ではないと考えます。つまり 言わばのっぺらぼうの上に 如何にうまく目鼻をつけるかだけの作業ではないですか。つまり 極端な例としては へたに顔を描いた場合にも成功したということもあるでしょう。  それらの事例の分析をやると言うのなら やってもらうしかありませんが それがわたしたちの人生の問題であるとは とうてい思えません。これは 文化による思考ではなく ひとの自然本性としてそなわる感覚にもとづく判断です。無根拠でもあります。  というわけで わたしはこれをもって降ります。

noname#122427
質問者

お礼

すっかりもう一つの質問で盛り上がっています。 この質問から派生して立てて下さった事がちょっと嬉しく。^^ 遅くなりましたが、回答ありがとうございました!

  • kadowaki
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回答No.8

yukkinn66さん、こんばんは。 ご丁寧なお礼をいただき、恐縮いたしております。 >最近夜に寝付けなくなってしまい、今朝も明るくなる迄「性的唯幻論序説」を読んでおりました。 最近まで乳呑み児の夜泣きに悩まされてきた私としては、そうでなくとも寝付きが悪いだけに、ずっと昼夜逆転したような不規則な生活を営んできました。 で、岸田さんの毒気を含んだ本と無邪気な乳呑み児とを交互に見較べながら、あらためて性が突き付けてくる謎の深さにため息をつくばかりです。 >女の性自認について、「よく判らないけれども」と認めつつ、その経過を丁寧に説明しており、改めて私自身のその過程を振り返る事が出来ました。 これは、yukkinn66さんが並外れた自己批評や自己相対化の力をお持ちだからでしょうね。 でも、わが娘たちを含む現代女性の多くが、はたして岸田さんの説く「男の性自認」を納得づくで受容できるかとなると、性カテにこれまで女性から寄せられる多くの質問・回答を拝見してきた私としてはやや疑問を覚えます。 >性犯罪の被害と言うのは、この性自認進行過程の何処とぶつかるか?によってその大きさ/深刻さが決まって来るのかも知れません。 「性自認」の過程とは、同時に異性の「性」を認識していく過程でもありますよね。 そして、男根(性器)期に入ると、男児も女児も両親をモデルとしながら、それぞれの「性自認」をスタートさせますが、女性の場合「男根リビドーを膣リビドーに変えなければならないが、この過程がうまくゆかない」(性唯幻論序説)ことが起こりやすく、これが女性の「性自認」を男性よりも難しくさせているのではないでしょうか。 たとえば、一昔前は、大人から「大きくなったら何になりたい?」と問われた幼女は、無邪気に「お嫁さん!」と答えたものですが、実はこの時すでに男性の性的欲望対象として振る舞うことを無意識裡に自己に課すという形で「性自認」をおこなっていたと言えなくもないですよね。 ところが、もし男根期が終わっても、なおこうした「性自認」が進んでいない少女がいて、何の予告もなしに男性の「男根リビドー」に直面したと仮定すると、おそらくそれは少女の想像を絶するほどに衝撃的な大事件になったとしても、全然不思議ではないような気がします。 >その「どん底」を確認した上で、何だか変な?解決策か対応策か?を述べて来る辺り、世界を「斜に見ている」ような「真っ正面からの正攻法」のような、よく分からない気分にさせられます。苦笑 はい、生まれつき性的に「不能」な男性を、女性が性的に「可能」たらしめ、これを有効活用すればいいとする岸田先生の提言、もし私が女性に生まれていたと仮定すれば、おそらくはらわたが煮えくり返る思いで忌避しようとしたのかもしれません。 でも、女性の方で、本当は役立たずの男どもに女性主導で働き掛け、その「男根リビドー」を活性化し、女のために有効活用しているだけ、それをバカな男どもは自分の雄々しい本能的な欲望で女たちを性的に攻略、征服したつもりになっているんだから、と心底思えるなら、これは確かに「真っ正面からの正攻法」と言えなくもないでしょうね。 >一年前の質疑でkadowaki様から教えて頂いた本です。^^ >本当に良い本を推薦頂き、感謝申し上げます。 どういたしまして。 岸田先生、同業者からはやっかみ半分で難癖つけられているようですが、それでも『心理臨床大事典』(培風館)には、彼の『フロイドを読む』における自己分析が高く評価され、紙幅を割いて詳しく紹介されていたのを想い出します。 とにかく、大学の教師連中の書いたつまらない類書よりははるかに読ませますし、第一とにかく政策論的、実践論的的であるのが一等高く評価できますよね。 >岸田さんの説を読み進めながら、私自身の幻想への囚われが良く理解出来ました。 >そして、反対に夫が見事に幻想から自由だ、と言う事が判りました。 「逸脱」という点では、私も多少は自信ありますが、それでも思春期以来《性幻想》の虜囚となったまま現在に至っているだけに、ご主人の「幻想から自由だ」というのが具体的にはどういうことなのだろうか?とちょっと興味をそそられました。 と申しますのも、『続ものぐさ精神分析』の「性的唯幻論を越えて」の結末で示されている「女の肉体の商品化の幻想から解放された男性」の存在については、岸田先生、あくまでも理想上、観念上のサンプル程度にしか考えていないような気がしましたから。 なお、私には、女性がセックスで妊娠する側の性であるという事実に照らし、これが女性のサバイバル術としての性戦略(性的振る舞い、男性操作法等)のあり方を大きく規定してきたのではないかと思われてなりません。 岸田先生の「性的唯幻論」では、これについては、「女の肉体の商品化」に較べてやや二義的な扱いしかされていないのがちょっと残念なところでもあります。

