- ベストアンサー
「お水取り」の東大寺二月堂と「お水送り」の若狭の神宮寺は子午線上にあるのは偶然ですか。
二月堂と神宮寺とは、直線距離でざっと90kmほど離れていますが、二月堂の真北に神宮寺があります。 東経135度50分くらいの子午線上です。 「お水取り」の水をわざわざ「若狭の水」に限るのは、それなりの理由があると思います。 良弁和尚の生誕地が神宮寺近くだったからという説もありますが、生誕地は神奈川県という説もあるそうです。 真北(真南)に位置するのは偶然でしょうか、それとも何かの理由があるのでしょうか。 理由があるとすれば、当時の知識で「真北」をどのようにして決めたのでしょうか。 自説でも仮説でもかまいませんので、回答をよろしくお願いします。 小浜市のサイト「お水送り」 http://www.city.obama.fukui.jp/maturi/omizu.htm 東大寺のサイト「お水取り」 http://www.todaiji.or.jp/contents/function/02-03syunie3.html
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こんにちは。 二月堂の真北に神宮寺があるとは知りませんでした! おもしろいことを教えてくださってありがとうございます。 うーん、おそらく偶然ではないと思います。 昔の日本人は大変、陰陽道を重んじていたといいます。 陰陽道では方角などに大変こだわりますので。 例えば飛鳥に「聖なるライン」がありますね。 ご存知のことと思いますが 菖蒲池古墳・天武・持統陵・中尾山古墳・高松塚古墳・文武天皇陵・キトラ古墳と南北に一直線に並んでいるというものです。 http://homepage3.nifty.com/silver-moon/asuka/sacred.htm また法隆寺の伏蔵・鯛石を直線で結ぶとペンタクロス(二重五芒星)が描けるといいます。 http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/3681666.html このようなことは偶然ではありえなく、意図してそう作られたと考えた方が自然だと思います。 天智天皇陵は京都市東山区山科にありますが、これも聖なるライン上にあるそうです。 夜空を見上げると北に北極星がありますが 位置を変えない北極星は天の中心だと考えられたのではないでしょうか。 中国では北極星を神格化した神を天帝と呼び、 天帝を祀るのは天子の義務とされていたそうです。 http://hokuto.khaotic.info/chara/tentei.htm 北極星を神格化した神は妙見大菩薩ともいい、日本でもかつては天皇家だけに信仰することが許されていたといいます。 そこから飛鳥の「聖なるライン」を考えてみると 天智天皇が北極星、 などは北極星の周囲を回る星々に喩えられているのではないかと思えます。 この仮説が正しければ、菖蒲池古墳・中尾山古墳・高松塚古墳などは 天武系の皇族を葬った古墳であると考えられるかもしれません。 ご存知のように壬申の乱で天智天皇の皇子である大友皇子は天武天皇に負けました。 そのためそれ以降、天武系の天皇が続くことになります。 称徳天皇代で天武系の血は絶えてしまうのですが。 天武系の天皇〈天子)は天帝(妙見大菩薩)を祀る義務があった。 そうして祀られたのが天智天皇ではないかと 私は考えています。 つまり、天帝(妙見大菩薩)とは、前政権の支配者のことではないかと思うのです。 そこから考えると、東大寺は若狭に対して何かコンプレックスをもっており、 それゆえ若狭を天帝とみなしていたのではないか、と考えるのは トンデモ説ですかね~ 余談となりますが 若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が修二会に遅刻し そのお詫びに閼伽水を送ることを約束すると 二月堂の下の岩が割れ、白黒二羽の鵜とともに清水が湧き出たといいます。 東大寺の大仏建立の際、大仏に金アマルガム(金に水銀をまぜて溶かしたもの)を塗り、 水銀を加熱して蒸発させることで鍍金(金メッキ)をほどこしたそうです。 遠敷や二羽の鵜とは「丹生(ニュウ。丹とは水銀のこと)」の意味で、 お水取りのお松明は大仏に塗った金アマルガムの水銀を蒸発させる様子を 再現させたものではないかという説があるようです。 当時の人々が真北をどのように計測したのか についてはよくわかりません。他の人の回答を待ちたいと思います。 北極星を観測したのでしょうか。 それとも中国には方位磁石(指南之杓)があったそうですから 遣唐使によってそれが日本にもたらされていたのかもしれません。
