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中世東大寺の検断規式の有無
西大寺の「敷地四至内検断規式」(貞治六年八月)で 郷民も評定に加えることが明記されていますが、 東大寺でも、このような規式は、あるのでしょうか? 「盗人罪科記録」で検断の実態は把握できますが、郷民が参加したのかどうかというのは置文にでも記載されているのでしょうか?それとも東大寺は領民を「東大寺の寺奴」「一円進止の土民」として直接統治をしていたので、西大寺のように民主的ではなかったのでしょうか? 東大寺でも村民が参加するという集議があったのかどうかを知りたいのです。よろしくお願いします。
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- moto_koukousei
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無学で知らないのですが、webでみると、単に同意連署させられただけのような感じの記載がありました。 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/18/saiho_NARAKE~1.HTM 「西大寺旧記実録五之上」:「右、条々竪守此旨、不可違背、為未来亀鏡加評定/所定置之状如件」、春行寥源以下十名署判アリ){延文三年十二月廿五日西大寺領森屋荘所務条々置文} 「西大寺旧記五下」:「在判/定置/西大寺敷地四至内検断規式条々/一殺害事/」、(書止)「仍為後代加署判之/状如件、」、寥源以下十名署判){貞治六年八月日西大寺四至内検断式} 同意連署、連判のようなことは、関係者の利害調整の場合、あるいは決まりを作る・守ることの確約の場では、いつの時代にもあったのではないですか。 「集議」するのと、連署する手法を採ることとは、違うように思います。 鎌倉期の頃は、政治家(上皇、貴族、武家、僧侶)も、個性も意思もとても強くて、周囲にとても強引に振る舞うようでなければ、活躍はできなかったと理解しています。 日蓮から「律国賊」と批判されたほど戒律に厳しい叡尊が、荒廃していた西大寺の復興に全力を注いで、それから勢いをつけ寺領拡大の時期が、貞治六年ですから、西大寺で民主的?などのことはしていないのでしょう。