noname#122427
質問者

お礼

再びの丁寧な回答ありがとうございます! お褒めの言葉、恐縮です。^^ >「性自認」の過程とは、同時に異性の「性」を認識していく過程 確かに自分自身の性自認作業をストップさせていた数年間、 身近な男兄弟や父親、男友達の「男性化」を無視していた気がします。 性的唯幻論序説(改訂版)第六章「女」は屈辱的な役割である」は胸が痛くなるような感覚で読みました。 「女になることへの抵抗」、、、うんうん。。。^^ でも今は「フロイドの時代」じゃないのに、私って時代の感覚が遅れていないかしら。。。汗 >ご主人の「幻想から自由だ」というのが具体的にはどういうことなのだろうか? そのご質問はつまり、私に思う存分のろけなさい、と言う事でしょうか?笑 いえ、初めから変わらないのです、 「やりたいからやる、やりたくない時はやらない」と言う態度が。 やらなきゃいけない、と言う考え方が生活/人生全てにおいて見当たらない人なのです。 自分がやる気が出ない(理由が無くても)時も気にしない。 やる気があって元気が無い(笑)時も気にしない。 私が何と無ーーく「今日はいやだーー」と言っても気にしない。 人間なんだから気移りするさーーと。 そして、「女体の商品化」に代表されるような「何かの代償に何かをする」と言う思考が無い。 これをしてあげたんだから、あれしてね、と言う言い方を日頃からしません。(私はそればっかり、ですけれど。汗) 彼が私を抱くのは自分が抱きたいと思ったから。 相手の私の抱かれたい思いと合致したから。 私と結婚したのは自分がそうしたかったから。 子どもを産むのは、その方が自分の人生が楽しくなりそうだから。 子どもが出来ちゃったから責任取って結婚、と言う意識が夫には無い。 いや、出来ちゃいましたけど(爆) 逆に言えば、子どもが出来ようと、したくなかったら結婚しなかった。 でも、一生一緒に暮らしたいと思えない相手とセックスして何が楽しいの?と夫は言います。 いつも一緒に居たいから、相手を一番身近に感じる方法だからやるんでしょう、と。 やりたいからやる、やりたい事/時だけやる、 とても原始的?な思考の夫です。 でも、相手のある事は相手に無理をさせない、相手に要求しない。 そんな感じです。 変なプライドとかが絡んで来ません。

