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西ドイツへの亡命ルート
ベルリンの壁を越える人たちが印象に残っていますが、どうしてその方法を選んだんでしょうか。 私のイメージでしかないのですが、壁よりも警備の薄い国境はあったように思えます。 そういったルートを狙うとか他国を仲介して亡命する方が、厳重に警備されている壁を越えるよりもリスクが少なかったのではないでしょうか。
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- tanuki4u
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他国を仲介して亡命 ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF 東ドイツが一番保守的で、他の東欧諸国が先にゆるんだ。 んで、回りから溶解して、壁が崩れたというステップを踏んでいます。
- nemoax006
- ベストアンサー率14% (343/2433)
国境には対人地雷、対戦車地雷が埋まってる可能性がありました。いくら国民でも不用意に国境に近づけば射殺の危険性がありました。現在の38度線のようなものです。社会主義というのは現在の日本以上に見たり聞いたりしてはいけないものが多数ありました。唯一、ベルリンが西と東が接触していた場所です。 >他国を仲介して亡命する方が 他国とはどこをさすのでしょう、当時はNATOvsワルシャワ条約機構という2つの集団があり西側がNATO軍、東側をワルシャワ機構軍という集団があり、お互いの交通は厳しく制限されていました。また社会主義国では自国内の移動にも許可が必要で他国に旅行することなどできませんでした。社会主義国には自由と言う言葉はありません。
お礼
壁を越えることは安易な手段だと思ってましたけど、違うんですね 回答ありがとうございました。
- usami33
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ベルリンの壁は東西ドイツ国境にあるのではなく、東ドイツ内のベルリン市を東西に分けるために存在していました。 *結局は国境ですけどね このベルリン市も東は共産圏、西がアメリカ/イギリス/フランスが統治する自由圏となっていました。 壁は東の中の西ベルリンを囲むように周囲約165Kmとなり、シュプレー川周辺以外は同じように厳重に監視されていたそうです。
お礼
回答ありがとうございます。 西ベルリンは西ドイツの飛び地ではなかったんですね 165kmしかないならば警備の隙が他より無いのではないかと思ったんです。
- westberlin
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>壁よりも警備の薄い国境はあったように思えます 東西ドイツの国境地帯(東ドイツ側)は、幅数キロが無人地帯で地雷も埋めてあり警備が厳重で国境部分からの亡命はほぼ不可能でした。 詳しくは、このサイトをご覧になれば分かります。 http://www.mauer.jp/faq/faq02.html
お礼
壮絶ですね… とても参考になりました。ありがとうございます
お礼
陸続きだから簡単にという訳にはいかないんですね そういった背景があったとは知りませんでした。 回答ありがとうございました。