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女性の哲学者が少ないのはなぜ?

女性の哲学者は居るのでしょうけれども、有名な人を知りません。 女性の哲学者は男性にくらべ少ないように思います。 なぜですか。

みんなの回答

noname#103014
noname#103014
回答No.27

今と違って昔は女性が学問しても出世できなかったし、どうせ嫁に行くからということで親もあまり教育にお金をかけなかったんですよ。

noname#112964
質問者

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  • fu_hide
  • ベストアンサー率18% (55/305)
回答No.26

確かに、そうですね。おもしろい質問です。 女性の方が少ない。 それは、女性の方が直観的だからではないでしょうか。 男は、論理的に考えないと、答えが導きだせませんが、 女性は、直感的に答えをだすからでしょう。

noname#112964
質問者

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noname#131234
noname#131234
回答No.25

ははは 男のほうが自立してないでしょ。 とくに、終戦直後世代(わし)及び団塊(おれおれ)・団塊ジュニアの方々(おいら)。 >女性の哲学者は男性にくらべ少ないように思います。 >なぜですか。 男なら哲学者を偽称し モラハラ・無能・無批判・やりたい放題でも、 ついてくる「おつむのない方(headless children)」は、 絶えないからです。 (「コイツいらね」という脳内容の方々が、お互い自覚しあって収容所=変な発問に集まり、リスクの可視化を図るということは良い事なのかもしれませんし) 大多数の男性は、 一生何らかの形で看病されてる必要があるようで、仕方がナイのかもしれませんね… 特に何も知らない人 何も出来ない人が 一体何が根拠で、また、なぜ偉そうにしたいのかは、 確かに理解できませんが、 結局、人に迷惑をかけ続ける孤独な人生です。 繰り返しになるようですが、理由は、男のほうが自立してないからだと思います。 自分のこと何も出来ない人は、白昼夢を見て、それをカバーしようとするようです。はなたれおじじが、格好をつけようとするのよね。 でもパジャマについた鼻水は誰がきれいにするの? 案外、若い人も勿論例外ではないかもしれません。 この人は、そういう偉い人だった・昔はこうだったというのを強調したいのが、現象的「老い」の証明ですよね。「経験者が哲学者」という「じじいの教義傾向」=社会の「相場」(やっぱ経済学WW・唯物論WW)に十分注意していきたいものです。 特に言葉に不自由な方にかんしていえば、その白昼夢を自分では「哲学」となづけるのです。30年以上の空転が、キャリアだと勘違いしている。世界がぼろぼろになったのは自分のせいじゃないと本気で信じ込んでいる。 まあそれはそれでいいのですが、自分がぼろぼろの今に至ってまで まだ、何か自分が偉いと思っているのは不思議としかいえませんよね。 これが、「日本だけで通じる」哲学者でしょう。「柳田國男マンセー」のアイディア盗人の方々。男の人は、「自分が偉いのではない」ということを意図的に忘れる人が多いようです。 今多くの人は、幸せだと思います。 これまで4人分以上ののリソースを占有していた 役立たずが、退き、やっと席が空いて、普通に息が出来る。 精神的に寝たきりの老人が多いので、自由が利くというのはいいこと。 自由な人が哲学者であるとすると、男も女も同じぐらい哲学者なのでは? いずれにしても 無能な人に 引退していただいて、みんな喜んでいると思いますよ。 (いやな奴なら10分の対面もいやかもしれませんが、看病は数分ですもの) 病気にきづかないで、30年以上も空転しながら、言葉遊びに没頭する おいぼれは、 言葉遊びで金をむさぼり取る「騙し屋」という社会の害悪でした。 ですから、自分が引退することで、搾取の形が、年金という形に収束することで、ある程度の解毒が達成されていますよね。 (無能の虫かごという意味で、老人=コストですが、すくなくとも、想定内のリスクに収まりますし、害悪が悪循環の相乗作用を生むことはないでしょう。) 公共からお金をもらっている人が、引退(哲学者になるということ)をつうじて社会リスクを、減らす。 コレだけでも感謝されているということです。 経済的・精神的実害から、哲学的実害への変容は、多かれ少なかれ、みんなの為にもよいことなのです。

noname#112964
質問者

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回答No.24

女性は男性に比べて好奇心が強く悩みは尽きない生き物だと思います。そして女性は子供を生むのでおのずと異性に依存するのでそのせいだと思います。そして哲学は全ての人に当てはまる事象なので、そこまで真剣に考える人がいたとしたら世の中で活躍をするのではないでしょうか?そして哲学者は世の中を考えている人なんだろうなと思います。女性は自分の周りに楽しいことがあったりするのでそこまで考えるまでに至らないんじゃないかと思いますよ。まぁこれは男性にも言えることですが、肝心なのはそういうことを考えて主張するかどうかではないでしょうか?

