No.23, 30, 31です。
>>> No.23
現行、「哲学」といった行為が評価されるのは、(「語り得ぬもの」を想定しながらも)「書かれたもの」に対して行われます。
すなわち、「智を愛する」の「智・知」という切断面でのみ評価されるわけですから、本来の「哲学」の一断面でしか評価され得ないわけです。そうして、そういった領域では、感性よりも知性が重視されている訳ですから、不完全極まりない状況だと言わざるを得ないでしょう。
本来の主体は、「愛する」の側にあるべきなのに、「知」という対象にのみ関心があるというのは中途半端な状態と言わざるを得ないと思います。
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>>> No.30, 31
女性だからどうとか、男性だからどうとか、有名だからどうとか、無名だからどうとか、そういったことは、本来、特に哲学(智を愛する)といった総体・全体的な概念からすれば、部分でしかあり得ないでしょう。
そうして、部分は決して全体には成り得ないとすれば、そうして、相補的な位置関係に立つことができるのであれば、相互に必要不可欠な存在として相互に位置付け合っているとも言えるでしょう。。。
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エミー・ネーターのwikiでの紹介文をご覧になればわかるように、男性科学者には決して(いや、あまり)記述しないような内容が認められます。それは、「外部の援助者」の記述です。
男性科学者や哲学者にも、無論「外部の援助」があってこそ、数多くの著作物を残すことができたはずです。したがって、「親愛なる○○へ」程度の謝辞ではなく、共著者として自身を支えてくれた方、支えてくれている方々を入れたいという程の情があってしかるべきものなのかもしれません。。。
そういったことを含めて、あらゆる関連性を問い直すのなら、関連性の捉えなおしとして、哲学というもの自体が変容していくことになるかもしれません。
もし仮に、「知を愛する」の「愛する」が主に取りざたされるようになったなら、著者は末尾に小さく氏名が記される程度となり、著者を支えている方々が表紙に並ぶといった出版物が当然のごとくになるかもしれません。(「愛する」が主体なので、出版物という形をとり続けるのかどうかすら、定かではありませんが。。。)
したがって、
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女性の哲学者が少ないのはなぜ?
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という問いに対しては、私ならば、
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哲学というものに対する、人類の取り組み方そのものが、もぎ取られた「知」に偏っていて、「愛する」という本質を重要視してこなかったから。
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と答えることになるでしょう。。。
(。。。ふぅー。。。やっと自分自身の答えにたどり着いたようです。。。)
お礼
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