その他の回答 (5)
返礼をありがとうございます。 >『和名抄』に「みずかね」とあるそうです。 >ずばり、「小丹生」が「遠敷」になったそうです。 >「水」に対しての「火」であるとする陰陽道からの解釈もありますね。 おーっ、回答する立場なのに逆に教えてもらっちゃって! なんか嬉しくてどうしてもお礼を言いたくなったので この場をかりてお礼を申し上げます。 ありがとうございました。 今後もよろしくお願いします。
お礼
何でも気にかかったことは聞いてみるものですね。 質問してよかったと思っています。 Takotakoqさんのように自説を展開される方の回答を待っていました。 自説を述べるには、回答文の何十倍もの知識が必要ですからね。 それに少々横道に逸れた回答もいいですね。 横道から新しい発見があり、それからまた疑問が生まれます。 やっぱり、子午線上は偶然かなと、疑問が解消するどころか、ますます解らないことが増えてしまったようです。 「偶然説」の回答がくるかも知れませんから、もう少し待ってから締め切るつもりです。 ほんとうにありがとうございました。
返礼ありがとうございます。 >ご教示いただきながら疑問を呈して恐縮ですが いやいや、そんなことないですよ。 ちょっと説明不足だったかな、と思っていたのです。 二月堂の御本尊はおっしゃるとおり十一面観音です。 大観音と小観音の二体があるそうですね、絶対秘仏だそうですが。 仏教にはいろいろなみほとけがおいでになりますね、 でも名前が違うだけで、実体は同じ、というみほとけがいらっしゃるように感じています。 例えば京都の三室戸寺の御本尊は千手観音だと伝わっています。 千手観音は普通十一面四十二臂ですが 三室戸寺の御本尊は二臂で法隆寺の救世観音によく似ています。 また薬師寺の修二会で毘沙門天が登場することを紹介しましたが 薬師寺の本堂では毘沙門天は祀っておらず 薬師三尊像を御本尊としています。 中央に薬師如来、中尊の左手に日光菩薩、右手に月光菩薩を配したものですね。 私はこの薬師三尊像の配置は陰陽道の宇宙観を現していると思っています。 陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうです。 (中尊からみた右左です。) 中央にあるというからには、その星とは北極星のことでしょう。 つまり、薬師如来は北極星を神格化したみほとけなのではないでしょうか。 さらに毘沙門天は北を司るみほとけなので、 薬師如来と毘沙門天は同体なのではないかと思うのです。 それから「水」ですが、これは「水銀=丹」のことなのではないでしょうか。 常温で液体という鉱物は珍しいです。 なので、水銀を水と言ったのではないかと。 (水銀を含んだ水が出てくる井戸だとしたら、飲んだら大変!) 若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)という名前は丹生を思わせます。 さらに「お水取り」は3月13日に行われていますが 3月1日~14日まで二月堂ではお松明も行われています。 私にはこの一連の行事は水銀を汲んで、鍍金をする作業に見えます。 goo-par1732さんの 大陸との窓口となる若狭の方が開けており、大きな勢力をもっていたのではないか、 というのはありえると思います。 だから若狭にコンプレックスを持っていた聖武天皇が その南に東大寺をたてた、とも考えられると思います。 その上で水銀もそこから調達していたのではないか、 と思います。 若狭については興味を持っていますがまだ勉強不足でして・・・ >毘沙門天信仰と鉱山が結びつくのは、もう少し時代が下がるように思いますが、そうではなく、この時代から結びついていたのかも知れません。 毘沙門天信仰の最も古い寺院は奈良県の朝護孫子寺だと思います。 聖徳太子が開基です。 ここの本堂に坑道をあらわすムカデが掘ってあります。 また奈良時代、元明天皇代に秩父で銅が採掘され そこに聖明神社が創建された際、元明天皇から和銅を原料にして造られた銅のムカデが下賜されています。 http://www.kumagaya.or.jp/~sizensi/print/dayori/18/18_2.html このようなことから毘沙門天は鉱山の神であるといった信仰は 奈良時代すでにあったのではないかと私は考えています。 ま~、とはいっても自説にすぎないので参考程度にして下さい。 とても面白い質問でたいへん勉強になりました。 ありがとうございました。
お礼