noname#112964
質問者

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回答No.23

一つの見解にしか過ぎませんが、以下のようなケースが多いのではないでしょうか? 男性も女性も知性と感性(以下、知と情)とを有しています。 しかしながら、女性は、どちらかといえば、繋がりを大切にして生きているように思います。そういった意味で、情的な側面が強いのだと思います。 男性は、どちらかといえば、周囲から孤立してでも生きようとする、知的に切断する方向性を有しているように思います。 現行、「哲学」といった行為が評価されるのは、(「語り得ぬもの」を想定しながらも)「書かれたもの」に対して行われます。 すなわち、「智を愛する」の「智・知」という切断面でのみ評価されるわけですから、本来の「哲学」の一断面でしか評価され得ないわけです。そうして、そういった領域では、感性よりも知性が重視されている訳ですから、不完全極まりない状況だと言わざるを得ないでしょう。 本来の主体は、「愛する」の側にあるべきなのに、「知」という対象にのみ関心があるというのは中途半端な状態と言わざるを得ないと思います。 人間という総体が男女という概念区分にて二極を持つと言うことは、同じように総体を二極にて捉えるような概念にて、片方のみを重視した場合に破綻をきたしうるものを想像すれば、いいのかもしれません。。。 たとえば・・・ 中島みゆきの「炎と水」 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND54014/index.html

noname#112964
質問者

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.22

 ご質問が他の投稿で少し話題になっており、答えてみたいと思いました。まず、結論から書きますと、ご質問にある「有名な人」というくだりが、おそらく答えになるのだろうという気がします。  と言いますのも、(これは誰でもそうだと思いますが)一心不乱に考えた末にアイデアが生まれる。それはアイデアとは呼べないまでも、きっかけ、とっかかり――表現はどうでも良いですが――要するに、その後に羽ばたく思想のよすがと称すべき、愛しいものであり、また何物にも変え難いほどに大切にされるものです。このアイデアもどきのようなものは、ある意味、自分の子どものようなものだと僕は思います。  さて、近頃では子育てを父親もするそう(これはよくない傾向だと思いますが)ですが、子どもを前にして一体この先、どのように育てるか? というふうに考えると、父親と母親では些か様子が違ってくるようです。僕は男ですから、女性の意見を聞くまでは何とも言えませんが、このような感想を強く持つのは、論文などを査読するときで、性差は内容に大きく影響しているような気がします。  例えば、第一作目となる論文を世に出すときは、誰でもびくびく致します。考えに考えた末の作品ですし、それなりに自信はあるのですが、それでも名立たる世界の研究者たちの偉業に比べれば、自分の生み出した作品(つまり、子ども)は、あまりに弱く、儚く、頼りない。  そんなふうに感じるものです。  それは親としての自分の若さなのか、あるいは経験ないことへの惧れなのかはわかりませんが、ともかく、子どもたる作品は、とても弱いものなのだと――これは、父親も母親もきっとそう思うに違いありません。しっかりと守ってやらねば、世界の荒波に飲み込まれてしまい、とても生き残れないに違いない――ここまでは、どちらも同じ不安を持つようです。  が、そんな世界をよく知っている父親は、守るばかりではなく、子どもをその世界のなかでできるかぎり強い子となるように育てようと考えるようになる。世界という広大な競技場でも必ず勝ちを収めるような、そんな強い子に育てようと考えるようです。  男性の書く論文には、そんな父親の心理がよく現れます。一本の論文によって先行研究をくまなく網羅し、些細な批判の一つひとつを数え上げて反証を試みる。あたかも、その分野での金字塔を立てるが如くに、燦然と輝こうとする強い意志が見えるんです。   ところが女性の書く論文は、そういう意味ではとても地味です。  世界というものが如何に不公平で、馴れ合いやら派閥がものをいう、言わば数々の罠に満ちた――とても競技場とは呼べない――喧嘩場なのではないかという疑念があるためなのか、彼女たちは自分の作品である子どもたちに、何があっても生き残れるような希望を託します。ですから、燦然と輝くなどもっての外で、できるだけ世界の中で悪目立ちせず、ひっそりと、けれども必ず脚注で言及されるような、そういう作品性を第一に考えてお書きになる。  どうでしょう? もしも、科学が普遍を求めるものならば、そして哲学が人間の生を問う学問であるならば、どちらのふるまいが子育てに向いているでしょうか。  自分が男であるだけに、僕は常々この反省をするのですが、まあ女性の意見もあるでしょう。