noname#122427
質問者

補足

こんばんは、今夜も夜更かしの質問者です。 >岸田さんの毒気を含んだ本 これ、毒気は岸田さんではなく、社会の方にあるように思います。 そして、その毒気は悪気のあるものではなく、古来から人が生きる為に生きる為に、と試行錯誤しバランスを取ろうとして最善を尽くしたけれども、どうしても出て来てしまう「歪み/出っ張り」と言う気がしました。 最善を尽くそうと、失敗や対策漏れはどうしても出て来ますから。^^ ん、、、乳飲み子、、、?? お孫さんでしょうか。。。^^ >現代女性の多くが、はたして岸田さんの説く「男の性自認」を納得づくで受容できるか 元々、私は女性性の屈辱的/負な部分に大きく意識を割かれて来ました。 (きっと「損をする」と言う事をとことん嫌う、ケチな性格故でしょう。汗) 女性性を主に正の見方/受け止め方で育った女性は、岸田さんの「全ての女性はその差はあれ、売春婦の役割」とか言う文を目にしたら拒絶反応!と思われます。 >「男根リビドーを膣リビドーに変えなければならないが、この過程がうまくゆかない」 私が痴漢に遭ったのは、まさにこの時期かもしれないなあ、と思っております。 自分一人で密室で思考するだけでも四苦八苦なこの時期に、土足でいきなり「お前がこれから受け入れねばならない女と言う役割はこう言うものだ」と言わんばかりに侮辱を受けた訳で、、、只でさえ反抗的な私が頑になるのもわかります。 多分、この出来事で数年は、私の性自認作業は停滞していた筈です。 その後高校卒業迄、性について思考した記憶が無いからです。 で、作業再開と同時に第二の侮辱攻撃を受けた訳なのだけれど、 あまりにも頑になっていて二年間「気付かなかった」のです!これ、ホントです。 二年後に気付いて狂いました。 愚痴が続きました。 只、思うのは、私はひたすらに己の女性性を負の面でしか捉えて来なかったから、多少過激な岸田さんの論を読んでも字面で戸惑ったりはしなかった、と言う一因はあるかも知れません。 卑屈な言い方をすれば、文章では実体験以上の侮辱力は持ち得ない、と言うか。 >もし私が女性に生まれていたと仮定すれば、おそらくはらわたが煮えくり返る思いで忌避しようとしたのかもしれません。 これ、ね、思うのですけれど、 「そう、男って大変なのね、 私たち女を多少いじくり回して幸せになれるのなら、使って良いわ あなたたちがそれで満足するなら、私たちも幸せなのよ」と言う気がします。 私の友人の「包容力があってしっかりしていていい女」と言う人たちは、初めての男女交際を概ね失敗していました。 自分をしっかり保ったまま、他人に思いやりを示せるような人なので、つまりは「男が甘え過ぎた/世話を焼かせ過ぎた」だったのです。 ぶら下がり過ぎる男の子に疲れ果てて別れる子が多かったなあ。。。 女も男も文化、なのでしょうけれど、 その文化によって築かれた女の性格は、男の不能恐怖症を微笑ましく見る、くらいの余裕を付与している気がします。^^ >女性がセックスで妊娠する側の性であるという事実 はい、岸田さんの論に、これがあまり出て来なかったのが唯一の不満です。 kadaowaki様のおっしゃるように、男性側の「不能恐怖症対策(=女の肉体の商品化)」と言う側面と女性側の「妊娠対策」は、同等に強力に文化形成に影響していた筈、と思うのですが、その扱いが少なかったのが気になります。 妊娠対策と言う点から論じると、性解放には避妊法の発達が伴っていなければならなかった訳ですし、 今後の性の在り方について、「趣味」と位置づけるには力不足が感じられます。 趣味と言う解釈/位置づけはとても良い、と思うのですが、趣味にするには妊娠の事実は重過ぎますから。

回答No.7

さきほど、 「箴言」というタイトルの質問に対して、 私の セックス観についての簡単な考えを書いて起きました。 参考になるところかもしれません。 たぶん、こちらで もっと そのへんを詳しく書くこととなるかと思います。 宜しくお願いします。 今日、土曜日ですが、仕事があり(本来のローテーションでは 隔週の休みの日ですが 現場優先の仕事ですので)、 大変だったのですが、周りの人にも協力してもらい なんとか図書館には行ってきました。 そして なんと「性的唯幻論序説」というたぶん肝心の本を見つけることができました。 (明日の日曜日は、85歳の母親と暮らしている関係でたぶん図書館にいけなくなるかと思い、 なんとしても今日中にという思いが通じたようです^^) もう少し お待ちください。 宜しくお願いします。

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