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“怨念”、“怨霊”
日本人は怨霊を祀るということが、日本史のお話でも出てまいります。 “怨念”、“怨霊”は、“悪霊”や“荒ぶる魂”とは違うようです。 どちらかというと、何か祀る側が原因となるような行為をして怨霊にしたかのようです。 菅原道真やその他暗殺されたかも知れない方々です。 1. そのように、祀られる怨霊は、祀る側というか、世間の方に何か原因があるものでしょうか。 それとも無関係に怨霊になって、祟るのでしょうか? 2.怨霊を祀るというのは、陳謝し、慰め、大事にすることなのでしょうか? 3. 怨霊に鎮まってもらういい方法にはどんなものがあるのでしょう。 間違った人生で怨霊にしてしまった、人の感情があるのではないかと、反省しています。どうかお教えをいただけますように。
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1.原因がなくても、生きている人間は、「死者を忌む」気持ちがありますので、死んでなお死者や死者の念に付きまとわれることを畏れて、祀るのではないでしょうか。ご質問の場合、祀る側や世間に原因があるわけではないはずです。なぜなら、怨霊でなくても、お墓という形であらゆる死者は祀られていますから。 2.単純にいえば怨霊を祀るというのは、生者側の「セレモニー」だと思うべきです。死者の気持ちを汲み取る儀式と考えるほうがいいです。 3.古来より、全世界でさまざまな「セレモニー」によって死者は弔われていますが、もっとも重要なのは、生きている者がそういった念に対してこれからどう折り合いをつけて生きていくかです。 たとえば広島では毎年8月6日に原爆祈念式が行われますが、これは単純に式を行ったから慰霊になる、というだけのものではありません。むしろこれは、原爆によって失われた無念の魂を弔うと同時に、これから生きていく世代が過去を踏まえて、どう未来に反映していくのか考える切っ掛けになっていると考えるべきなのです。 ご事情は分かりませんが、krya1998さんが反省されているのなら、その経験をふまえて人生を歩んでいくしかありません。セレモニーをするかどうかは自由ですが、セレモニーをしたから、怨霊が鎮まったと考えるのではなく、過去を踏まえて、ご自身の生き方をこれからどのように変えていくかを考えることが、鎮魂につながるのではないかと思います。
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- tadagenji
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怨霊は、悪霊とはことなり、恨みを持って死んだ者がなるとされています。 おっしゃるように、菅原道真をはじめ、聖徳太子、安徳天皇など本人の意思で亡くなっていない人たちで、その中でも崇徳上皇は、怨霊中の怨霊といわれて「天皇を庶民に、庶民を天皇に逆転させる」と言い、これ以後明治になるまで天皇家は政治の実権は持てなかった。 怨霊は、恨みを受ける側だけに意識されるもので、一般庶民には関係ないものですが、荒ぶ として悪霊払いの信仰が生まれる。 怨霊を受ける側が寺や神社を建て盛大に祈ることで払いとしている。 菅原道真は北野天満宮 聖徳太子は法隆寺 崇徳上皇は崇徳神社と白峰神社、天皇寺 など。 特に天皇名で「徳」の字が付く者は、死んでから付けるいみななので持ち上げた名前は、何らかの怨霊の気がある可能性がある。
お礼
やはり原因となる行為に対しての怨念なんですね。 特に殺されるとか、故なく配流されるとか。 私が、人生の歩みの中で、心ならずも傷つけてしまった方のことはまた別の性格のようですね。 祀るのですね。祈り、お祓いするという行為の心は、やはりなだめ送るという行為なんでしょうね。 ありがとう御座いました。
お礼
ありがとう御座います。 広島、長崎のことはそして多くの戦争犠牲者は、多分に個人の意志や責任とは隔たりがあるにしても、悼み、そして鎮魂の気持ちを捧げていますね。 お仰せのように私もこれから残りの人生を歩むつもりです。 ありがとうございました。
補足
nouninさん、無論、恩師や父、そして母などはもう95過ぎ他界して大分たちますが、友人たちは同時代ですから、みな同じ地上を歩んでおります。 セレモニーで一切を解消というのは、それは難しい事ですね。 そんな法力のある尊格プロがいても、私はお尋ねはできません。 じっと抱いて、踏まえて、つまり祀りも鎮魂のこともできないまま、残り少なくなってきている人生を歩んでまいります。 いろいろありがとう御座いました。