>また奈良時代、元明天皇代に秩父で銅が採掘され、そこに聖明神社が創建された際、元明天皇から和銅を原料にして造られた銅のムカデが下賜されています。 なんと、そんなに古くからですか! 毘沙門天信仰が鉱山と関係があり、ムカデを神聖視していたのが! ご教示のURLは大変参考になりました。 >それから「水」ですが、これは「水銀=丹」のことなのではないでしょうか。 常温で液体という鉱物は珍しいです。 なので、水銀を水と言ったのではないかと。 疑り深い私は、では当時「水銀」という言葉が使われていたのかと、調べてみました。 『和名抄』に「みずかね」とあるそうです。 「水」につながりますね。 大仏建立で多量の水銀が使われたので、水源が汚染され、清らかな水を「なぜか」若狭に求めたのではないかと思っています。 >若狭彦神社の遠敷明神(おにゅうみょうじん)という名前は丹生を思わせます。 ずばり、「小丹生」が「遠敷」になったそうです。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/pegma/niu.html >つまり、薬師如来は北極星を神格化したみほとけなのではないでしょうか。 さらに毘沙門天は北を司るみほとけなので、薬師如来と毘沙門天は同体なのではないかと 思うのです。 宿題として心に留めておきます。 松明で水銀を乾燥させて金メッキの仕上がりを早めたことは記録にありますから、「お松明」行事として今に伝わっているというtakotakoqさんの説には同感です。 しかし、「水」に対しての「火」であるとする陰陽道からの解釈もありますね。 お陰さまで幅広く「お水取り」を知ることができました。 ありがとうございます。
- mrsakikaor
- ベストアンサー率21% (5/23)
真北をどうやって決めたのか。 これは真南をどうやって決めたのかと同様に求められるのではないでしょうか。 一本の柱と太陽の光が作る影を記録し、二等辺三角形ができれば、その中線が真南を指すし、真北を指すはずです。同様に、定点をしっかり決めて、北極星を観察し続けて、そのぶれの中線を見つければ、真北を指すはずです。 私の住む町には、古い道が作る長方形があります。6丁区画なので、国府の地と推定する向きもあります。その移転(設営)の時期からすると、奈良時代の末か平安初めです。 また、いつのことか判らないですが、東西線をたどった形跡があります。伊勢神宮から真西にたどると、女人高野の室生寺の奥院、二上山、白鳥塚になるようです。このほうがたどるプロセスは大変そうに見えますが、実際に、そこにあります。 さらにまた、ある地点(神社など)から、冬至の日の出の線上の神社、夏至の日の出の線上の神社がある可能性があります。こうしたものは、経験知からその地に固有の線が描けるのだと思います。山があると平面上の線とは異なるはずですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 太陽が作る影で南北の方角を決めることができるということは理解できました。 また、「日の出」の方角が季節によって異なるということも当時の人びとは経験知として知っていたと思います。 山という大きな障害物を越えて、どのようにして「北」の方角を定めたのかが疑問です。 当時の人びとは現代人よりはるかに身軽だったから、いくつかの山を越えてひたすら「北」を目指したと想像するしかないのでしょうか。 >伊勢神宮から真西にたどると、女人高野の室生寺の奥院、二上山、白鳥塚になるようです。このほうがたどるプロセスは大変そうに見えますが、実際に、そこにあります。 何かの雑誌で随分前に読みました。 たしか「太陽の道」と呼んでいたはずで、検索すれば出てきました。 結論はどうなったのか知りません。 私の質問の「真北」もこの「太陽の道」も、やはり偶然なのでしょうか。 「偶然説」を主張される方の回答を待ちたいと思います。
No.1です。 今、もうひとつ仮説が思い浮かびました。 北を司るみほとけは毘沙門天ですが 毘沙門天はもとはインドの神・クベーラで クベーラは財宝をつかさどる神であったそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E6%B2%99%E9%96%80%E5%A4%A9 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A9 クベーラは夜叉を使役して鉱物を採掘させていたとされます。 ムカデは毘沙門天の使いとされていますが ムカデとは鉱山の坑道を意味しているそうで 鉱山のある地域ではムカデは神様なので殺してはいけない、などと している地域もあるようです。 東大寺の西に薬師寺があり、ここでも修二会〈花会式)が行われています。 