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女性の哲学者が少ないのはなぜ?
女性の哲学者は居るのでしょうけれども、有名な人を知りません。 女性の哲学者は男性にくらべ少ないように思います。 なぜですか。
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- pantsman
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歴史的な問題で言えば女性はそもそも哲学をする環境になかったし、していたとしてもそれを発表する立場になかったというのが正解。ただ、ちょっと考えてみれば分かるとおり、現代になってもなお女性の著名な哲学者が現れていないというのは、これは必ずしも男性のせいだけとはいえません。 というのも、女性はそもそも哲学をあまり学ぼうとしないのです。 より正確に言うならば、哲学を学ぶような思考を持つタイプの女性は基本的に哲学を学ぶ前に女性学と一般に呼ばれるような学問に興味を持ちやすく、結果としてそちらの学問を学ぶ人が多いため、必然的に哲学における女性の人材が少なくなった結果、著名な女性の哲学者が生まれないという事態になっています。ちなみになぜ女性学に多くの女性が流れるのかというと、女性学とは今日までの男性視点の学問の批判と女性視点による研究をしようというのが売り文句で、その研究範囲も女性論、思想、心理学、社会、etc、など幅広く、女性視点という部分も含めて多くの女性にとって非常に共感しやすかったからなのではないかと思います。 女性学にはその範囲の広さから実際哲学の一種ともいえる部分があるので、この分野では基本的に著名な人は女性ということを考えると、そちらの分野で活躍してるからというのが、真実なのではないでしょうか。 ちなみに女性学の中心要素であるフェミニズムを男女平等主義と考えている人が一般に多いようですが、フェミニズムの直訳は「女性主義」であり、「女権拡張論」、「女性解放論」こそがその本質です。ラディカル・フェミニズムなどはその中でも特に過激な思想なのですが、行動派な人が多いのか、特に風俗、ポルノ、児童の権利に関する問題で割と政治に絡んでくるので知っておいて損はないと思います。私はリベラル・フェミニズムでいいと思うんだけどね。
- 来生 自然(@k_jinen)
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この質問に対し、誰も「ソクラテスの妻」に関する記述をしないのが不思議なのですが、当たり前すぎて書かないだけなのでしょうか? とりあえず・・・ >>> クサンティッペ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%9A クサンティッペ(クサンチッペ;ギリシャ語:Ξανθίππη /英語:Xanthippe;生没年不詳)は、ギリシアの哲学者ソクラテスの妻。世界三大悪妻の一人とされている。 悪妻であったとされるが、それは後世の作り話であるとも言われる。事実、プラトンの著作『パイドン』の中では、獄中にあるソクラテスを思って取り乱すという描写がある。 (中略) ソクラテスが語ったとされる言葉にこのようなものがある。「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」 「そんなにひどい妻なら別れたらいいじゃないか」と言った人に対し、ソクラテスが語ったとされる言葉にこのようなものがある。「この人とうまくやっていけるようなら、他の誰とでもうまくやっていけるだろうからね」 (中略) 作家の佐藤愛子が「ソクラテスの妻」という小説を発表、後に「ソクラテスのような男と結婚すれば、女はみんな悪妻になってしまう」との旨を述べている。 <<< このことは、以下のようなことを示唆していると思われます。 「哲学者は変わり者であり、哲学者をサポートする人々は心の広い人々でないと勤まらない。したがって、いままで女性の哲学者が少なかったと言うことは、変わり者を受け入れるだけのキャパシティを持ち得たのは、男性よりも女性の方だったと考えられる。」 ということになりますでしょうか?
お礼
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- amaguappa
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哲学を修めるということについていえば 伝統的に大学アカデミズムであり、男性しかくぐれない門でした。 また、大学に女子が入学できるようになってからも (女子入学はどこが早いかな。パリ大かな。わかりませんが) 何某の門下であるという系譜がたいへん重要視される分野で、 年輩者はなかなか女子の弟子に目をかけませんでした。 また、政治運動や社会変革につながるような太い人脈は女子には得がたかったので、 思想の精神的支援・資金的支援の華やかな動きに発展しづらく、 地味に理解者に個人的に支援されるにとどまりがち、といったところでしょうか。 そもそも裕福な家庭の子女が学生となるわけですが、 裕福な家庭の娘が哲学に没頭して年を取るなどは一族こぞって反対され、 金持ちの一族の反対というのは貧乏による一種の自由からは想像もつかないほど熾烈なものであるらしく、 学問だけしていればよいほど裕福ならサロンでも開いて鮮やかな弁論や知性に磨きをかけ、 ちやほやされたほうが家名の見栄えも良いとされるのは必至で、 実業家や学者の裕福な娘で少し変わった人物の場合は師範になります自立しますといって、 教職のかたわら、哲学の本をひっそりと書くといったところでしょうか。 西洋文明では、大学というのは神学、法律、医学の「神聖なる専門家」を養成するために設立されましたから特権的なのですが、 そこで学生らが修めなければならない、文法・修辞学・弁証法のトリウィウムと、算術・幾何・天文・音楽のクワドリウィウムの 7科目を統合する知が、哲学で養われることになっていたわけです。 抹香くさい、かび臭い、消毒薬くさい、神聖な衣をひきずった学徒が、西洋の哲学という一大アカデミズムを形成してきたのでした。 アカデミズムということで言えば、おしなべて、男性の砦なのでして、 美術も音楽もアカデミズムという門と、個人的活動という門の、二つの門があり、 女性が有名になれたのは、個人的活動の門からくぐった場合のみでした。 哲学の門といい、芸術の門といい、女性は制度よりも親密さや信頼関係によって育てられたといってよいと思いますが、 男性に育てられるわけで、これでは土壌としては十分ではなく、 女性が女性を育成できるような環境が整わないと、男性の砦でなくなる日は来ないのです。
お礼
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- mintarou1
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. #34のserina55さん じゃ、何で有名な数学者に、作曲家に、画家に女性は少ないんだ。 将棋・囲碁・チェスの世界で、圧倒的に男子が強いのはどうしてなんだ。 100m走のオリンピック記録で、常に男子の記録が女子を上回っているのはどうしてなんだ。 説明してもらおうか! .