noname#99914
noname#99914
回答No.21

遠い日の学校時分に、視聴覚授業で、アマゾン奥地あたりの原住民かなんかだったかなあ、 部族会議みたいな場で、集まった男性たちがアタマつき合わせてカンカンガクガク、あーでもないこーでもないと、しちめんどくさい会議を続けてる途中、ふと、女性の何人かが、いかにも呆れたような口調で あんたたち男って、どうして、こうもリクツばかり捏ねまわして延々やってるのが好きなのか、 みたいなことを言ったのね。すると、男の人たちは、 女ってのは、すぐ、そういうふうに、卑近な日常のレベルでのみ考えて片づけようとする、 とか言った。すかさず女性のなかの一人が、 だって現実だって大事でしょうが、 と言い返していた。 哲学の分野に限ったことではないのでしょうが 「哲学者として有名」であるか否かと 「哲学者である」か否かはイコールではないです。 また、当然、出産・育児をする女性ばかりではないですが、 出産・育児をしない女性なら哲学しないということはないですね。 質問者さんは、 有名でない、ということは、なぜ、どういうことなのかということのほうを、いろんな視点から追究したらいいと思います。 ま、一般に男性は、自分のお株を奪われかねないほどの知的で論理的な女性を怖れ忌み嫌う傾向があるらしいと聞くし。 それも、自分が逆立ちしたって勝てないと思えるほどのレベルに達した女であれば、かえって頼もしく思い、ひれ伏すのかもしれないし。 他のことでは、ただでさえ、逆立ちしたって女に勝てないことだらけだから、これ以上、ひれ伏させないで、最後の砦を崩さないでという怯えかな(笑) そんな男性を怯えさせないようにしなくっちゃ生きてはこれなかったのが、多くの「女の道」、だったのかもしれないし。 ハンナ・アーレントという、哲学分野で有名な女性もいましたし、 個人的には、詩人として知られる金子みすずさんも哲学者だったのだと思っています。

noname#100121
noname#100121
回答No.20

男女の脳の働きの差はたしかに存在し、男女互いに優れたところがあるはずです。 しかしその差が「女性の哲学者が少ない」の主因となり得るでしょうか。 一例として女性に不向きとされている論理的、抽象的思考ですが、 本人の意識付けと教育の質量次第で相応のレベルにまで達するはずです。 個人の資質、勤勉の差、世界各国のディベートやレポート提出の質量、指導的主眼の相違も大きいです。 でないと、時に屁理屈!と言いたくなるほどの理屈の鋭さが民族や人種の差にされたらたまったものじゃありませんから。 女性が職業として哲学者の「志」を抱かない理由。 それは「女性性の孕む小宇宙」ほどに魅力的に映らないからで、むしろ学者として名を馳せなくとも、女性はみな「哲学者の卵」として資質を備えているのだと思います。 そうですね、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」と男性が問えば 女性は、 「あなたがたはここから生まれました あなたがたの存在をいつ何時も認め見守っています あなたがたはいつでもここに還って来れるし抱きとめますよ」と答える余地も兼ね備えているのです。 たとえば新生児期の我が子に対する「滅私と受容」。 母親は自らの欲望や時間全てを犠牲にしてまで我が子を最優先にします。 赤ちゃんには理屈も会話も全く通用せず、ただただひたすら抱きしめ乳をやり慈しみます。 これも多少アレンジすれば立派な哲学の命題の一つとなり得るはず。 身体が回復途上で身を削り辛いのに、時に情感豊かに愛しさや歓びまで得られるのです。 このようなことは理屈では到底受け入れ難いでしょうが、この時期の母親はさも当然の如く体現出来てしまうのだから驚きです。 おまけにあの強烈な母子密着の時期を経てしまうと、自分の存在不安や存在意義など感じるまでもなく。 また、日々の試行錯誤を実際に経験しながら「この子が平凡に幸せに育つには」「子どもを愛し慈しむとは」「我が子と電車内の躾について」などといった育児の悩みは「平凡とは」「幸せとは」「愛ってなあに」「公共性とは」という哲学的命題に少なからず繋がり、つまりは日々思考を繰り広げているのです。 これから先職業として哲学者を目指す女性が多く見られる頃には、既存の哲学は今よりもっと毛色の変わったものに様変わりしているかもしれません。

回答No.19

 こんにちは。  途中まで考えました。  哲学にふたつの種類があると考えます。  ひとつは 生きることを考えるもの。言いかえると 思想と言ったほうが分かりやすい場合です。もっと具体的には 生活態度のことです。  もうひとつは この生きるということを考えるにあたって 急がば回れをする場合です。人間が生きるのであるからには では人間とは何か? 人間は存在をしているか? 存在とは何か? では考えるとは? あるいは生命とは? 世界とは? 宇宙とは? これらすべてを考え尽さないと夜も眠れないという研究家の場合です。  たぶん 女性は 後者には向いていないかも知れないと思います。前者では 男性と同じ土俵に上がっていると思います。  なぜ 迂回生産をしないか? なぜ あらゆる可能性を捉えて それらすべての場合について考えておくという研究をしないという傾きがあるか? なぜでしょう?   どうなんでしょうか。結論が分かっていることについて いちいち 詮索しないという傾向だと思うのですけれど どうなんでしょう?  澄みません。ここまでです。

noname#131236
noname#131236
回答No.18

哲学者自体が少ないのであるから、 「女性の哲学者」は、少なくて当然である。

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