本堂前に舞台を作り、四隅に松明を点灯し、 鬼がこれを降って大暴れするのを最後は毘沙門天が出てきて法力で 退治します。 http://blogs.yahoo.co.jp/nonbay55/17301712.html 薬師寺のみほとけはブロンズの薬師三尊像です。 薬師寺の修二会を見て、 あー、これは鋳造してブロンズのみほとけを作っているところじゃないか、と思いました。 二月堂の修二会のお松明はやはり仏像に鍍金をしているさまを表しているのだと思います。 人々は大仏を作成するにあたり、鉱山の神・毘沙門天に祈りを捧げたのではないでしょうか。 さらに毘沙門天は四天王の一で北を司るみほとけです。 それゆえ、お水送りの地として 丹が採れ、さらに二月堂の真北にある地域を選んだ。 という説はいかがでしょうか。 説明が下手でもうしわけないんだけども。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 >人々は大仏を作成するにあたり、鉱山の神・毘沙門天に祈りを捧げたのではないでしょうか。 さらに毘沙門天は四天王の一で北を司るみほとけです。 それゆえ、お水送りの地として丹が採れ、さらに二月堂の真北にある地域を選んだ。 という説はいかがでしょうか。 手元にある『歴史散歩事典』によれば、 「四天王の信仰は飛鳥時代からあり、(略)もっともさかんだったのは奈良時代後期で、東大寺戒壇院の四天王立像は芸術的にも価値の高いものである。」とあります。 大仏建立の時期とも合っており、毘沙門天につながるという推理については、なるほどと納得もしますが、疑問もあります。 ご教示いただきながら疑問を呈して恐縮ですが、毘沙門天は脇役だと思うのです。 主役は本尊の十一面観音菩薩で、このみほとけに供える御香水を汲むという秘儀の行事が「お水取り」ですので、私としましては北の方角を司る毘沙門天が「丹」につながるより「水」につながる方が都合がよいのですが…。 また、毘沙門天信仰と鉱山が結びつくのは、もう少し時代が下がるように思いますが、そうではなく、この時代から結びついていたのかも知れません。 お陰さまでじっくりと考えることができました。 知らないことがいっぱい出てきて、ますますこんがらがってきています。
- Ligandable
- ベストアンサー率63% (371/583)
おおっと,タイトル「…若狭の神宮寺は子午線上にあるのは偶然ですか。」に釣られてきてしまったのですが,子午線が問題ではなかったのですね。子午線はご存じの通り,イギリスのグリニッジ天文台を起点としており,日本の神道とは無関係です。 で,takotakoq様勉強になりました。ありがとうございました。時々,妙見様の裏側を見て回るクセがありまして・・・ただ,私が見つけたいものと,妙見様の南北の位置関係は無いように感じています。 横車ご寛恕
お礼
十二支の「子」の方角は真北、「午」の方角は真南を指していますから子午線上と表現しました。 ご回答ありがとうございました。
お礼
大変興味深い見解を示して下さいまして、とても嬉しい限りです。 私は、疑り深いイヤラシイ性格なので、「そうかな?」「なるほど」など独り言連発で「精読」しました。 内容の濃いご回答なので、理解するのに時間がかかりましたが、楽しい一日でした。 >そこから考えると、東大寺は若狭に対して何かコンプレックスをもっており、 それゆえ若狭を天帝とみなしていたのではないか、と考えるのはトンデモ説ですかね~ トンデモ説だなんて、トンデモないです。 「何かコンプレックスをもっている」については共感しますね。 私のトンデモ説ですが、大陸との窓口となる若狭の方が開けており、大きな勢力をもっていたのではないか、という疑問です。 「水を送る」ということは、東大寺に服従したという意味だと思っています。 なお、北極星を天帝と見なす説については、吉野裕子さんの著書である程度理解しています。 ご紹介くださった臼井正氏のHP「銀月の部屋」はいいですねぇ。 飛鳥の聖なるラインは知りませんでした。 専門家が取り上げて研究されているのですね。 このHP内の「平安京プロジェクト」は読み応えがありますね。大変参考になります。 磁北と真の北とは異なりますから平安京の都市計画に方位磁石を使用していないという推理に納得しました。 北極星で方位を決めるとすれば夜間作業になると思うのですが、平地ならともかく、奈良と若狭の間には大きな高い山がありますから、いったいどうやって「子」「午」を求めたのか、太陽の作る影から求めたとしても、昔の人びとの考えはすばらしいなぁと感嘆することしきりです。 ご回答ありがとうございました。