お礼
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- serina55
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みなさん能力の面での議論がヒートアップしてますが、重要なのはそこではありません。 能力において個体差は男女差を上回ります。 なぜ男女差が激しいかというと、哲学が、“権威”だからですよ。 そもそも哲学は神学の権威主義的な所を継承しています。 女性の哲学者が少ないのは女性が“権威”の立場にいることが少ないのが理由です。
お礼
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- cyototu
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それはもしかしたら、哲学を語る者が自分たちを取り巻く世界の巨大な部分を見落としていることに、女性方が気が付いているからかもしれません。私がこれから述べることは、#12さんの意見と本質的に同じです。 哲学は言葉を使って世界を分析しようとします。ところが、アメリカのドラマを見ても分かりますが、アメリカ人は日本人りも何倍も言葉を使って互いの意思伝達をしていますが、それでも、そのおしゃべりなアメリカ人でも意思伝達の全体の80%は、ボディーラングエッジで行っていると言う観測結果が得られているそうです。よく考えれば、そんなこと当たり前で、人類が複雑な言葉を使って意思伝達をするようになってから高々百万年ぐらいなものですが、それ以前の数千万年ないし数億年の間、人間を含めた生物は言葉無しで意思伝達をして来ました。また、その伝達が効率よかった証拠に人間を含めた多くの生物は、今まで生き残れたのです。 別の言い方をすると、言葉で捉えることが出来る世界は我々人類にとっても、全体のほんの一部、それも大変に狭い領域だけだと言うことです。人間の他の知的営みでは、例えば画家は言葉を使わずに色や形で世界を認識していますし、音楽家は音の音色や高低やリズム、それにそれらの調和で直接世界を認識しています。そんな高尚なことを例に出すまでもなく、上でも述べたように、我々は日々、人の顔色を見たり、身のこなしや声の出し方で、自分の与えられた状況を判断したり、相手の世界観を認識しています。 ところが、哲学に興味を持っている方は、たまたま偶然にその道具が言語を使った論理だけと言うことで、その偶然から、世界認識の他の側面があることを忘れてしまったのか、あるいは見えなくなってしまったのか、世界認識の巨大な部分が欠落してしまった方が、結構多く見かけるようだと言う独断と偏見を、私は持っています。 さて、いよいよ男か女かの問題に入ります。我々は誰でも小さい時には母親に抱かれ、あるいはまとわりつき、体のぬくもりを味わいながら育って来ましたね。このぬくもりは、情報交換や意思伝達に大変重要な役割を演じていたはずです。一生の間で、この情報交換の形態は女性は男性に比べて遥かに長い期間行っておりますね。子供のうちばかりではなく、成人してからも、妊娠して体の中の世界を触覚で感じることができる。出産後も、幼児を抱き包んで、そのぬくもりを感じなたら世界を見ている。ですから、世界を見る時に、女性は男性よりも遥かに、バランスの取れた多くの道具を使いながら見ることが出来ているようです。 そのようにバランスの取れた方法で世界を認識できる者から見ると、言葉に妙に重きをおいて、偏った形でしか世界を見ることしかできず、世界の巨大な部分を見落としている連中に、たとえ意識的ではなくても、直感的に、組できない感覚を持ってしまうのかもしれません。 男性にはなかなか見えずに、女性には見える世界のほんの一例ですが、 やわ肌の熱き血潮にふれもせで 悲しからずや 道を説く君 は、哲学好きの男どもには見落としがちな巨大な世界の存在を上手に表現した歌だと思います。
お礼
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- 来生 自然(@k_jinen)
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No.23, 30, 31です。 >>> No.23 現行、「哲学」といった行為が評価されるのは、(「語り得ぬもの」を想定しながらも)「書かれたもの」に対して行われます。 すなわち、「智を愛する」の「智・知」という切断面でのみ評価されるわけですから、本来の「哲学」の一断面でしか評価され得ないわけです。そうして、そういった領域では、感性よりも知性が重視されている訳ですから、不完全極まりない状況だと言わざるを得ないでしょう。 本来の主体は、「愛する」の側にあるべきなのに、「知」という対象にのみ関心があるというのは中途半端な状態と言わざるを得ないと思います。 <<< >>> No.30, 31 女性だからどうとか、男性だからどうとか、有名だからどうとか、無名だからどうとか、そういったことは、本来、特に哲学(智を愛する)といった総体・全体的な概念からすれば、部分でしかあり得ないでしょう。 そうして、部分は決して全体には成り得ないとすれば、そうして、相補的な位置関係に立つことができるのであれば、相互に必要不可欠な存在として相互に位置付け合っているとも言えるでしょう。。。 <<< エミー・ネーターのwikiでの紹介文をご覧になればわかるように、男性科学者には決して(いや、あまり)記述しないような内容が認められます。それは、「外部の援助者」の記述です。 男性科学者や哲学者にも、無論「外部の援助」があってこそ、数多くの著作物を残すことができたはずです。したがって、「親愛なる○○へ」程度の謝辞ではなく、共著者として自身を支えてくれた方、支えてくれている方々を入れたいという程の情があってしかるべきものなのかもしれません。。。 そういったことを含めて、あらゆる関連性を問い直すのなら、関連性の捉えなおしとして、哲学というもの自体が変容していくことになるかもしれません。 もし仮に、「知を愛する」の「愛する」が主に取りざたされるようになったなら、著者は末尾に小さく氏名が記される程度となり、著者を支えている方々が表紙に並ぶといった出版物が当然のごとくになるかもしれません。(「愛する」が主体なので、出版物という形をとり続けるのかどうかすら、定かではありませんが。。。) したがって、 >>> 女性の哲学者が少ないのはなぜ? <<< という問いに対しては、私ならば、 === 哲学というものに対する、人類の取り組み方そのものが、もぎ取られた「知」に偏っていて、「愛する」という本質を重要視してこなかったから。 === と答えることになるでしょう。。。 (。。。ふぅー。。。やっと自分自身の答えにたどり着いたようです。。。)
お礼
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- 来生 自然(@k_jinen)
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No.30です。。。 申し訳ございません。。。 >>> 女性だからどうとか、弾性だからどうとか、有名だからどうとか、無名だからどうとか、そういったことは、本来、特に哲学(智を愛する)といった総体・全体的な概念からすれば、部分でしかあり得ないでしょう。 <<< 変換ミスをスルーしていました。。。 >>> 女性だからどうとか、男性だからどうとか、有名だからどうとか、無名だからどうとか、そういったことは、本来、特に哲学(智を愛する)といった総体・全体的な概念からすれば、部分でしかあり得ないでしょう。 <<< です。。。
お礼
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- 来生 自然(@k_jinen)
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哲学者ではありませんが、偉大な数学者であり、物理学の基盤を構成した女性がおられます。 エミー・ネーター http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC です。 彼女は「ネーターの定理」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86 という、物理学的思索にとって必要不可欠な関係を提示しています。 この概念がなければ、保存則に関する様々な思索を裏打ちすることができないばかりか、「対称性の破れ」に関する概念、すなわち、南部陽一郎氏のノーベル賞も日の目を見なかったという優れものです。 ただし、ある意味、二つ以上の関係(対称性と保存則といった関係)を結びつける橋渡し的な概念についての定理です。 すなわち、物事を切断し、その切断面を俯瞰するような視点からの概念ではなく、両者の間に立ち、その関連性を結びつけようとするところに意味を見いだすというものです。私の主観的な感覚では、非常に女性的な定理だと思っています。 女性だからどうとか、弾性だからどうとか、有名だからどうとか、無名だからどうとか、そういったことは、本来、特に哲学(智を愛する)といった総体・全体的な概念からすれば、部分でしかあり得ないでしょう。 そうして、部分は決して全体には成り得ないとすれば、そうして、相補的な位置関係に立つことができるのであれば、相互に必要不可欠な存在として相互に位置付け合っているとも言えるでしょう。。。
お礼
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- mesenfants
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哲学者にかぎらず、医者でも、弁護士でも、政治家でも、大工でも、漁師でも、男性がおおいのは単なる歴史的な事実です。 「能力」に違いなどありません(同じ能力などないともいえます)。 最近では電車やダンプの運転手などもめずらしくないです。(女性ニュースキャスターには、まるで男性かと思えるような「おやじ」っぽい身動きをするひともいます) 英語圏などでは、いま、かえって女性の哲学者のほうが元気がいいですよ。女性の論理学者も多いです。残念ながら翻訳があまりないですが。 概念的思考が女性に適していないからではとお考えなら、それはまったくの誤解だと思います。
お礼
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お礼
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